もう二度と見られない笑顔
44年前、成人の記念に撮影された親子の写真です。
上村智子さん。
話すことも、自分の足で立つこともできませんでした。
それは、幼いころから成長を記録し続けてきた写真家が初めて見る笑顔でした。
彼女はこの年の12月に息を引き取りました。
写真家は今も患者たちを撮影しています。
水俣病はまだ続いていると感じているからです。
上村智子さん。
話すことも、自分の足で立つこともできませんでした。
それは、幼いころから成長を記録し続けてきた写真家が初めて見る笑顔でした。
彼女はこの年の12月に息を引き取りました。
写真家は今も患者たちを撮影しています。
水俣病はまだ続いていると感じているからです。
ひとりの女の子との出会い
「水俣を初めて訪れたとき、出会ったのが彼女でした」。
こう話すのは、水俣病の患者や家族の撮影を60年以上にわたり続けている写真家、桑原史成さんです。
撮影のテーマを探していた23歳のとき、友人から渡された雑誌の特集でその病を知りました。
こう話すのは、水俣病の患者や家族の撮影を60年以上にわたり続けている写真家、桑原史成さんです。
撮影のテーマを探していた23歳のとき、友人から渡された雑誌の特集でその病を知りました。
工場排水によって有機水銀に汚染された魚を食べたことなどが原因で、多くの人が手足のしびれや脱力などの症状に苦しめられた「水俣病」。
患者の様子や「工場排水が原因だ」と指摘する研究者のことばを伝えていました。
思い出したのは島根のふるさとのこと。
地元にある鉱山から流れ出たヒ素のせいで作業員や地元の人々に中毒症状が出ていると聞いたことがありました。
鉱山の害と書いて“鉱害”。
地元では昔からそう呼ばれていました。
数か月後、桑原さんは水俣へと向かっていました。
患者の様子や「工場排水が原因だ」と指摘する研究者のことばを伝えていました。
思い出したのは島根のふるさとのこと。
地元にある鉱山から流れ出たヒ素のせいで作業員や地元の人々に中毒症状が出ていると聞いたことがありました。
鉱山の害と書いて“鉱害”。
地元では昔からそう呼ばれていました。
数か月後、桑原さんは水俣へと向かっていました。
歩くこともできず寝たきりの女の子
初めて訪れた水俣の漁村は、予想に反してテレビや新聞の取材もほとんど入っていないようでした。
カメラを手に突然にやってきた若者を、地域の人たちは「学生さん」と言って迎え入れてくれました。
カメラを手に突然にやってきた若者を、地域の人たちは「学生さん」と言って迎え入れてくれました。
最初に訪れたのは地元の病院。
一部屋に6人ほどの患者が入院し、泊まり込んで世話をしている家族もいました。
「ソフトに撮ろう」。
直感的にそう思ったといいます。
リアルに撮ればいろんなことが伝わる。
しかし見た人が目を背けないような写真にしたいと思ったのです。
一部屋に6人ほどの患者が入院し、泊まり込んで世話をしている家族もいました。
「ソフトに撮ろう」。
直感的にそう思ったといいます。
リアルに撮ればいろんなことが伝わる。
しかし見た人が目を背けないような写真にしたいと思ったのです。
迷惑にならないよう、撮影は短時間で終わらせるように心がけました。
露出とピントを勘で合わせて2~3枚。
撮れたと思ったらカメラを置きました。
中には「もっと撮りなっせ」と言う人もいて、そんなときは「じゃあ、もう少し撮りましょうか」と言って、改めてシャッターを切りました。
そうしたことを繰り返していくうち、自然と人々の中に溶け込めたといいます。
しばらくすると患者の家を何軒か案内してもらうことができました。
そこで出会ったのが智子さんでした。
母親の胎内で影響を受け、生まれたときから障害がありました。
当時4歳。
寝たきりで横たわっていました。
露出とピントを勘で合わせて2~3枚。
撮れたと思ったらカメラを置きました。
中には「もっと撮りなっせ」と言う人もいて、そんなときは「じゃあ、もう少し撮りましょうか」と言って、改めてシャッターを切りました。
そうしたことを繰り返していくうち、自然と人々の中に溶け込めたといいます。
しばらくすると患者の家を何軒か案内してもらうことができました。
そこで出会ったのが智子さんでした。
母親の胎内で影響を受け、生まれたときから障害がありました。
当時4歳。
寝たきりで横たわっていました。
桑原さんはそれから毎年のように水俣を訪れ、智子さんを撮影するようになりました。
衝撃を受けた写真
10年余りがたった昭和46年。
写真を目にしたアメリカの報道写真家、ユージン・スミスが水俣を訪れます。
妻と2人、一軒家を借りて3年にわたり暮らしました。
その中で撮影された1枚に、打ちのめされました。
それは、母親に抱かれ湯船に入る智子さんの姿を収めたものでした。
自分ならカメラを向けることすら許されないと考える場面。
しかし彼は撮影していました。
「これには太刀打ちできない」。
写真家としてそう思ったそうです。
その写真は、水俣病の被害を世界に伝えることになりました。
写真を目にしたアメリカの報道写真家、ユージン・スミスが水俣を訪れます。
妻と2人、一軒家を借りて3年にわたり暮らしました。
その中で撮影された1枚に、打ちのめされました。
それは、母親に抱かれ湯船に入る智子さんの姿を収めたものでした。
自分ならカメラを向けることすら許されないと考える場面。
しかし彼は撮影していました。
「これには太刀打ちできない」。
写真家としてそう思ったそうです。
その写真は、水俣病の被害を世界に伝えることになりました。
初めて見るような、笑顔
数年後の昭和52年。
再び智子さんを撮影する機会が巡ってきました。
家族や親戚が集まり、彼女の成人を祝うという知らせが来たのです。
スミスの写真を見たときから、自分なりに智子さんと家族を写真に残したいと感じていました。
その写真は、家族の真ん中に智子さんがいる集合写真にすると決めました。
再び智子さんを撮影する機会が巡ってきました。
家族や親戚が集まり、彼女の成人を祝うという知らせが来たのです。
スミスの写真を見たときから、自分なりに智子さんと家族を写真に残したいと感じていました。
その写真は、家族の真ん中に智子さんがいる集合写真にすると決めました。
うたげの終盤、全員に集まってもらって3枚撮りました。
やめようとすると、母親に「もうやめるんですか」と促され、父親に抱かれた智子さんに再びカメラを向けました。
その瞬間、智子さんが笑顔になったのがわかりました。
長年、成長を見つめてきた桑原さんも初めて目にするような、とてもうれしそうな笑顔でした。
「ああ、決まったな」。
そう感じて3枚でカメラを置き、あとはみんなと焼酎を飲んだそうです。
やめようとすると、母親に「もうやめるんですか」と促され、父親に抱かれた智子さんに再びカメラを向けました。
その瞬間、智子さんが笑顔になったのがわかりました。
長年、成長を見つめてきた桑原さんも初めて目にするような、とてもうれしそうな笑顔でした。
「ああ、決まったな」。
そう感じて3枚でカメラを置き、あとはみんなと焼酎を飲んだそうです。
その年の12月。
智子さんが亡くなったという知らせが届きました。
あのときの笑顔が、最後の写真になりました。
智子さんが亡くなったという知らせが届きました。
あのときの笑顔が、最後の写真になりました。
それでも、撮り続ける
水俣を初めて訪れてから60年余り。
桑原さんは今も水俣に足を運び、写真を撮り続けています。
その間、地域の人々も社会の空気も大きく変わっていきました。
原因が企業チッソの工場排水であることがわかると、補償をめぐり地域が二分された状態となりました。
そのせいで親交を深めていた患者家族の中には関係が途切れてしまった人もいます。
それでも撮影を続けるのは、水俣病がまだ終わっていないと考えているからです。
桑原さんは今も水俣に足を運び、写真を撮り続けています。
その間、地域の人々も社会の空気も大きく変わっていきました。
原因が企業チッソの工場排水であることがわかると、補償をめぐり地域が二分された状態となりました。
そのせいで親交を深めていた患者家族の中には関係が途切れてしまった人もいます。
それでも撮影を続けるのは、水俣病がまだ終わっていないと考えているからです。
写真家 桑原史成さん
「水俣病は、まだ継続しているできごとです。『胎児性水俣病患者』たちは、みんな60歳近くになって、もう子どもじゃない。水俣病は、一人一人にとって大きな悲劇だと感じます。いっぽうで、水俣は一般的には風化しているんですよね。ドキュメンタリーとしての写真は風化しないものだと思っていますから、毎年のように水俣を訪れてきたんです」
「水俣病は、まだ継続しているできごとです。『胎児性水俣病患者』たちは、みんな60歳近くになって、もう子どもじゃない。水俣病は、一人一人にとって大きな悲劇だと感じます。いっぽうで、水俣は一般的には風化しているんですよね。ドキュメンタリーとしての写真は風化しないものだと思っていますから、毎年のように水俣を訪れてきたんです」
まだ終わっていない水俣病
東京都内ではいま、桑原さんが水俣で写真を撮り始めた初期の写真34点を集めた写真展が開かれています。(10月16日まで開催)
その会場で、60年ほど前に撮影された写真を眺めていると、豊かな自然や愛する家族との“暮らし”がそこにはあったことを改めて感じました。
水俣病は患者の高齢化や補償の問題など、まだ続いている問題です。
1人の取材者として、向き合っていきたいと思います。
(おはよう日本ディレクター 野澤咲子)
その会場で、60年ほど前に撮影された写真を眺めていると、豊かな自然や愛する家族との“暮らし”がそこにはあったことを改めて感じました。
水俣病は患者の高齢化や補償の問題など、まだ続いている問題です。
1人の取材者として、向き合っていきたいと思います。
(おはよう日本ディレクター 野澤咲子)