“認知症でもできることはある” 相談相手は「認知症の先輩」

“認知症でもできることはある” 相談相手は「認知症の先輩」
香川県の病院の一角に、認知症の人が認知症の人に悩みを打ち明けるという全国でも珍しい相談室があります。
相談にのるのは、先に認知症となった、いわば“認知症の先輩”。
2025年には、65歳以上の5人にひとりが認知症になると言われる時代。相談室で交わされる言葉には、認知症と生きるヒントが詰まっていました。
(報道局 社会番組部 ディレクター 加藤弘斗)

先輩が必ず伝えている言葉

「認知症の人どうしが語り合う、ちょっと変わった相談室がある」

そんな話を知って取材を始めたのは、去年7月のことでした。

相談室があるのは、香川県三豊市にある認知症の専門医療を行っている西香川病院です。

この病院では、医師が診断後大きなショックを受けていると判断した人に、認知症の当事者が相談にのるという取り組みを行っています。

病院の非常勤職員として相談員を務めるのが、6年前に脳血管性認知症と診断された渡邊康平さん(78)。
いわば“認知症の先輩”です。
この日、相談室を初めて訪れる人がいました。

高橋通夫さんは3年前、65歳でアルツハイマー型認知症と診断されました。物忘れに加え、時間の感覚があいまいになり、道に迷うことも増えていました。
認知症になったことをなかなか受け入れられずにいた高橋さんに、渡邊さんはまず、自身の体験を伝えていきます。
渡邊さん
「私は認知症と診断受ける前は、自分が認知症だとは思っていなかった。(医師に)冗談言わんとってくれと。『いや冗談ではない』『いいや冗談だ』と先生とだいぶやり合ったのよ。たぶん明日どの程度記憶が残っているか。女房にきのう誰と話したのかなって言ったら『こんな人』って教えてもらう。本当にどんどん消えていくので」
これまで200人の相談にのってきた渡邊さん。
必ず伝えている言葉があります。
“できないものは、もういまさら言っても返ってこない”
“できることの分で、自分の人生を作り直していけばいい”

「自分を自分で探そう」

相談員の渡邊さん自身、診断後のショックから立ち直るのに2年の歳月が必要でした。

「認知症になったら、何もわからなくなる」

そんなイメージを抱いていたという渡邊さん。
診断後は食事ものどを通らなくなり、体重は20キロ以上も減少。人目を避け、家に閉じこもるようになりました。
渡邊さんを支え続けたのが妻の昌子さんでした。
あえて励ますことはせず、少しずつ散歩に誘ってくれたことで、次第に外出できるようになったといいます。

診断から4か月後、渡邊さんは日記にこうつづるようになります。

「自分を自分で探そう」

診断から2年後、かつて通っていた囲碁クラブに再び通いだすと、意外なことに気づきました。

対局を重ねるうちに、元の腕前を取り戻したのです。
渡邊さん
「(認知症でも)いろんなできることがある。自分自身が自信を持ってくるということかな。そんなんを自分のものにしてきた」

誰にも言えなかった胸の内

取材を始めて1か月。相談室に、再び高橋さんの姿がありました。

渡邊さんに話しかけられても、高橋さんはなかなか自分のことを口にしません。高橋さん自身、認知症になり諦めてきたものがあったのです。
20代で結婚し、4人の子どもを育ててきた高橋さん。子どもが大好きで、地元の市役所を退職したあとは、学童のボランティアが生きがいでした。

ところが、ボランティアを始めて2年。症状の進行により、辞めざるを得なくなったのです。

高橋さんの日記には、誰にも言えない胸の内がつづられていました。
(高橋さんの日記より)
子供の名前を覚えられないというのが辛い。
子供達は私の名前を知っているのに、私は全く知らない。
高橋さん
「好きな子どもがノートを持って『先生教えて』って来るんですよ。認知症だからそれを教えられないんですよ。それがもうつらくて、つらくて。本当に学童だけは辞めたくなかったな、仕方ない。認知症に負けたんや…」
ふさぎ込む高橋さんに対し、渡邊さんは、自分が認知症になったからこそ気づけたことを伝えました。
渡邊さん
「認知症になって落ち込んでいたんだけど、言葉が言えるようになって、それから碁でも打ってみようかと思って行ってみた。最初の方はどうにもならなかったんだけど、後からだんだん頭の中で出てきてな、半年くらいたったら五段に返りました」
これまで、自分のことをほとんど話さなかった高橋さん。渡邊さんの言葉を聞いて、自分の思いを初めて口にしました。
高橋さん
「(診断された時は)がくんと落ち込んでですね。なんとも言えない気持ちだったんですね。でも何かこういう話をきいたらですね、何かまた頑張りたい」

「認知症になっても、できることは残されている」

渡邊さんが、高橋さんに何度も伝えたことがありました。
「急にすべてが失われるわけではない」
「認知症になっても、できることは残されている」
「楽しまなかったら、何のために生きているかわからない」
「できることが一つでも増えたら家族も喜ぶ」
相談室に通うようになって3か月。
高橋さんの表情は明らかに変わっていきました。

そして、妻の料理の手伝いや洗濯、皿洗い…今できることを探そうとしていました。
少しずつ日常を取り戻していく中で、高橋さんが日記を書いていました。
(高橋さんの日記より)
認知症になって良かったこと。

妻のやさしさにふれたこと。
人のいたみがわかったこと。
いっぱいあるものだ…。
言葉にこめた思いを尋ねると、高橋さんは書いたこと自体を忘れていました。

しかし、日記をつづった瞬間には確実に「認知症になってよかったこともある」と思えていたのです。
認知症であることを少しずつ受け入れ、前を向こうとしていた高橋さん。

その姿を見た病院の医師から、渡邊さんのサポート役として相談員を務めてほしいと依頼されるまでになっていました。

自分の経験を伝える

高橋さんが相談室に通うようになって半年。
渡邊さんのサポート役として相談に臨むようになると、課題に直面しました。

自分が経験したことを伝えようとしても、その経験を思い出すことが難しくなっていたのです。

立ち直り始めていた高橋さんでしたが、役割を果たすことができないことに落ち込み、下を向く場面が増えていました。
さらに、高橋さんを落ち込ませる出来事がありました。

趣味で続けてきたテニス。カウントが数えられなくなったことを友人に笑われ、通えなくなっていました。

その様子を見た渡邊さんは、高橋さんにこんな言葉をかけました。
渡邊さん
「僕は足し算できんよって言うんよ。碁会所行ったら、たくさんの人が足し算はできないということをみんな知っている。『認知症だからこらえてくれや』と相手に言ったら、そこでがらっと今までのものが変わってくるのではないかと僕は思う」
高橋さんは、うなずきながら、その言葉に耳を傾けていました。

周囲の理解をえながら これからの人生を

1か月後、高橋さんは、別のクラブでテニスを再開しました。

コートチェンジがうまくできない時。カウントがわからない時。
周囲の人が高橋さんにアドバイスを送っていました。
テニス仲間の男性に、高橋さんのことについて話を聞くと、「僕、認知症だから、数を数えられないんだけどって自分から言っていたよ」と教えてくれました。

以前の取材で「僕は認知症だっていうね、看板を立てて歩きたくないですよ」と漏らしていた高橋さん。認知症であることを明かし、周囲の理解をえながら、これからの人生を歩んでいきたいと考えるようになっていました。

“認知症の先輩”として伝えたいこと

高橋さんが相談室に通うようになって1年。
認知症と診断されたばかりの女性が相談室にやってきました。

高橋さんは言葉で、“認知症の先輩”としての経験をうまく伝えることができず、これまでつづってきた日記を見せました。
(高橋さんの日記より)
認知症を宣告された時、大変落ち込みました。
池に飛び込もうかとも思いました。
しかし、あれほど落ち込んだ私でしたが、その後なんともなくなり認知症の前も後も何も変わらないことに気がつきました。
まさに気持ちの持ち方ひとつでどうにでもなるものです。
その後認知症であったことも忘れています。
日記を読んだ認知症の女性は、「わー」と声を漏らし、表情を崩しました。

実は、高橋さんと同じように身を投げようと思ったことがあったのです。
同じ経験をしているのは、ひとりではない。
認知症になっても変わらないものもある。
そして、気持ちの持ち方が何よりも大切であること。

認知症と診断されて4年。
日々不安もありながら、前を向いて生きている高橋さんだからこそ伝えられる言葉でした。

取材の最終日、高橋さんの日記を見せてもらうと、こんな言葉が書かれていました。
(高橋さんの日記より)
認知症になった人を一人でも多く救うのが私の役わり
認知症の先輩として、自分に伝えられることは何か。
高橋さんはきょうも日記をつけ、考え続けています。

取材後記

相談室を取材して1年。
渡邊さんが語りかけていた言葉の中に、印象的だった言葉があります。

「多くの人と会ってきたけど、認知症になってもだいたいできることの方が多いんや」

認知症になったら、できなくなったことに目が向くのは当然のことだと思います。でも、ふと立ち止まって、渡邊さんの言葉を思い出すことができたら、少し前を向けるのかもしれません。

誰もが認知症になりうる時代。これからも認知症と生きるヒントを伝えていきたいと思っています。
報道局 社会番組部 ディレクター
加藤弘斗
平成24年入局 認知症などをテーマに番組を制作