「よわいはつよい」大人も子どもも“助けて”が言えますように

「よわいはつよい」大人も子どもも“助けて”が言えますように
「なりたかった職業なのに、毎日苦しいのはどうしてだろう」
「やさしい人ほど悩んでいて、悩む人ほど、がんばっている」

学校や職場で掲示してほしいと作られたポスター。実はこれ「心身ともに屈強」と思われがちなラグビー選手などが専門家と始めた取り組みです。コロナ禍が長引く中、少し心の声と向き合ってみませんか。
(科学文化部記者 富田良 社会部記者 杉本志織)

「強くなければならない」?~苦しむ選手たち

「エースなのに、トスが上がってくるのが怖かった」

「強い人間を演じることで弱さを必死に隠していた」

「自分の弱さを見せることも、自分自身で認めることもできませんでした。理想と現実のはざまで苦しみ、悩み、そして心と精神を病みました」
アスリートたちの率直なことばが掲載されているのは、「よわいはつよいプロジェクト」のサイト。

日本ラグビーフットボール選手会と国立精神・神経医療研究センターの専門家らが発足させたもので、コンセプトは「誰もがよわさをさらけ出せて、よわさを受け容れられる社会へ」。

体の健康と同じく心の健康について前向きに考え、積極的に治療やケアをしていこうと呼びかけます。
選手会と専門家が、ラグビートップリーグの男子選手を対象に行った調査では回答があった251人のうち、4割を超える選手が、心理的なストレスを感じたり、うつや不安障害のある疑いを経験したりと、何らかの精神的な不調を経験。およそ8%の選手は直近の2週間に「死にたい」などと考えたことがありました。

そうした現状を踏まえ、プロジェクトではアスリートたちが経験した心の悩みを告白し、率先して心の不調と向き合う姿をインタビュー記事やメッセージを通して発信しています。

選手にかぎらず、大人も子どもも誰もが悩み、苦しむことや、心のケアをする大切さを伝え、社会にある精神疾患に対する偏見や誤解をなくしていくことを目指しています。

「何であいつなんだ」…負のメンタルから救ってくれたのは

プロジェクト発足に携わった、選手会の会長を務める現役ラグビー選手の川村慎さん。

自身も過去にチームでのポジションをめぐり精神的に追い詰められた時期があったといいます。
川村選手
「何をしても試合に出られない。後半から出たり、たまにスタメンで出たりしても一番手になれない。そういう時、『何であいつなんだ、けがしてしまえばいいのに』みたいな、“悪いマインド”にしばらくとらわれてしまい、ラグビーをやっていることさえつらかったです。それでも最初は人に話さなかった。すごく悔しいし、人に言うことじゃないと黙って、うちにこもっていたんですけど、結局うまくいかなかった」
自身の過去の心情をありのままに語ってくれた川村さん。1人で悩む中でけがをしたりパフォーマンスも下がったりしたといいます。

その悪循環から抜け出せたのは、ある時ふと周りに漏らしたひと言がきっかけでした。

『何で、俺こんなに頑張っているのにな…』
川村選手
「先輩や近しい人に話したら、『おまえの良さはここじゃない?』とか、『結局そんなこと言っていてもしゃーないわけだから』みたいな、特に何かすごくいいアドバイスがあったとか、特別な出会いがあった訳ではないんですが、そういうコミュニケーションを心許せる人としたことで、自分の中でモヤモヤが解決していったんです。最終的に試合に出ている先輩を心の底から応援できるようになって、そうした心持ちになると自分のパフォーマンスもすごく上がって安定して、気持ちもプレーも好循環で回り出しました。“かっこ悪い自分”を認めたくなくて、自分とちゃんと向きあわずに逃げていたことが分かったし、その経験は今のプロジェクトに通じています」

メンタルケアの知識あっても相談できない傾向も…

一方で、選手会と専門家の調査では、23のアンケート項目の回答を分析したところ、精神的な不調に対する知識があっても他人に相談する考えにはつながっておらず、またうつ状態の傾向が強くて支援が必要な人ほど相談を控えようとする傾向も見られたといいます。
プロジェクトの研究代表者で、調査を行った国立精神・神経医療研究センターの小塩靖崇さん。
学校や地域で、子どもや若者のメンタルヘルス教育を研究する中で、誰もが悩み、時に心の不調を経験しているのに、それを語ることは“弱い人間がすること”というイメージが壁になっていると感じてきました。
小塩さん
「アスリートは屈強な体と強じんな精神力を持っているとか、強くなくてはならないという意識が選手自身にも、社会の側にもあって、心の不調で助けを求める行動に否定的な考えがまだ多い。そうではなく、精神的な不調は誰でも起こりうるという意識を持って備えを進めることが大切で、予防や不調の早期発見のため身近な相談環境を作ったり、回復に向けたパートナーになる専門家を配置したりと、恒常的な対策が必要だと思います。影響力のあるアスリートが自身の“弱さ”を明かして前向きに取り組んでいる姿を見せることで、一般の人も“弱さ”と向き合いやすくなるのではと考えています」

“悩みを伝えること、恥ずかしくないよ”教育現場でも

自分の心の不調と向き合う力を子どもの頃から身につけてもらおうと取り組んでいるのが東京 足立区です。

過去に人口当たりの自殺者数が東京23区内で最も多くなり、対策を進める中で、7年前から区内すべての小中学校で「SOSの出し方に関する教育」を進めています。

授業では「悩みを話すのは恥ずかしいことではないよ」「助けを求めていいんだよ」と伝えながら、心の不調の具体例を挙げて聞いていきます。
『こんな気持ちになったことない?』

▽「消えたい」と思う。
▽今の自分に自信がもてない。
▽ほかの人がうらやましい。
▽自分なんてどうでもいい人間だ。
▽誰かに迷惑をかけている気がする。
▽イライラがずっと消えない。
▽心配ごとがあって食事が取れない…など。
そして、それは苦しいときの「あなたのこころの声かもしれない」と投げかけます。

対処法の具体例も挙げています。
『つらい思いをした時、こんな方法もあるよ』

▽深呼吸をする。
▽適度な運動で心の疲れを体の疲れに変える。
▽気持ちを文章にあらわしてみる。
▽いらない紙や雑誌を破る。
▽大声で叫んだり歌ったりする。
▽氷を握りしめる。
▽せんべいをバリバリ食べる…など。
そのうえで自分では抱えきれないこころの痛みを和らげるいちばんの方法として伝えているのが「信頼できる大人に話すこと」です。
「自分の悩みを話すって結構きつい。でも少しだけ勇気を出して話してみたら、あなたの話を真剣に受け止めて聞いてくれる人がいるよ」というメッセージを、小学1年生の時から毎年繰り返し伝えています。

ことし6月に区内の小中学生に行ったアンケート調査で、「相談できる人がいる」と回答した子どもは98%に上っています。
区では、子どもに変わった様子があれば周囲の大人が変化をいち早くキャッチし、対応していく環境づくりにも力を入れています。SOSを“発信する力”と“キャッチする力”の両方が欠かせないとしています。
八尋課長
「本当に困った時ってなかなか声は出せないと思うんですが、“みんながあなたの味方だよ”と常日頃から伝えて、SOSを出せる環境を作ることがいちばんの土台になると思います。そして子どもの頃から助けを求められるすべを身につけておくことが、大人になって『助けて』と声をあげることや、生き抜く力につながっていくと考えています。あわせて教員や周りの大人は、表情や声色、髪や爪、それに服装など小さな変化にもアンテナを高くはってSOSをキャッチできるよう心がけています」

従来の価値観を変えていく一歩に

アスリートたちや学校現場で進められる取り組み。

メンタルヘルスの問題に詳しい国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦部長は次のように指摘しています。
松本部長
「子どもも大人もそうだが、特に男性が非常にSOSを出しにくいと言われていて、これは生物学的なものではなく『男は泣いたらいかん』とか『愚痴を言わないのが美徳』といった生まれ育った社会・文化的な価値観が関係していると考えられます。また会社に相談室を作っても、そこに通うと人事評価に影響すると考える人もいる。だからこそアスリートのようなロールモデルとなる人たちが、情報発信する試みは非常に大切だと思います。そして子どもの頃から“SOSを出すことはいいことだ”と学ぶことは従来の価値観を変えていく効果がある。意識の変革とともに安心して悩みをさらけ出せる相談環境など社会資源を同時に作っていくことが必要だと思います」

長引くコロナ禍…しんどくないですか?

「よわいはつよいプロジェクト」では、小学校にアスリートが出向き、子どもたちと一緒に心の健康について考える催しを進めていくほか、「学校や職場でも意識を変えていってほしい」とポスターを作成し、自由にダウンロードできるようにしています。

コロナ禍の影響が長引く中、みずから命を絶つ児童や生徒は過去最多になり、大人も増えています。

「自分は大丈夫」

そう思っている方も、少し自分の心の声と向き合って、周りに伝えてみませんか。
科学文化部記者
富田良
平成25年入局
長崎局で原爆を中心に戦争関連の課題や文化財をめぐる問題点などを取材。現在、文芸や学術などを担当
社会部記者
杉本志織
平成25年入局
鹿児島局、大阪局を経てことし7月から現所属。
子どもや教育に関する取材を担当。