「もしもし」が聞きたくて ~若年性認知症になった母とぼく~

「もしもし」が聞きたくて ~若年性認知症になった母とぼく~
中学校が終わると毎日、自宅の電話を鳴らしました。

「もしもし」と電話に出る母親が、そのときだけは以前に戻ったように感じたからです。

40代で発症した母の認知症はかなり進行していました。

息子の私すら忘れてしまったことに腹が立ち、突き飛ばしたこともあります。

でもその罪悪感が私の生き方を変えたのです。
若年性認知症の母を支えてきた康弘さん(48)が、幼い頃からの日々を語ってくれました。

小学5年生 感じた異変

自慢の母親でした。
陸上の元国体選手で、誰にでも優しく、よく笑う明るい性格で。

そんな母に異変を感じたのは、小学5年生のときです。

一緒にショッピングセンターを訪れたとき、おもちゃを見ていたらはぐれてしまいました。
いくら捜しても見つからないので困って家に電話すると、母はすでに帰っていました。

「どうしてぼくを置いていったの」

尋ねても、状況がよくわかりません。
私を連れてきたことを忘れて帰ってしまったようでした。

鏡に向かって独り言を言うことも増えました。

のちに「若年性アルツハイマー病」と診断されますが、当時の私は病気のことがよくわかっておらず、「お母さんがおかしくなってしまった」としか思えなかったです。

中学生 はいかいする母を連れて帰る日々

中学生になると母の状態は悪化し、はいかいすることが増えました。

水産会社を経営していた父は夜遅くまで帰ってきません。
姉は結婚して家を出て、兄も県外の大学に進学したので、父が帰るまでの母のケアは私がひとりで担う形です。

学校から帰ると、出かけたまま帰ってこない母を捜して連れて帰るのが日課でした。
行く場所はだいたい決まっていました。

引っ越す前に住んでいた家です。
いつもその家の前で途方に暮れたようにたたずんでいました。

母の手を引いて帰る途中に見た夕焼けの空。
切ない気持ちになった今でも忘れられない光景です。
母は引っ越した家に慣れず、トイレの位置を覚えられませんでした。
ごみ箱に袋をセットして排せつすることもあり、それを片づけるのも私の役目でした。

毎晩、隣の部屋で鏡に向かって怒ったり泣いたりしていた母。

私は耳栓をしてひたすら勉強に集中しました。
別に勉強が好きだったわけではありません。

母の声を聞かずに、つらい現実を少しでも忘れたかったのです。

ぼくのことを忘れた母への怒り

学校では、母のことがばれないように必死でした。

どうせわかってもらえないだろうと思って心を閉ざし、私生活を隠すため会話もあまりしなくなったので孤独になりました。

どうして自分だけこんなつらい目にあうんだろう。

同級生たちを妬みました。

でも父に打ち明けたところで余計に負担をかけてしまうと思い、何も言えませんでした。
そんな中で何よりショックだったのは、母が私のことを忘れてしまったことです。

「お母さん」と声をかけると振り向きますが、視線は宙を泳いでいました。
それを目の当たりにすると感情的になってしまい、「どうしてわからないんだ」と突き飛ばしたこともあります。

当時は、自分の子どもの顔を忘れてしまう母親が悪いとしか思えなかったのです。

母は目に涙を浮かべて震えていました。
今考えれば、“知らない”少年からどなられて暴力を振るわれるのは、本当に怖かったと思います。

電話越しに会えた“以前の母親”

そんな母が以前に戻ったと感じることがありました。

ある日、自宅に2人でいた時に鳴った電話。
母はわれに返ったように「もしもし」と受話器をとりました。

その姿を見たとき、「私のことを覚えていたときのお母さんに戻った」と感じたんです。

それからは学校が終わると毎日のように家の電話を鳴らしました。

受話器を取る一瞬だけでしたが、私にとっては以前の母と会える大切な時間でうれしくて何度もかけたのを覚えています。

たったひと言、「もしもし」が聞きたくて

高校3年生 母との別れ

高校1年のときに母は精神科病院に入院し、介護は終わります。

やっと終わったとほっとする一方で、そう感じる自分はなんてひどい人間なんだろうと思いました。

お見舞いには家族と一緒に行きましたが、次第に足が遠のきました。
弱っていく母を見たくなかったし、私が誰かわかってもらえないのがつらかったからです。
高校3年の春休み。
県外の大学に進学することを報告するため、初めてひとりで会いに行きました。

車椅子に乗った母に話しかけます。
「遠くに行っちゃうよ、もう会えないかもしれないよ」

何もわからない様子でしたが、母の肩を抱くと涙があふれてきました。

それからしばらくして、母は亡くなりました。

消えなかった罪悪感

母親が亡くなるまでの経験を語ってくれた美齊津康弘さん(48)。

大学卒業後は、大学で始めたアメリカンフットボールの実業団に入りました。
国体選手だった母親の運動神経を受け継いだのか足が速かったといいます。

ところが20代の半ばから、夜寝ていると母を突き飛ばした場面を思い出して目を覚ますようになりました。

母に対する思いは自分の中で消化できていると思っていましたが、罪悪感がずっと消えなかったのです。
康弘さん
「1番よく思い出したのが、暗い部屋の蛍光灯の下で母親を突き飛ばした場面です。何度もそのシーンがよみがえってきて、うなされて目を覚ますことが続きました」

母に許してもらいたい…介護の道に

そこで始めたのが介護施設でのボランティアです。
教会にも通いました。

「母に許してもらって少しでも楽になりたい」

そんな気持ちが少なからずあったといいます。

実業団を引退したあとは、自分と同じように家族で介護をする人たちを支えたいと思うようになり、現在は、居宅介護支援事業所でケアマネージャーを務めています。

康弘さんは今の仕事について、“母親に与えられた使命”ではないかと感じています。
康弘さん
「母親への罪滅ぼし、せめてもの償いでもありますし、在宅介護で苦しんでいる昔の自分のような家族の力になりたいとケアマネージャーの仕事を選びました。ケアマネージャーとして今この時代に生きているというのは、母が与えてくれた使命なのかなと感じています」

専門家 「若年性認知症 子どもへの影響は」

18歳以上65歳未満で発症する「若年性認知症」の患者は、全国に3万5000人余りいると推計されています。(東京都健康長寿医療センター)

若年性認知症の親のケアを担う「子どもへの影響」について、日本ケアラー連盟の理事で、立教大学コミュニティ福祉学部助教の田中悠美子さんは次のように指摘します。
日本ケアラー連盟理事・立教大学 田中悠美子助教
「若年性認知症は若くして認知機能が低下するので、見た目が元気だと認知症だと気づきにくく、気づいたときにはかなり進行していることがあります。

親が仕事を続けられなくなって経済的な影響で子どもが進路選択で戸惑ったり、ケアに負担がかかり学業を続けるのが難しくなったりするケースも。認知症が進行してできないことが増えていく親の姿を見ることは、心理的にもショックを受けてしまいます」
こうした子どもに対して、周囲の大人はどう接したらいいんでしょうか。
「ケアを担っていることを過度に褒める必要はありませんが、まずは子ども自身を肯定してあげることが大切です。

親のケアがあるのでしかたないと諦めてしまう子もいるので、いろいろな選択肢を示すことができる大人の存在はとても重要で、『ここはほかの人にお願いすると自分の時間を2時間作れるよ』などと提案しながら、子どもらしい時間をどうしたら作れるのか一緒に考えていけるといいと思います」

ピアサポートでつながる

田中さんは、若年性認知症の親を持つ子ども世代に向けて情報発信もしています。

「若年性認知症 Information for children」というウェブサイトを立ち上げたほか、ピアサポートグループを運営して交流の場を作っています。

自身の経験を話し合う場が大切だといいます。
日本ケアラー連盟理事・立教大学 田中悠美子助教
ピアサポートという形で同じ境遇の仲間同士で話す場があると、例えば、はいかいの症状について『うちはあそこまで行ったよ』と自分の経験を話すことで、『それわかる、わかる』と参加者の間で共感が高まります。今はまだ話したくないという人もいつでも参加できる体制をつくっていければと考えています」

取材後記

康弘さんは「ヤングケアラー」という言葉を2年ほど前に初めて知り、自分もそうだったのかもしれないと思ったそうです。
そしてNHKの特設サイトに経験談を寄せてくれたのが取材のきっかけでした。

取材した内容を9月に放送したあと、康弘さんは次のようなメッセージを寄せてくれました。
中学生の頃から35年間、自分を守るために覆い隠してきた本心を表出する初めての機会となりました。(放送を)見終わったあと、「私の人生に大きな影響を与えた出来事が今やっと終わった」という何とも言えない安堵感に満たされました。
今回の取材を通して、子どものときのケアラーとしての経験が、その後の人生に大きな影響を与えることがあると改めてわかりました。

子どもが家族の介護を担う期間だけでなく、介護が終わったあとについてもどんな支援が必要なのか、引き続き取材していきたいと思います。
首都圏局 記者
氏家寛子
2010年入局
岡山局、新潟局などを経て首都圏局
医療・教育分野を中心に幅広く取材