WEB特集

撃たれてもカメラを離さなかった

「彼は、銃で撃たれても、カメラを離さなかったんです」
そう話すミャンマー人の男性は、14年前、ミャンマーで命を落とした1人の日本人の姿を鮮明に覚えていました。あの時、故郷の現実を伝えようとしてくれたことに、心が震えたと言います。その日本人が、なぜ命がけでカメラを握り続けたのか、ずっと考えてきました。
(国際部 記者 栄久庵耕児)

カメラを離さなかった

14年前の2007年9月27日。
日本で暮らすミャンマー人のミョー・ミン・スェさん(39)は、テレビで流れたある映像から、目が離せなくなったと言います。
ミョー・ミン・スェさん
画面に映し出されたのは、故郷、ミャンマーで起きた反政府デモの様子。そこには、治安部隊から逃げようとするデモ隊を、ビデオカメラで撮影する日本人の男性の姿がありました。

しかし、発砲音が聞こえた瞬間、男性の体が浮き上がり、転倒。
驚いたのは次の瞬間でした。男性は、地面に倒れてもカメラを離さず、撮影を続けようとしていたのです。
ミョー・ミン・スェさん
「この時の彼の姿を、一生忘れることはないと思います。私たちミャンマー人にとって、彼はヒーローなんです」
ミョーさんは、軍の独裁政権の下で生まれ育ちましたが、自由のない社会から逃れたくて、2003年、日本に移り住みました。

なぜ日本人が、命がけでカメラを握りしめ、故郷の現状を伝えようとしてくれたのか。
ミョーさんは、あの日以来、ずっと考え続けてきました。

徹底的に寄り添うジャーナリスト

男性の名前は長井健司さん。愛媛県今治市出身で、治安部隊に銃撃され、50歳で亡くなりました。紛争地域などを取材するため、海外を飛び回るジャーナリストでした。

針谷勉さん(47)は、東京のAPF通信社で長井さんの同僚でした。
針谷勉さん
針谷勉さん
「長井さんは、取材相手のことを心から大切にする人でした。それは、取材だからではなく、人として、だったんだと思います」
取材現場で一緒になった長井さんは、ビデオカメラを片ときも手放さず、休憩することはほとんどありませんでした。

取材が終わっても、撮影のことばかり考え、職場に帰っても、夜中まで撮影した映像を確認していました。生活のすべてが「伝えるため」に動いているような人でした。
長井さんが見つめてきたのは、常に「弱い立場」の人たちです。
報道は「客観的」であるべきだということばを嫌い、立場が弱く虐げられる側の人たちの視点に、徹底してこだわっていたといいます。

パレスチナで戦車に石を投げつける子どもたち。
不発弾で大けがをしたイラクの子どもと泣き叫ぶ母親。

長井さんの撮影した映像を編集してきた針谷さんは、いつもある「視点」に貫かれていると感じていました。

それは、武器や力を持たず虐げられる人たちの側に立ち、レンズの向こうに映る現実を直視する、長井さんのまなざしでした。
大けがをしたイラクの少女(長井さん撮影)

少女のために流した涙

長井さんが取材していたのは、戦争や紛争が起きている地域で暮らす人々だけではありません。

エイズで親を亡くし、自らも感染したタイの孤児たちも、取材テーマのひとつでした。孤児院に足しげく通い、子どもたちと同じ部屋に寝泊まりしながら、1日中カメラを回し続けました。

撮影していたのは、時に悲しみ時に笑顔を浮かべる、孤児たちの日常です。寄り添い続ける姿勢からか、長井さんはいつしか孤児たちから「ポー・ケンジ(ケンジ父さん)」と呼ばれるようになっていました。

長井さんが寄り添い続けた少女がいます。
エイズを発症し、日々痩せ細っていく少女の姿を、長井さんは目を背けることなく、カメラを通して記録し続けました。
エイズを発症した少女(長井さん撮影)
しかし少女は、治療のかいなく、やがて息を引き取ります。長井さんは葬儀の場に三脚を立て、その様子も撮影していました。

そこには人目をはばかることなく号泣する、長井さんの姿が映っていました。

手に持っていたのは、白いワンピース。
生前の少女のために、内緒で買ったものでした。

「ごめんね、間に合わなくて」

長井さんは大粒の涙を流しながら、ひつぎの中の少女に、ことばをかけていました。

「僕が死んだら、ビデオを日本に届けて」

タイでエイズ孤児を取材したあと、長井さんはアジア情勢も取材するようになっていきます。

2007年9月、軍事政権下のミャンマーでは、民主化を求める大勢の僧侶も参加する反政府デモが、全土に拡大。これに対して軍事政権の治安部隊は、デモの弾圧に乗りだし、緊張が高まっていました。
僧侶も参加した反政府デモ(2007年9月)
長井さんは、所属する通信社の第1陣としてミャンマーに入ります。同僚の針谷さんは、第2陣として続く予定でした。

取材用のビザが発給されない中、長井さんは、観光ビザを取得し、ミャンマー国内に入りました。

「僧侶たちが、今、集まってきています」

長井さんは、現地の緊迫した様子をリポートしていきます。
そこには、いつものようにビデオカメラを手に撮影し続ける長井さんの姿がありました。
反政府デモを取材する長井さん(写真中央)
長井さんはデモの情報を集めようと、現地に住む日本人の男性と接触。男性からは「危ないので、ビルの屋上から撮影した方がいい」とアドバイスを受けましたが、長井さんは男性にこう伝えました。

「死んでも撮影に行きます。僕が死んだら、ビデオを日本に届けてください」

長井さんが向かったのは、反政府デモが行われていた道路。デモ隊と治安部隊がにらみ合い、一触即発の状態でした。

長井さんはデモ隊の最前線に立ち、迫る治安部隊を撮影。治安部隊が勢いよくデモ隊の方に近づいてきます。
多くの人たちが慌てて逃げようとしたその時ー

「バンッ!」

銃声が響きました。

次の瞬間、長井さんの体は浮き上がり、倒れました。
その瞬間は、近くの歩道橋から撮影され、全世界に報道されていきました。

いつもの長井さんの姿

「長井さんが撃たれたらしい」

その1報を、針谷さんはテレビ局の編集室で聞きました。慌ててテレビをつけると、男性が撃たれる瞬間の映像が、何度も流れていました。

「長井さんであるはずがない」

針谷さんは、そう願いました。
しかし、目をこらして、映し出された男性の姿を見てみると、撃たれたのは長井さんだと受け入れざるをえませんでした。

その男性は、地面に倒れてもなお、右手にビデオカメラを握りしめていました。そして、カメラを上に向け、軍の兵士を撮影しようとしているように見えました。
それは、これまで針谷さんが見続けてきた、長井さんの姿そのものでした。

ミャンマー人の心が震えた理由

一方、当時、日本に移り住んで4年が過ぎていた、ミャンマー人のミョーさんも、テレビに映し出された長井さんの姿を見て、言葉を失いました。
なぜ命をかけてまでも、カメラを握り続けたのか、気になってしかたがありませんでした。

しかし、その後の報道で、長井さんが生前に語っていた、ある言葉を知りました。

「誰も行かないのであれば、誰かが行かなければならない」

この言葉を聞いた時、衝撃を受けたというミョーさん。思い出されたのは、恐怖で声さえあげられず、孤独を感じ続けてきた、故郷での日々でした。

ミョーさんが6歳の頃に起きた反政府デモでは、軍が大勢の市民を虐殺。銃を持った兵士がわがもの顔で町じゅうを歩き、怖くてしかたがありませんでした。

その後「海外には民主主義がある」と親から聞き、憧れを抱くようになりましたが、家の外で政治の話をすることなど、とてもできませんでした。周囲の誰かが、軍に密告する可能性があったからです。

ミョーさんは家で、海外から流れてくるラジオを、ひっそりと聞いていました。近所の人に聞こえないよう、できるだけ音量を下げて。
中学生のころのミョーさん
一度だけ、そんな自由のない社会を変えたくて、反政府デモに参加しようとしたことがあります。しかし、その時も、向かう途中で銃声が聞こえ、怖くて逃げ出してしまいました。

さらに、軍事政権の経済政策の行き詰まりや、欧米各国による経済制裁の影響で、景気が低迷。ミョーさん一家の暮らしは苦しくなり、父親は海外に出稼ぎに行ってしまいます。

賄賂や汚職も横行し、軍と何かしらのつながりがなければ、望む仕事にも就けない。

ミョーさんは、そんなミャンマー社会に希望を見いだすことができませんでした。ミャンマーの国営メディアも、軍事政権によって厳しく統制され、政府に都合のいい情報だけを流していました。

ミョーさんは、自分たちが置かれている苦しい状況が、誰にも伝わらず、国際社会の中で取り残されていると、強く感じるようになっていきました。

だから、銃で撃たれても、目の前の現実にカメラを向けようとした長井さんの姿を見た時には、心が震え、「自分たちは孤独ではないんだ」と思い、涙が溢れてきたと言います。
長井さんの所持品(当時撮影していたカメラは返却されず)
長井さんが銃撃されたあと、所持していた手帳などの遺品は日本に返ってきましたが、最後まで握りしめていたビデオカメラだけは戻ってきませんでした。

「カメラには、軍の恐怖が伝わる映像が記録されているかもしれない」

亡くなった長井さんの分まで、ミャンマーの状況を国際社会に訴えたいと考えたミョーさんは、仲間とともに、長井さんのカメラを返すよう、ミャンマー政府に求める抗議運動を起こしました。

しかし政府は「カメラは見つからない」との一点張り。
銃撃についても「偶発的な事故」という主張を崩しませんでした。

結局、その後もカメラは返却されず、長井さんが最後に撮影した映像は、誰にも見られることはありませんでした。

「もう二度と沈黙しない」

それから14年。ミャンマーでは、軍のクーデターがきっかけで、再び大規模な反政府デモが起き、民主派勢力がミャンマー全土の市民に対し、蜂起を呼びかける事態に発展しています。

地元の人権団体によりますと、クーデターの発生以降、軍の弾圧で死亡した人は1100人を超えています。

長井さんが亡くなったあと、軍主導の政治はいったん終わり、一時は、民主化への光が差したように見えました。

しかし、今回のクーデターで再び、自由のない昔のミャンマーに戻ってしまうことへの懸念が強まっています。
抗議運動をするミョーさん
日本で抗議運動を始めたミョーさんも、自由を求める若者たちが次々と殺害されていく現状に胸が押しつぶされそうになります。

軍に怯えていた、あのころを思い出し、恐怖心に駆られることもあります。

しかし、ミョーさんは「もう二度と沈黙しない」と言い切ります。民主主義や自由を求めては弾圧され、多くの犠牲を出してきた連鎖を、ここで断ち切らなければならないと考えているからです。

そしていつか、自由になった祖国に帰りたいと願っています。
ミョー・ミン・スェさん
「私たちがここで負けたら、一生、軍の奴隷になってしまい、国は決して発展しない。今度こそ、民主主義や自由を勝ち取らなければなりません。長井さんも、きっと私たちのことを見守ってくれていると思います」
国際部 記者
栄久庵耕児
2009年入局 松山局・盛岡局・横浜局を経て現所属。中国の取材を担当。海外の人権問題などを中心に幅広く取材

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