“発掘”された米軍基地

“発掘”された米軍基地
福岡市に隣接し、ベッドタウンとしても人気が集まる福岡県大野城市。太宰府天満宮がある太宰府市も隣にあり、古くからこの地域の要衝として栄えてきました。
街の中心部には弥生時代などの遺跡があり、貴重な住居跡などが見つかっていますが、ことしの調査では当時の遺構とともにある意外なモノが“発掘”されました。
それは76年前に終わった戦争に関するものでした。
(福岡放送局 記者 野依環介)

遺跡から見つかった金属タンクと配管

直径1.5メートル、長さ5メートルの金属製の巨大タンク。およそ35メートルにわたって伸びるコンクリート製の配管。
地中から掘り起こされたのは、遺跡には似つかわしくない現代の設備でした。
大野城市が専門家に調査を依頼したところ、配管は上下水道の設備、タンクは重油など燃料の貯蔵に使うものだと分かりました。

見つかったのは、かつてこの地域に広がっていたアメリカ軍の設備だったのです。

福岡にあった“基地の町”

昭和20年8月に戦争が終わると、アメリカ軍は国内各地に進駐しました。福岡県内でもアメリカ軍の接収が進み、日本陸軍の飛行場があった現在の福岡空港周辺は「板付基地」として運用されました。
基地の南側に位置する大野城市には、アメリカ兵の居住区画が整備され、昭和47年に返還されるまでの27年間、最大6000人の兵士が駐留する「基地の町」となりました。

手がかりは「米軍ハウス」

市の学芸員、山村智子さんは、いまも残るアメリカ軍の痕跡を調べています。

基地が返還されて来年で50年となる中、その存在を知らない人が増えていることに懸念を強めているからです。
山村さんが特に力を入れているのが「米軍ハウス」の調査です。

アメリカ軍の兵士やその家族向けに建てられた住宅のことで、1950年に朝鮮戦争が始まると兵士の増員とともに「米軍ハウス」も次々に増え、最終的にはおよそ500軒になったといわれています。

アメリカ軍基地の数少ない痕跡として山村さんは「米軍ハウス」に注目し、これまでに43軒が残っていることを確認しました。

豪華なつくりの米軍ハウス

米軍ハウスには特徴があります。

外観に色あせてぼんやりと残る「I」「A」「B」の文字。アルファベットの3文字は「Itazuke Air Base」の頭文字です。
室内を見ると、大きな出窓やカウンター付きのキッチン、浴室には水洗トイレが備え付けられ、当時としては珍しい豪華なつくりでした。
建物の特徴を生かして現在はカフェになっているところもありますが、経緯を知らずに長年暮らしている人もいるということです。

山村さんはわずかに残る米軍ハウスが地元の歴史を知る重要な証になると考えています。
山村智子さん
「子どもたちに『昔、基地があったことを知っていますか?』と聞くと、『知らない』と言われることがほぼ100%です。そうした中で今も残る米軍ハウスは重要な歴史的建造物だと思っています」

“町の発展”に影響

山村さんがアメリカ軍基地にこだわる背景には、町に及ぼした大きな影響があります。

その1つが独自の発展につながったことです。
当時、駅前の商店街にはレストランやハンバーガーショップ、それに洋服の仕立て屋やバーバーと呼ばれる理髪店などアメリカ兵向けの店が建ち並び、「白木原ベース通り」と呼ばれて賑わいを見せました。

また、スーパーマーケットの従業員や消防士などとして基地の中で働く日本人もいました。

地元の市民にとっては、終戦直後の混乱が続く中で雇用の場になるとともに、アメリカの豊かな生活や自由な文化に直接触れる機会となりました。
新たな商売に乗り出す人も多く、ファミリーレストランの「ロイヤルホスト」もその1つとして誕生しました。

基地内の売店に出入りしていた日本人の男性が、アメリカ兵向けにパンやケーキ、アイスクリームを売り出したところ瞬く間に評判が広がり、全国に展開するレストランチェーンにまで成長したのです。
山村智子さん
「戦後は雇用がものすごく少なくて大変な時期でしたが、大野城市では基地ができたことで、雇用が生まれ、新しい産業も誕生しました。その意味では町の戦後復興に役立っていたと言えると思います」

裏腹の「戦争」

一方で山村さんはもう1つ、基地と戦争の関係に注目しています。

大野城市がこの夏開いた「戦争の記憶展」という展示会で板付基地のコーナーを設け、新たに入手した84枚の写真を紹介しました。
その中の1つが、アメリカ兵が朝鮮半島を指し示す写真です。
1950年に勃発した朝鮮戦争の際、板付基地がアメリカ軍の出撃拠点だったことを示すもので、板付基地が戦略的にどう位置づけられていたかがわかります。
さらに隣のコーナーでは太平洋戦争に関する遺品などが展示され、先の大戦があってアメリカ軍基地ができたことや、その理由を考えられるようにしました。
山村智子さん
「終戦から1か月もたたないうちに、それまで敵だったアメリカ兵たちが駐屯し、交流も始まる中で、自分たちがやってきた戦争の悲惨さを思い出すこともあったと思います。戦争がなければ基地はできませんでしたし、朝鮮戦争がなければここまで多くのアメリカ兵が駐屯することもなかった。戦争と板付基地はやはり連関していると思います」

米軍ハウスを文化財に

アメリカ軍基地をめぐっては、沖縄で過剰な基地負担が問題となり、戦後76年となる今も抜本的な解決の糸口は見えない状況が続いています。
山村さんは、アメリカ軍基地があったことを知ることは、地元の歴史を深く知るとともに現在の課題や将来の展望に思いをいたすきっかけになると考えています。

山村さんはいま、同僚たちとともに「米軍ハウス」を大野城市の文化財として残せないか検討を進めています。
山村智子さん
「板付基地の生き証人ともいわれる米軍ハウスがそこにあるかないかで、伝わってくる情報量も話すことができる内容も全然違ってきます。戦争を繰り返してはいけないということを伝えるうえでも、大野城市の歴史を知るうえでも、非常に重要なものなんだと思っています」
終戦から76年。
記憶の風化が進む中で残されたわずかな証しを頼りに、戦争の記憶を後生につなぐ新たな取り組みが始まろうとしています。
福岡放送局 記者
野依環介
平成25年入局 新潟局、鹿児島局を経て令和元年から福岡局勤務。災害をはじめ歴史問題や地域経済など幅広く取材