「お風呂にね、入りたいんです」 彼女が託した“最後の声”

「お風呂にね、入りたいんです」 彼女が託した“最後の声”
「父ちゃん首かいて。かゆい」

「のど渇いたよ。お水持ってきて」

私が出会ったお母さんは、身体を動かすことができず、ベッドに横になっていました。

「お風呂にね、入りたいんです」

それはまもなく声を失う彼女が、私に託した願いでした。

(金沢局記者 松葉翼/ネットワーク報道部記者 杉本宙矢)

はじまりは1通のメール

北陸の厳しい冬が終わったことし3月末。

NHKの「ニュースポスト」と呼ばれる視聴者からの投稿フォームに、1通のメールが届きました。

差出人は金沢市内に住む女性です。
“私はALSの患者です。在宅で療養していますが、介護サービスの「訪問入浴」の利用を断られ、お風呂に入れる予定が全くありません。この現状をニュースで取り上げて改善してもらいたいです“
このとき私(松葉)は記者になってまだ1年足らず。

医療・介護の取材経験はありませんでした。

出会い

「よく来てくださいました」

自宅を訪ねると、彼女は鼻に医療用のチューブを通し、呼吸器をつけた状態でベッドに横になっていました。

メールをくれたのは高橋利子(としこ)さん、49歳。
夫の利裕(としひろ)さんと、小学1年生の息子の利久(りく)くんと3人暮らしです。

手足はほとんど動かすことができず、ベッドで寝返りを打つのも利裕さんが支えます。

看護師やヘルパーも毎日訪れ、体調管理や介護にあたります。
「何から聞けばよいだろう…取材で高橋さんの体調が悪くなってしまわないだろうか」

私は緊張していました。

そんな様子を察してくれたのか、高橋さんが積極的に話しかけてくれました。

「自分が介助される側になるなんて、思ってもいなかったんです。実は私、看護師だったんですよ」

世界を飛び回る看護師

高橋さんは昭和47年に山形県で生まれました。

幼いころから、体の不自由な高齢の曽祖母が薬を飲むためのお湯をくんだり、髪を洗ってあげたりと日常のお世話をしていました。今でいう「ヤングケアラー」です。

その経験から「将来は人のお世話をする仕事に就きたい」と看護学校に入学し、看護師の資格を取りました。

好奇心が旺盛で、世界中を飛び回って旅したほか、イギリスでは高齢者の看護ボランティアに携わることもありました。

帰国後はその経験をいかし、大きな総合病院に就職しました。

深夜も患者のナースコールが鳴り響く病棟。

それでも仕事に生きがいを感じ、寝る間もなく働いたといいます。
知人の紹介で知り合った夫の利裕さんと結婚し、41歳の時に利久くんを出産。

家族3人の幸せな日々が続いていました。

原因不明の…

しかし、5年前。

突然強いけん怠感に襲われるようになり、何をするにも集中力が続かなくなりました。

半年間、仕事を休職しましたが症状は治まりません。

手がしびれて痛みが走るため、パソコンのマウスを動かすのさえ難しい状態でした。
幼い利久くんと過ごす時間を少しでもつくろうと一緒に出かけましたが、途中で動けなくなってしまい、夫の体に倒れかかることもあったといいます。

ついには壁や手すりにつかまらないと、歩くことすらままならなくなりました。

長らく原因が分かりませんでしたが、東京の病院で精密検査を受けてようやく分かった病名が「ALS」でした。

迫られる選択

ALS=筋萎縮性側索硬化症は、運動神経系に障害が起き、手足やのど、呼吸に必要な筋肉が徐々に動かなくなる進行性の病気です。

厚生労働省などによると、日本では1万人ほどの患者がいるとされ、根本的な治療法はありません。

症状が進行すると自力での呼吸が難しくなり、気管を切開して人工呼吸器をつけなければ数年で死に至るケースもあるといいます。

医師からは、気管を切開する手術をすれば余命は延ばせるかもしれないと言われました。

代わりに失うとされたのが「声」でした。

「手術をしなければ、余命は半年から1年です」

高橋さんは選択を迫られました。
もう家族と世界を旅することも、看護師として患者さんに声をかけることもできない。

夫だけでなく利久くんにも、介護の負担を背負わせてしまうのではないか。

それなら生きていたってしょうがない。

一度は延命手術を断りました。

いいんだ、私はもう天国に行くんだ。

生きる気力を失いかけたとき、高橋さんを勇気づけたのは、友人や介護のスタッフたちの励まし。

そして何より利久くんの存在でした。
6歳になった利久くん。

ことしが小学校に入学する年でした。

部屋にはピカピカのランドセルや制服が置かれていました。

我が子の成長をまだ見ていたい。

高橋さんは声を失う覚悟を決めました。

高橋さんは、なぜお風呂に入れない?

話に圧倒され、私は会いに来た目的をしばらく忘れてしまっていました。

力を振り絞って情報を寄せてくれた高橋さんのために私ができることは、今の困りごとを世の中に伝えることです。

「あの、お風呂はどれくらい入れていないんですか?」
高橋さん
「実は手術の前に家族と過ごすために一時退院してから3週間、一度もお風呂に入れていないんです。体じゅうがかゆくて、かゆくて、でも自分ではかけない。自宅で入浴の介助をしてもらう訪問入浴を利用するはずだったのですが、どこもいっぱいだって、断られてしまって…」
高橋さんの気管切開の手術は2週間後。

そのための入院が3日後だというのです。

直接声を聞けるうちに、ニュースにしなければ…
なぜ、訪問入浴ができない状況になってしまっているのか。

驚いたことに、金沢市内にある3つの事業所すべてが受け入れを断っていました。

その理由は何なのか。

「『在宅介護』を選択する人が増えて、人手が足りないんですよ」

ある事業所の担当者はこう教えてくれました。

新型コロナウイルスの感染防止対策で、身内であっても面会が認められない病院や施設が多く、特に終末期の医療を受ける高齢者を中心に、家族と過ごせる「在宅介護」を選ぶケースが増えているというのです。

コロナの影響はここにも広がっていました。
取材した事業所の1つは、コロナの感染拡大前は100人前後だった訪問入浴の利用者が、取材したことし3月時点で140人にまで増えていました。

加えてその事業所では、常勤のスタッフ2人が同時期に退職してしまったといいます。

介護業界は過酷な労働環境や賃金の低さなどの理由で離職者も少なくなく、新たな担い手も見つかりにくいとされています。

人手不足が進行すれば、利用者のサービスが影響を受けます。

訪問入浴は介護保険制度の基準で、看護師資格を持つ人と介護スタッフ2人の原則3人以上のチームで行うことが義務づけられていて、1人でも欠けるとできなくなってしまうのです。

この事業所ではやむなく、新規の申し込みを断っていました。

訪問入浴は「赤字」!?

さらに、訪問入浴は事業所にとって収益が上がりにくいサービスだというのです。

訪問入浴で事業所が受け取る介護報酬の単価は、実際にかかった「時間の長さ」ではなく、行った「回数」によって決まります。

利用者の障害の程度が軽くても重くても、時間が短くても長くても1回は1回。

基本的には介護報酬は一律です。
厚労省などが行った調査では、1回の訪問入浴にかかる平均的な時間はおよそ60分。

しかし、高橋さんのようなALSの患者など重度の場合は、100分以上かかるケースも少なくないといいます。

事業所にとっては時間をかけるほど人件費が膨らみますが、サービスの質は落とせません。
金沢市内の事業所
「訪問入浴の事業単体では赤字にならざるをえません。介護用品の販売やデイサービスなどグループのほかの事業の利益で赤字を補填(ほてん)して何とかサービスを維持しているのが現状です」
厚生労働省が昨年度行った調査によると、全国から抽出した訪問入浴を行っている事業者400余りのうち、実に4割(41.3%)が赤字を抱えていたということです。

それならば介護報酬を上げられないのか?

専門家はこう指摘しました。
淑徳大学 結城康博教授
「この20年弱の介護保険の歴史を見ていくと、訪問入浴サービスの単価が低く、上がりにくいため、あてられる人件費に限りがあって事業継続が難しくなっています。介護報酬を引き上げるためには追加の保険料や税金の投入が必要ですが、負担も増えるため、住民や自治体の合意の形成ができていないのが現状です」

これが最後だから

私は高橋さんへのインタビューとともに、取材でわかった訪問入浴事業の現状について、ニュースで全国に伝えました。
放送を目前に控えたある日の夜。

高橋さんから私に着信がありました。
「明日が手術になりました。これが本当に最後の声だと思うから、お礼が言いたくて。私の伝えたかったこと、取材してくれてうれしかった。本当にありがとう」
その後、「手術は無事終わった」と夫の利裕さんが教えてくれました。

ただ、退院までは時間がかかり、しばらく会うことはできませんでした。

再会

4か月がたった、ことし8月。

私は高橋さんと再会しました。

彼女は以前のようにベッドに横たわっていました。
「調子はいかがですか?」

私が声をかけると、彼女は答えました。

「げ」

「ん」

「き」

「?」

「さ」

「い」

「き」

「ん」

「ど」

「う」

「?」

パソコンのスクリーンに写る文字と電子音。

それが彼女の“新たな声”でした。
高橋さんの顔の前に置かれたパソコンのカメラが彼女の眼球を感知。

その動きに合わせてカーソルが画面上をゆっくりと動きます。

1文字打つのにかかる時間は数秒。

完成した文章をパソコンが読み上げるのです。
1時間でできた会話は5往復。

それでも、話題は尽きません。

「今ね、利久がね」

「学校でプールがはじまるから」

「ゴーグルつけて」

「お風呂で練習してるの」
「今窓の外に」

「蛍いるの?」

「早く利久を」

「呼ばないと」

呼びたくても、触れたくても、数メートルが届かない。

それでもきっと距離は埋めていける。

「なおるのきたいしてる。あきらめない」

「利久とキャッチボールしたい!」

高橋さんは笑顔でした。

彼女の声が教えてくれたこと

金沢市内の事業所は5か月たった今なお、訪問入浴の新規受け入れは難しい状態です。

それでも少しずつですが、変化の兆しも見え始めています。

ニュースを見たという金沢市の市議会議員2人が議会の委員会でこの問題を取り上げ、訪問入浴について自治体レベルでも議論が始まりました。高橋さんのところには、市内の福祉施設から「うちのデイサービスでなら、入浴を受け入れられるかもしれない」という申し出もありました。

いずれも高橋さんが勇気を出して伝えてくれなければ、起きなかったことです。

「何かを変えたい」と願い、私たちを頼ってくれる人たちがいる。

その人たちの声に耳を傾け、少しでも思いに応えていく。

そんな記者になりたいと思いました。

追記

9月24日(金)午前7時台の「おはよう日本」の中で記者リポートを放送します。

この記事では伝えきれなかった高橋さんの思い、そして“最後の声”でわが子にかけた言葉とは。

また見逃し番組配信のデジタルサービス「NHKプラス」でも放送後1週間(10月1日まで)、パソコンやスマートフォンなどで視聴することができます。ぜひご覧ください。

※放送時間は変更になる場合もあります※