ケツケツ カイカイ ノミ シラミ

ケツケツ カイカイ ノミ シラミ
昼飯は ミミズのうどん
集団生活 なかなかつらい
ケツケツ カイカイ ノミ シラミ

戦争中に子どもたちが歌っていた替え歌の一部です。

「この歌詞にこそ、市民目線での戦争の実像が表れている」と専門家が注目しています。

その“無形の戦跡”が、もうすぐ消えてしまうかもしれない。

いま、“戦時中の子どもたち”から、“戦争替え歌”を聞き取って、後世に残すための取り組みが進められています。

(大阪拠点放送局 ディレクター 泉谷圭保)

過酷な“学童疎開”で口ずさんだ替え歌

子どもの頃に戦争替え歌を歌っていた外山禎彦さん(86)。

昭和19年、空襲を逃れるため、大阪市内の自宅から岸和田市郊外へ学童疎開しました。
外山さん
「窮屈でした。足の引っ張り合いもあるしいじめもあるし、おなかもすくし、なにより集団生活の重圧が恐ろしかった。ガキ大将のような同級生がいて、言うことを聞かないといじめに遭うし。とにかく帰りたかったですね」
子どもたちを待ち受けていたのは過酷な集団生活でした。

起きたらまずは布団に紛れたノミやシラミとり。
飢えをしのぐため、おかずにする“イナゴ探し”が子どもたちの日課でした。
ストレスから暴力やいじめが横行し、耐えかねて脱走する子どももいたといいます。

誰から教わるともなく、外山さんが友達と息抜きに歌ったのが替え歌でした。
替え歌
朝だ四時半だ ご飯のしたく
それがすんだら 紙くず拾い
昼飯は ミミズのうどん
集団生活 なかなかつらい
ケツケツ カイカイ ノミ シラミ
元歌は、軍歌「月月火水木金金」。休みなく訓練に励む海軍兵をたたえる歌でした。
軍歌「月月火水木金金」
朝だ夜明けだ 潮の息吹
ぐんと吸い込む 銅(あかがね)色の
胸に若さの みなぎる誇り
海の男の 艦隊勤務 
月月火水木金金
子どもたちは、つらい集団生活の思いを替え歌に託したのです。

“文字になっていないものにこそ、真実がある”

“戦争替え歌”を当時の子どもたちの思いを知る重要な手がかりとして研究しているのが、立命館大学文学部の鵜野祐介教授です。
鵜野教授
「常に命が脅かされていた戦争当時、替え歌を歌うことは、子どもたちにとって生きていることを実感する大事な手段だったのではないか」
鵜野さんは「昔から口伝えで伝承されてきた子どもの遊びや昔話」を調べるなか、“戦争替え歌”と出会いました。

これまでに集めたのは、軍歌や歌謡曲、童謡などが元歌になった50曲あまり。

鋭く本音を表現した歌詞の数々に驚かされたといいます。
鵜野教授
「文字になっていないものにこそ、価値があるというか、真実がある。それを次の世代に伝えなくてはいけない」
替え歌は誰が作り、どう広がったのか。今もほとんど分かっていません。

鵜野さんは、こう推測します。
鵜野教授
「子どもが言葉遊びの延長で作ったんだろうなと思う歌もあるが、もともと大人が歌っていて、子どもの世界の中に取り入れられた替え歌や、大人が子どもに歌わせていた替え歌が多いのではないか」

“逃げ場ない” 悲壮な思い 沖縄の替え歌

いま、鵜野さんは、学生たちに“戦争替え歌”を伝える活動に力を注いでいます。
この日、6月23日は、沖縄の慰霊の日。授業で取り上げたのは、沖縄で生まれた替え歌でした。
戦争末期、激しい地上戦で20万人以上が亡くなった沖縄。
人々は、“ガマ”と呼ばれる自然洞窟に身を潜め、生き抜こうとしていました。
鵜野さんは、当時盛んに歌われていた童謡を教室に流しました。
童謡「ぼくは軍人大好きよ」
ぼくは軍人大好きよ
今に大きくなったなら
勲章つけて 剣下げて
お馬に乗って ハイドウドウ
軍人への憧れを歌ったこの童謡。沖縄では、逃げ場のない悲壮な思いを歌う歌詞に変わりました。
替え歌
僕は軍人だいきらい
今に小さくなったなら
おっかさんに抱かれて 乳飲んで
オナカの中に 消えちゃうよ
真剣な表情で2つの曲を聴いた学生たち。感じた思いを次々と発言しました。
学生たち
「死にたくないとか、戦争嫌だっていう思いが替え歌に表れている」
「上から締めつけてくるものへの反発を感じた。それに共感した」
「歌うことで、つらい戦争を乗り越えようとしているのかなと思った」
「建て前を無視した、ストレートな思いが出ていて、すごいなと思った」

どうしても歌えなかった “戦死者”の替え歌

今回、私たちに替え歌を披露してくれた外山さん。
どうしても歌えなかった歌があった、と打ち明けました。
戦況の悪化で、外山さんの通っていた学校には「英霊室」という部屋が設けられました。
中には、校区内の戦死者の遺影が飾られました。
教室の中でも、戦死が身近な話題となりました。
外山さん
「誰々のお父さんが戦死なさった、とか、どこそこのお父さんが戦死した、とか、あまりにも先生が戦死、戦死と戦死を褒めたたえるから、戦死が立派なものだと思い込むようになった」
ある日、学校の教員から「駅に集まるように」と動員をかけられた外山さん。
戦死者の遺族が、白木の箱を抱えて歩く姿を目にします。
当時、大阪では、その光景をそのまま写し取ったような替え歌があったといいます。
替え歌
昨日生まれた タコの子が
タマに当たって 名誉の戦死
タコの遺骨は いつ帰る
骨がないから 帰れない
タコの母ちゃん かなしかろ
元歌は、大人の女性の切ない恋心を歌った流行歌。子どもたちは、戦死者の遺骨が戻らない悲しみを表す歌として口ずさんでいました。

しかし外山さんは“名誉の戦死”をばかにするような気がして歌えませんでした。

そして、戦争に翻弄された自分の子ども時代をこう振り返りました。
外山さん
「自分は軍人になって、国民のために尽くさなきゃならない、と子ども心に誓っていた。軍国教育を受けてきたからでしょうね。時代の空気に染まっていたというか、染め上げられていたと今は思える。でも、当時は子どもだったし、そんなことはとても考えられなかった。考えられないような社会だったと思います。恐ろしいことです」

戦時中の子どもたちの悲痛な叫び 後世に

戦後76年。鵜野さんは、“戦争替え歌”が時を超えて大切なメッセージを送っているといいます。
鵜野教授
「苦しかったであろう時代にも、替え歌を歌うことで、当時の子どもたちは『自分たちは生きているんだ』と叫んでいた。今、僕たちが生きている時代においても、自分の思いを表現することがどれほど大切かということを、替え歌は、教えてくれていると思います」
歴史の表舞台でほとんど顧みられてこなかった、子どもたちの“戦争替え歌”。

鵜野教授は、戦争に翻弄された子どもたちの悲痛な叫びが、これからの時代にも忘れられることがないよう、しっかりと伝え続けていきたいとしています。
大阪拠点放送局 ディレクター
泉谷圭保