東京は変わったのか~重度障害者が見た日本の“バリア”

東京は変わったのか~重度障害者が見た日本の“バリア”
何度もすりむいて、変色したひざ。車いすで生活する彼は40年以上、「バリア」を前に地面をはい続けてきました。

東京オリンピック・パラリンピックをきっかけに、日本に「バリア」がなくなってほしい。

そんな望みとともに活動を続けてきた彼は、この夏、東京の街角でこうつぶやきました。

「東京は、期待していたほど変わらなかったみたいだね」

(首都圏局記者 直井良介)

「日本のバリアフリーを進めるチャンス」

兵庫県に住む大久保健一さん(45)。

生まれつきの脳性まひで、電動車いすを使用している重度障害者です。
30年にわたり、全国の交通機関のバリアフリーをチェックする活動をしています。

「車いすでも、行きたいところに行ける世の中にしたい」という思いからです。

私(直井)は、大学時代の14年前に大久保さんと知り合い、記者になってからも取材を続けてきました。

大久保さんは東京大会の開催が決まったあと、私にこう話していました。
「東京オリンピック・パラリンピックが、日本のバリアフリーを進める大きなチャンスです。これを逃したら、永遠に変わらないと思います」

大久保さんに「密着」

国や東京都などは、大会に向けて、公共交通機関などのバリアフリーを進めてきました。

この数年で街が大きく変わったことは、多くの人も実感していると思います。

ーーそれでは、大久保さんは、今の東京のバリアフリーをどう感じるのだろうか。

この夏、東京パラリンピックの大会ボランティアとして訪れた大久保さんと話し合い、その状況を確認してみることにしました。
スマホを片手に密着取材をしたのは、東京パラリンピック9日目の9月1日です。

UDタクシーの「乗車拒否」に

大久保さんは、東京に来てすぐ、あってはならない事態に直面します。

タクシーに、乗車を拒否されたのです。
しかもそのタクシーは、「UD(ユニバーサルデザイン)タクシー」。

東京大会の開催決定もきっかけに急増したタクシーでした。国の補助も出て、全国に2万台余りが走っています。(令和2年3月末時点)

後部座席がフラットになるため、車いすに乗ったままでも乗り降りすることができる構造で、もちろん大久保さんも乗れるはずです。

「知らない」というバリア

では、なぜ乗車拒否にあったのか。

そのときのUDタクシーの運転手と大久保さんのやり取りです。
運転手
「車いすから降りて乗ってください」

大久保さん
「いえ、シートをたためば、このまま乗れるはずですが…」

運転手
「手押しの車いすならば乗れますが、電動車いすは乗れません」

大久保さん
「いや、でも…」
反論しかけた大久保さんですが、ことばを飲み込むように「じゃあ、いいです」と返します。

運転手は「すみません」と言うと、そのまま走り去っていきました。

UDタクシーをめぐっては、乗車拒否が問題となった平成30年、そして令和元年と2度にわたって、国が業界団体に通知を出しました。

この中でははっきりと、乗車を拒否してはいけない事例の一つに、“電動車いすを使っていること”と書かれています。
しかし、その通知は徹底されていませんでした。

今回の取材で見えた「知らない」という「バリア」です。

小さくなっていく車を見ながら、大久保さんはつぶやきました。

「悔しいよね…」

地下鉄 エレベーターはどこ?

鉄道の利用でも、課題が見えました。

東京都心の近くにある地下鉄の駅。
港区のユニフォームの受け取り会場から駅の入り口に着きましたが、エレベーターがありません。

都心近くのこの駅にエレベーターがないことは考えにくく、すぐ近くにあった地図を確認します。

しかし、地下鉄の入り口の場所は書いてあるものの、エレベーターの場所は書いてありませんでした。
「エレベーターはどこに?」

結局、10分ほど探し回って、ようやく見つかりました。

電動車いすに乗る大久保さんには、大きな負担です。

この数年、駅にエレベーターが増えたと感じている人も多いと思います。

しかし、大久保さんは、設備を整えることに加え、その利用をしやすい環境になっていることが大切だと指摘します。
「例えば台湾では、地図はもちろん、エレベーター前に大きな看板が出ていて、私たちから見てもわかりやすくなっています。日本は、せっかく作っても、作っただけのように感じてしまいます」

これが「ユニバーサルデザイン」?

多くの人に配慮するはずが、大久保さんには使用しにくいものも見つかりました。

とある鉄道の駅の券売機。外国人も使いやすいよう7か国語にも対応した、「ユニバーサルデザイン」の機能が盛り込まれています。

その券売機で大久保さんは切符を買おうとしたものの、なかなか指が動きません。

そして、「画面が見えない。僕と同じ目線で見てみて」と私に伝えます。かがんでみると、大久保さんが操作できない理由がわかりました。
画面がフィルターがかったように黒くなり、見えづらくなっていたのです。横からのぞき見られることを防ぐ配慮の機能が、「車いすの目線」ではむしろ壁になっていました。

結局、この券売機で切符を買うことは諦め、別の種類の券売機で切符を買いました。
「『ユニバーサルデザイン』の考え方はすばらしいけど、作っているのは健常者の場合がほとんど。作るときや、設置するとき。それぞれの場面で実際に使うユーザーの目線が必要なんです」

改善した設備、そして人の心も

大久保さんへの密着取材ではさらに、競技会場へのエレベーターが遠い、道を渡る手段が歩道橋しかないなど、多くの「バリア」が見えました。

一方、設備も、人の心も、変わったと思える場面にも多く出会えました。

「乗車拒否」にあったあと、別のタクシーの運転手は、苦戦しながらもスロープを組み立ててくれ、無事乗車できました。

坂やカーブでは、「危ないのでしっかりつかまってくださいね」と声をかけ、慎重に運転をしてくれました。
駅のエレベーターでは、スマートフォンに目を落としていた女性が大久保さんを見るなり、乗り込むまで「開」ボタンを押し続けてくれました。

駅のホームでは、案内をしてくれた駅員が、ホームの足元にあるQRコードを使って、降りる駅の駅員に大久保さんが行くことを伝えていました。
そして着いた駅では、駅員がスムーズにリフトに乗せてくれました。

バリアフリーは大きく改善 「でも…」

東京パラリンピックの間に東京を訪れた大久保さんは、何を感じたのか。

取材の最後に聞いてみました。
「大会を契機に、駅や競技会場のバリアフリーは大きく改善されたと思います。駅や競技会場に入ってしまえば、私たちがかつて感じていたバリアは、なくなってきているんです。でも…」
次のことばが、印象的でした。
「東京は、期待していたほど変わらなかったみたいだね」

“誰もが自由にどこへでも”は…

取材中、これまでの人生で大久保さんが直面した「バリア」が、どんなに厚かったかを感じた瞬間がありました。

それは、冒頭でも紹介した、この変色したひざです。
何度もすりむいたその皮膚は盛り上がって硬くなり、ひび割れています。
「車いすで入れない所はたくさんあります。そういうとき、僕は、地面をはうしかないんです」
今回の取材でも、ホテルの部屋とトイレの間に段差があり、床をはうことを強いられていました。
何度も引きずられ、こすれるひざ。

いつしか硬く、厚くなっていったのです。

ひざに痛み止めの薬を塗りながら、大久保さんは言いました。
「僕が小さいころはエレベーターなんてほとんどなくて、人力で持ち上げてもらいました。駅員も車いすの扱いに慣れていなかったし、交通機関は障害者が利用できるものではなかった。それに比べたら今はよくなった。でもまだ、障害者がやりたいことをやって、行きたいところに行けるようにはなっていない」

出会って14年 これからも考え続ける

私が大久保さんに出会ったのは、14年前の大学時代。

きっかけは、都心から遠く離れた小笠原諸島・父島で、介助の手伝いをしたことでした。

そのときから障害者の現状を丁寧に教えてくれ、「日本から、バリアをなくしたい」という大久保さんの望みは、記者となった今の私の思いにもなっています。
オリンピック・パラリンピックは、東京のバリアフリーを大きく前に進めました。

しかし、今回の取材では、まだ十分ではないところもあることが見えました。

大会が終わった今こそ、大久保さんのような障害のある人が過ごしやすい街にするにはどうすればいいのか、さらに考えていく必要があるのだと思います。
首都圏局記者
直井 良介
2010年入局
山形局・水戸局などをへて首都圏局
障害者や福祉関係の取材を続ける