WEB特集

ヤングケアラーが直面する現実 「ずっと誰かに頼りたかった」

卒業アルバムは、希望すれば買うことはできました。でも、自分から断りました。自分の写真が無いのはわかっていたからです。何より、学校に思い出がありませんでした。
学校に通わなかったのは、「大好きな母親の介護」のため。誰かに頼れるなら頼りたい。そう思ってきましたが、どうしたらいいのか、幼い彼女にはわかりませんでした。
(甲府放送局記者 木原規衣)

大人びた少女

高校2年生だという彼女は、おしゃれやメイクを楽しみ、どこにでもいるような女子高校生に見えました。でも、ことばを交わしてみると、外見よりもずっと大人びた感じがしました。
「そんなに困ってないです」

およそ10年間続けている、母親の介護やケアについて、彼女はそう話しました。数年前からはホームヘルパーが毎日2時間来てもらえるようになりましたが、それ以前は、彼女が介護やケアだけでなく、料理、洗濯、掃除といった家事の多くを担ってきました。

それでも「困っていない」と話す彼女。その理由は、そんな生活が「日常だったから」と話しました。

楽しく幸せなお母さんとの暮らし

彼女の名前は、はるなさん(仮名・17歳)。山梨県内で、母親と2人で暮らし、いまは通信制の高校に通っています。
はるなさんが幼い頃は、祖母も一緒に暮らしていました。母親や祖母が料理を作っていると、そばで眺めたり、手伝ったりするのが好きだったといいます。

小学校に上がる頃、祖母と暮らす家から引っ越すことになり、母親と2人での暮らしが始まりました。料理、洗濯、掃除をしている母親を見ると、言われなくても手伝いました。

暮らしぶりは決してよくはありませんでしたが、大好きな母親との2人だけの暮らしは、はるなさんにとって、楽しく幸せな時間でした。

難病を抱え、精神的に不安定だった母親

しかし、母親はもともと精神的に不安定で、体調のすぐれないことが多い状態でした。さらに、はるなさんが小学2年生になったころ、歩くことができなくなり、ほぼ寝たきりの生活になりました。

全身の関節の骨が壊死していく難病でした。将来への不安を抱えた母親は、はるなさんが小学校4年生ごろまで何度も自傷行為を繰り返しました。あるとき、母親が刃物で自分を傷つけひどく血を流したため救急車を呼びました。
運ばれていく母親を見ながら、はるなさんは頭が真っ白になっていました。救急隊員に「大丈夫?」と声をかけられましたが、答えることができませんでした。

そんなことが繰り返し続きましたが、それでもはるなさんは母親の病院の送り迎えに付いて行ったり、母親の話し相手になったりしました。

小さいころに見た母親や祖母の料理を見よう見まねで作り、洗濯や掃除をしました。寝たきりの母親を見ながら、ひとり、自分で作った食事を食べていると、ふと寂しさを感じることもありました。でもそんなときは、心の中で、こう自分に言い聞かせました。

「これが自分の家だからしかたないんだ」

友だちとは違う、自分の生活

介護やケア、それに家事が生活の中心になっていきましたが、母親とのおしゃべりは、はるなさんにとって心安まる時間でした。

小学校であったうれしかったことや友だちとのこと。そんなささいなことでしたが、母親の笑顔を見るのがうれしくて、なんでも話してしまいました。

しかし、小学4年生の頃、母親の体調が悪くなった時期が続き、はるなさんは、学校から帰ってきても、母親に話しかけることができませんでした。寝ている母親は起こさずに、寂しい気持ちを、ぐっとこらえました。

またあるとき、友だちの家に遊びに行くと、友だちの母親がジュースを出してくれました。ふと、自分の家を思い浮かべ「自分の生活は友だちと違うんだな」と思ったといいます。

だからといって、ほかの家の暮らしに憧れていたわけではありません。

「自分の家は、ほかの家と違うだけ」

はるなさんは、そう思うようにしました。

母親のため、学校に通わない

「しかたないんだ」

介護やケアを担い、学校を休む日が多かったはるなさんは、ずっとこう思ってきました。つらいと感じるときがあっても、口には出しませんでした。

それでも、中学生になると、自分の気持ちや体をコントロールできなくなることが増えていきました。

体調は一向によくならず、夜早くに寝てしまう母親。静まりかえった家の中で、ひとり宿題をしていると、なぜだか涙が止まりませんでした。眠りたくても眠れない日も多くなっていきました。中学校に行っても、突然倒れてしまうようにもなりました。
一方で母親は、そのころも頻繁に自傷行為を繰り返していました。自分の体のこと以上に、母親のことが心配。自分が家を離れている間に何かあったらどうしよう。

はるなさんは、自分自身の体調のこともありましたが、母親のことを一番に優先するため、ほとんど学校に通わなくなりました。

ずっと誰かに頼りたかった

はるなさんは、この間、ずっと誰かに頼りたいと心の中で思ってきました。頼れるのは母親だけ。でも、母親の病状は一向によくならない。ずっと、不安でたまりませんでした。

小学生の頃から、ケアマネージャーやホームヘルパーの人たちとの関わりはありました。自分の気持ちを聞いてもらいたい。そう思っていても「家族ができることは全部やってね」「身体介助もできるよね」と一方的に言われたといいます。
「私はまだ子どもで、全部をやることなんてできないのに」
はるなさんは、そう思いながら「できません」と口に出すことはできませんでした。そんな大人のことばを何度も聞くうち、頼ることは諦めるようになっていました。

もっとまわりに頼っていい

中学1年生のとき、はるなさんの話を親身になって聞いてくれる人たちに出会います。子どもたちの生活や学習の支援をしているNPO法人「こどもサポートやまなし」です。

母親の友人に紹介してもらったその団体の人たちは、はるなさんと母親の話にじっくり耳を傾けてくれました。はるなさんの置かれている現状、思い、母親の病状、母親の正直な気持ちといったことを繰り返し繰り返し聞いてくれました。
「どうせ誰かに頼ったってしかたない」

そう思っていたはるなさんは、少しずつ介護やケア、家のことなどで困ったことがあると、支援団体の人たちに相談するようになりました。

そうすると、これまで母親のことだけを考えてきたはるなさんの中で、大学への進学のこと、その先の将来のことを考える余裕が出てきました。
団体の支援を受け始めて4年。月1回ほど、団体の学習支援を受け、同世代の子どもたちと話せるのが楽しみです。また、その時間は「介護やケアのことを考えなくてもいいんだ」と思えるようになり、心が少し軽くなったように感じているともいいます。
ホームヘルパーに毎日来てもらっていますが、月に2、3度ある母親の通院には、いまも通信制の学校を休んで付き添っています。それでも、今、はるなさんは、母親との暮らしを前向きに捉えられるようになっています。
はるなさん
「お母さんの介護やケアをしてきてよかったのは、世の中のことを知ることができたこと、同級生よりも料理や家事ができること。お母さんとは、これからも一緒に生きていきたいと思っています。もし私と同じような境遇の子がいたら『もっとまわりを頼った方がいいよ』と伝えたいと思っています」

介護やケア以外の人生も想像できるように

はるなさんは、いわゆる「ヤングケアラー」です。彼女が言っていたように、はるなさんにとって母親の介護やケアは「日常」でした。専門家は「介護が日常化していくと、それ以外の生活や人生を想像できない状況になっていく」と話します。
今はるなさんは、みずからの経験を生かして、臨床心理士の資格を取得するため、大学進学を目指しています。
子どもたちが、自分たち自身の将来を想像し、そのための選択ができるように。今もどこかで親や家族の介護やケアを担う子どもたちの支援はどうあるべきなのか、引き続き取材をしていきたいと思います。
甲府放送局記者
木原 規衣
2018年入局
現在 山梨県政や
甲府市政を担当。
ひきこもりや
子どもの貧困問題を
精力的に取材

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