ビジネス特集

本社の言うことは聞くな ~キリン布施社長が残したもの~

9月に急逝した「キリンビール」の布施孝之社長。しれつなシェア争いを繰り広げるビール業界で、業績が低迷していたキリンを11年ぶりにトップに返り咲かせ、“名門復活”を果たした立て役者だった。「本社の言うことは聞くな。私が責任を取る」
名門企業の組織風土を変え、現場の声に耳を傾け続けた男は、何を残したのか。
(経済部記者 保井美聡)

突然の訃報 当日も会社に…

それは、突然の訃報だった。
9月1日、キリンビールの布施孝之社長は不整脈の一種である心室細動で倒れ、搬送先の東京都内の病院で亡くなった。
61歳だった。
布施さんは亡くなる当日も朝から出勤し、社内の意見交換会でコロナ禍で目指す会社の将来像を熱く語っていたという。

ビール業界を担当する私も7月にインタビューをしたばかり。
「今はみんな我慢しないとね…」 4度目の緊急事態宣言の直前、雑談を交えながら気さくに取材に応じてくれていただけに信じられない思いだった。

訃報を知り、会社に取材すると対応してくれた社員は涙声だった。
この日、社内では多くの社員が涙を流したという。
布施さんの死を惜しむ声は、取引先やライバル会社にも広がった。
コンビニ大手のローソン。
キリンの本社周辺にある中野区の11店舗に「ありがとう布施さん」と書かれた大きなポスターを掲げた。
「なんとか感謝を伝えたい」という社内の声かけで実現したのだという。
アサヒビール 塩澤賢一社長
長年、首位争いを続けてきた「アサヒビール」の塩澤賢一社長。
ライバル会社トップの突然の死を惜しんだ。
塩澤社長
「考えていることが似ている、根っこの部分では共鳴できるというのは感じていました。コロナ禍もあって、われわれが競争関係を超えてビールの需要拡大にどう取り組むかを考えていくべき時にお亡くなりになったのは、非常に残念です」

“V字回復”でシェア首位奪還

布施さんは1982年にキリンビールに入社。
神戸支店を皮切りに、東京を中心に一貫して営業畑を歩み、何よりも現場を大切にした人だった。

2010年にはグループ会社の小岩井乳業の社長に就任して業績を回復させ、2015年にキリンビールの社長に就任した。

日本のビール産業の草分けとも言われ、戦後長く業界トップを維持していたキリン。
しかし社長就任当時は、ライバルとの競争や「ビール離れ」などで業績が低迷し、前年の決算はビール大手4社の中で唯一の減収減益となる苦境の中にいた。

しかし、布施さんはその後、業績を“V字回復”させ、去年、キリンを11年ぶりにシェア首位に返り咲かせた。
「何をやってもうまくいかない負け戦」と振り返る低迷期を、どのように抜け出したのだろうか。

負けを負けとして認める

生前、布施さんがみずからの経営観を語ったプレゼン用の資料がある。
そこで経営観に大きな影響を与えたと振り返っていたのが、2008年3月から2年間務めた大阪支社長時代の経験だ。
ライバルの「アサヒビール」にシェアを逆転され、長らく業界2位の座に甘んじていた当時のキリン。
特に大阪はアサヒなどのライバルが強い地域だ。

支社長に着任した布施さんはすぐに社員一人一人と面談。
すると社員からは「営業しなければならないブランドが多すぎる」「本社の戦略が一貫性がない」などと不満ばかりをぶつけられたという。

なんとかやる気を出してもらおうと奮闘したが、社内の士気は落ちる一方。
実際に着任1年目は思うような成果を上げることができなかった。

布施さんは年末の会議ですべての社員を前にこう頭を下げたという。

「結果が出なかったのは、リーダーである私の責任だ。申し訳ない」

負けを負けとして認めない。名門企業に染みついていたこうした企業風土を払拭(ふっしょく)することから改革は始まった。

「本社の言うことは聞くな」

翌年、布施さんが打ち出したのは大胆な販売戦略だった。
当時、販売から20年を迎えリニューアルしたばかりの主力ブランド「一番搾り」。
この商品に営業活動を集中させ、“一点突破”で立て直しを図る戦略を立てたのだ。

「本社の言うことは聞かなくてよい。私が責任を持つ」

本社から下ろされるほかの商品のキャンペーンは後に回し、一番に流れ出た麦汁だけを使った主力ブランドの味わいのうまさを小売店や飲食店に伝えることに営業マンを専念させたのだ。
ある日、布施さんは若手社員に「1日120軒回って売り込んでこい」とハッパをかけた。
すると若手は目標を超える123軒を回ってみせたという。

ベテランたちは、必死に営業回りをする若手の姿に触発され奮起し始めた。
大阪府内で主力ブランドを取り扱う飲食店などの軒数は、およそ2倍の1000店あまりに増加したという。

そしてこの年、キリンは9年ぶりにアサヒを抜いてシェア首位になった。
大阪支社長時代の布施さん(左)と社員
「組織は社員が同じベクトルで、最大限のパワーを発揮するととんでもなく大きな力になる」

布施さんは大阪で“現場が主役”であることを学んだという。

その後、小岩井乳業の社長時代も、東日本大震災などで赤字に陥る中、生乳だけを発酵させて作ったヨーグルトの販売に力を集中させ、業績の立て直しに成功した。

“現場が主役”で首位奪還

2015年1月、その手腕を買われキリンビールの社長に就任した布施さん。
しかし小岩井乳業の社長を経てキリンに戻ると、業績は再び悪化していた。

布施さんの最初の配属先、神戸支店時代の先輩で、前任の社長だったキリンホールディングスの磯崎功典社長。そのときの様子をこう振り返る。
磯崎社長
「神戸時代は『布施ちゃん』『磯さん』と呼び合う仲でした。彼は営業一筋でやってきたけど、社長はたくさん売ればいいだけじゃなく利益を出さなければいけない。当時はまだライバルの後じんを拝していた時だったのですが『とにかくキリンビールをもう一度復活させよう』と彼に伝えてバトンタッチしました」
社長に就任した布施さんが重視したのは、やはり“現場が主役”だった。
まず、全国11の営業拠点と9のビール工場すべてを回り、社員とひざ詰めの対話集会を開いた。

そしてみずからのビジョンを語る一方で、現場の意見に耳を傾け続けた。

掲げたキーワードは『お客様のことを一番考える会社』。
消費者のニーズを重視した商品開発を徹底し、改革を加速させた。

ビールを変えた男

一連の改革で、これまでにないビールが生み出された。
主力ブランドの「一番搾り」を刷新する中で、地域の声をもとに、47都道府県ごとに味や香りが違う“ご当地ビール”の販売に乗り出したのだ。
コストをかけてでも、お客さんが望む地域密着の商品でファンを増やそうという戦略だった。

2018年には、ビールでもない発泡酒でもない「第3のビール」の新商品を発売。
これまで使われることが少なかった「赤い色」のパッケージも話題を呼び、大ヒット商品となった。

また、コロナ禍では缶入りの「クラフトビール」や、家庭でも生ビールの味わいが楽しめるような新しい商品を販売。
徹底的に客のニーズをくみ取ることに力を注ぎ、事業環境の変化に対応した革新的な商品を生み出していった。

そして去年、ビール系飲料の販売シェアで11年ぶりの首位奪還を成し遂げた。
ライバル会社の塩澤社長は布施さんの経営手腕をこう評価した。
アサヒビール 塩澤社長
「年々ビールの販売が減っていく中で、過剰な競争ではなく、もっと商品を磨いていこうということを体現していた人だと思います。その1つがクラフトビールで、そのためのお店や醸造所を作っていました。われわれと戦略は違いますが、この活動がビール業界を活性化してくれるのではないかという思いで見ていました。都道府県別の主力商品のシリーズを作るということも我々にはない発想で、商品に価値をつける1つの手法だと感じていました」

コロナ禍で伝えたかったこと

飲食店が苦しみにあえぐコロナ禍で、布施さんが伝えたかったことは何だったのか。
布施さんのプレゼン用の資料にはこんな記載がある。

「有事の時こそ、会社の考え方、本質が透けて見える」
「キリンは自分だけ良ければよい、という会社ではない」
布施さんは、時短営業や酒類の提供停止で苦しむ飲食店への営業では、社員に対し「取引先の困りごとの手助けをすること」をそれぞれ考えるよう指示していたという。

現場の社員からは「国の助成金の申請方法などを店に紹介してはどうか」という声が上がり、全員で取り組んでいた。

亡くなった9月1日。
その日の社内の意見交換会でも、布施さんはやはり“あのことば”を呼びかけていた。

「感染拡大からすでに1年半という長い年月がたちましたが、新型コロナはもう一度、本質を見つめ直しなさいというメッセージを人類や社会に送っているように感じます。何のために、どんな企業であり続けるのかを考え、『お客様のことを一番考える会社』『現場が主役』を貫いてください」。

そしてこんなメッセージを社員に寄せていた。
「たった一度の人生でこの会社に入ったからこそ、一緒に喜び合える皆さんと巡り会うことができた」
現場への感謝がつづられていた。

9月6日。葬儀が執り行われた。
コロナ禍のため、キリンからは磯崎社長と秘書だけが参列したという。

出棺の時、そばには“あのビール”が置かれていた。
磯崎社長
「一番搾りが横に置いてあって、ご家族がグラスに注いで遺体にかけたんです。ご家族が私にもグラスを回してくれて、ビールをかけたときは思わず『布施ちゃん』って声をかけてしまいました。いろんな事を思い出しながら、世話になったな、本当にありがとうという気持ちを込めて」

親しまれ、愛された

今回の取材で少し驚いたことがある。
3000人以上の社員を抱える大企業のトップでありながら、布施さんが現場の社員一人一人から“親しまれ、愛されていた”ということだ。

その理由は何なのだろうか。
ある社員はこんな話をしてくれた。

「布施さんは社員に対してもマスコミに対しても全く同じ話をするんですよね。厳しい時もいい時もトップがぶれない。だからみんな、布施さんを信頼していたんだと思います」
失敗を謙虚に受け止め、ぶれない方針を掲げ、現場の声に耳を傾け続ける。
そんなリーダーは日本にどれほどいるのだろう。

今月、緊急事態宣言が全面的に解除され、飲食店での酒の提供が認められることになった。
しかし感染状況によっては、再び制限が強化される可能性があり、消費者の行動がコロナ前のように戻るのかどうかも不透明だ。

志半ばで亡くなった布施さん。
“主役”である現場の一人一人がその遺志を継ぎ、業界の活力を取り戻してくれることを願っているはずだ。
経済部記者
保井 美聡
2014年入局
仙台局、長崎局を経て、流通業界などを担当

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