愛好家の標本がピンチ

愛好家の標本がピンチ
博物館に並ぶチョウやカブトムシなどの昆虫の標本。

実は、愛好家が趣味で作ったものがたくさんあるということを知っていますか。

「その趣味、本格的すぎない?」

どちらかというと虫は苦手な私ですが、その精巧さに驚き、愛好家の標本作りを取材することにしました。

見えてきたのは、地域の生態系の研究を支えてきた愛好家たちの標本が、今、失われる危機にあるという現状でした。

(高知放送局記者 林沙也香)

標本作りの達人夫婦に密着

私が訪ねたのは、昆虫の魅力にハマり50年以上も採集し続けてきた高知市の宮田隆輔さん(82)と俊江さん(82)夫妻。

夫婦二人三脚で高知県を中心に昆虫を集め、そのコレクションは、自宅にあるだけでも標本箱80箱以上に上ります。
中でも熱心に集めたのが、体長わずか2ミリほどの小さな昆虫「アリヅカムシ」です。

最も小さい種類では0.5ミリ。

そんな小さな虫をいったいどうやって標本にするのか。

標本作りの様子を見せてもらいました。
標本作りはまず、虫を捕まえるところから始まります。

アリヅカムシは土の中にすんでいるので、規制などのない場所で土を取ってきます。
どこの土を取るかは、長年培ってきた2人の勘。

経験を積む中で、どこにいるのか少しずつ分かるようになったといいます。

さて、本当にこの土の中に虫がいるのでしょうか。
家に帰ったらまず土をザルに入れ、そのまま数日間待ちます。

アリヅカムシが自ら動いてザルの下に落ちるのを待つのです。

1日から2日で見つけられることもあれば、1週間たってようやく落ちてくることもあるそうです。

そこは虫任せ、タイミングは「虫のみぞ知る」です。
虫を捕まえたらプラスチック容器に入れて冷凍庫で2~3時間凍らせます。

薬品を使う方法もありますが、虫の形や本来の色を残すために使わないのが宮田さん夫妻のこだわりです。
次に、種類を見分けます。

同じアリヅカムシでも、触角の形が違ったり、脚の形が違ったりと、種類はいろいろ。

それを一つ一つ、顕微鏡を使って見分けます。
特に注意するのは、脚の付け根です。

特徴がよく現れるそうです。

このピンセットは、なんと先端が0.02ミリ。

この作業がもっとも大変だといいます。
俊江さん
「息で虫が飛んじゃう。かなり息を詰めてやらないといけないんです」
分類ができたら、脚や触覚をしっかりとのばし、形を整えながらのり付けしていきます。

分類の表示を付けて完成です。

地道な作業で新種を発見!

宮田さん夫妻がアリヅカムシに注目したのは約20年前。

当時、図鑑にも情報が少なく、分類は自分たちの力でやるしかなかったといいます。

肉眼で見分けがつかないときには、写真を撮って拡大し、見比べました。
地道な観察を続け、少しずつ少しずつ分類していった2人。

これまでに約50種の新種を発見したということです。

きっかけは迷いカミキリムシ

そもそも2人はなぜこんなにも昆虫にハマってしまったのか。

きっかけは、2人がまだ20代のころ、家のふすまに張り付いていたカミキリムシです。

最初は蜂かと思いましたが、よく見ると蜂ではない。

いったいこの虫の正体は何なのか。

気になった2人は図鑑を買って調べることにしました。

虫は「キスジトラカミキリ」だと分かりましたが、その時、図鑑に載っている昆虫の種類の多さに驚きました。

「高知の昆虫を全部見てやろうじゃないか」

そう思った宮田さん夫妻は、鍛冶屋さんを営むかたわら、休みの日や仕事終わりに昆虫採集に出かけるようになりました。
宮田隆輔さん 俊江さん
「採っているうちにだんだんのめり込んじゃいました。あの手この手で採る場所を考えてやってみると、違う虫が見つかるのでおもしろいですね。今まで世の中に出てないものを見つけて、記録としても残るので、虫のためにもいいんじゃないかなぁと思っています」

愛好家が研究を支える

実は、宮田さん夫妻のような愛好家は全国各地にいて、それぞれの地域で活動しているということです。

専門家は、愛好家の活動が研究には欠かせないといいます。
東京大学総合研究博物館 矢後勝也助教
「国内には昆虫など生き物の標本を作って集めている愛好家がたくさんいて、地域の生態系の研究を支えてきた側面があります。地域で標本を集積して過去の変遷を調べることで生態系の破壊や地球温暖化、外来種問題などあらゆる環境の変化を科学的に解明できるんです」

「私たちのような研究者は人数も限られていて、日本全国の状況は調べきれません。全国的にさまざまな愛好家がいることで、生物の分布状況を私たちも把握することができるし、継続的にその変化を知ることができています」
矢後助教によりますと、愛好家は、現在70代のいわゆる団塊の世代に多いといいます。

背景にあるのは、子どものころの教育です。

団塊の世代が子どもだった1950年代から60年代は、身近な自然を学ぼうという風潮が強く、学校教育で昆虫採集がよく取り上げられていたということです。

夏休みの自由研究で昆虫の標本を持ち込む子どもが多かった時代。

かつて虫を追いかけていた子どもが、いまも愛好家として標本作りに取り組んでいるのです。

また、別の専門家は「1970年代から国内で公害問題が深刻になり、自然が失われていくという危機感から、今ある自然を記録として残そうという風潮が強まったのではないか」と話しています。

標本が捨てられる!?行き場を失った標本たち

ところが、こうした標本が今、失われる危機にあるといいます。

愛好家が高齢化し、コレクションを管理しきれなくなっているというのです。

全国の博物館には、高齢になった愛好家や亡くなった愛好家の家族から標本の受け入れを依頼する相談が相次いでいます。

私が取材しただけでも高知や徳島、大阪、千葉、群馬、静岡の博物館のほか、日本有数の標本の収蔵量を誇る九州大学でも愛好家たちから毎年相談があるということです。

標本には、形や遺伝子など実物そのものでなければ得られない情報があります。

特にアリヅカムシのような小型の虫の場合は、そもそも分類をするために標本が不可欠だといいます。

博物館などとの関わりが薄い愛好家は相談できずに、貴重な標本がその価値に気付いてもらえないまま失われてしまうのではないかと危惧されています。
標本を保存していく一番の方法は、博物館に寄贈することだといいます。

しかし、標本を受け入れる博物館側にも課題があります。

多くの博物館では、収蔵スペースが足りず、十分に標本を受け入れることができないのです。

日本博物館協会が令和元年に行った調査では、回答があった2000を超える全国の博物館や美術館などの施設のうち、半分以上が、収蔵庫が「ほぼ、満杯の状態」あるいは「収蔵庫に入りきらない資料がある」と答えています。

標本を救え!

この問題に取り組もうと立ち上がった人がいます。

高知県越知町の横倉山自然の森博物館の学芸員、谷地森秀二さんです。

多くの貴重な標本が失われてしまうことに危機感を募らせた谷地森さんは、県内の愛好家を訪ねて、標本の種類や量、状態の調査を行うことにしました。
標本の量や種類を事前に把握することで、今後、博物館などへの寄贈を計画的に行えるのではないかと考えたのです。

数十か所を訪ねて調べた結果、県内には合わせて6万点を超えるさまざまな種類の生き物の標本が点在していることが分かりました。

中には今のまま管理を続けていくことが難しくなっているものもあるということです。

谷地森さんが強調するのは、標本を地元に残すことの意義です。

標本が全国各地に散ってしまうと、それぞれの地域で生態系の調査をしている人たちがアクセスしにくくなってしまいます。

蓄えられた貴重な資料やデータを今後も生かしていくためにも、それぞれの地域に残したいと考えています。
横倉山自然の森博物館 学芸員 谷地森秀二さん
「最近、特に昆虫の標本について、お持ちの方の高齢化が進んでいる。これから10年先と考えた場合に、今と同じように標本が残っているのかどうか、極めて怪しい状態になっていると感じています。今後、高知県の自然を研究したいと思った人たちが高知県で研究を続けられるように、何とか地元に貴重な標本を残していけるようにしたい」
標本の保存に向けた動きは、ほかの地域でも始まっています。

東京都は、3年前に、都内に点在する標本などの自然環境に関する資料がどこに保管されているのか調査しました。

中には愛好家が管理している例も見つかったということで、資料の状態や種類などを含めて、情報を整理していく方針です。

虫、意外とおもしろいかも…!

これまで正直、虫は苦手だった私。

宮田さん夫妻や専門家の皆さんへの取材を通して、虫の体が小さいながらもとても精巧にできていることや、その小さな虫の研究が、日本、そして、地球の環境を知ることにつながっているということのおもしろさを知ることができました。

このおもしろさや研究の意味を少しでもたくさんの人に知ってもらい、標本の保存について考えていく必要があると感じました。
高知放送局記者
林沙也香

2021年入局
警察・司法担当
事件や事故の取材にあたるとともに、自然豊かな高知県を駆け回り、地域の課題や魅力を発信中