「負けてたまるか」夫を同時多発テロで失った妻の20年

「負けてたまるか」夫を同時多発テロで失った妻の20年
2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロ事件では2977人が犠牲となり、この中には日本人24人もいました。
あれから20年。事件で夫を亡くした日本人女性は、ニューヨークで犠牲者を悼む式典に参加しました。
人生を大きく変えた現場で、みずから「節目」と語るその日に、女性はどのような思いを抱いたのでしょうか。
(国際部記者 藤井美沙紀)

「早く逃げて!」

「テレビ…」

当時3歳だった長男のつぶやきに驚き、テレビ画面を見たところ、穴の空いたビルが映っていました。

2001年9月11日の午前8時46分、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービルの北棟に旅客機が激突した直後でした。

「夫が働いているのは、もう1つ(南側)のビルだから大丈夫」

目の前の光景を信じられない思いで見つめながら、杉山晴美さん(56)は自分に言い聞かせていました。

しかし、午前9時3分。夫の陽一さん(当時34)がいる南側のビルに、2機目が衝突。

そのおよそ1時間後、ビルが崩れ落ちたのです。
長男とともに、一連の様子をテレビで見ていた晴美さんにとって、人生が大きく変わった瞬間でした。
杉山晴美さん
「早く逃げて、早く逃げて!と思っていたら、主人のビルが崩壊してしまったんです。自分でもこんな声が出るのだと思うほど、大きな声で泣きました」

一緒に成長していきたかった

晴美さんは、陽一さんと大学時代のサークルを通じて知り合い、1992年に結婚。2つ年下の陽一さんは勉強熱心で、新婚旅行でも移動の合間を惜しんでさまざまな教材に目を通していたといいます。

晴美さんは、そんな夫を「いつか何かを成し遂げる人だ」と感じ、妻として支え続けたいと願っていました。
杉山晴美さん
「本当に努力していたし、仕事熱心だし、常に走り続けているような人でした。格好よかったなと、今でも思います。その頑張っている姿を応援しながら、一緒に成長していきたいと思っていました」
東京に本社を置く銀行に勤めていた陽一さんは、2000年6月、念願だった海外駐在の夢をかなえ、ニューヨークに赴任。晴美さんも、2人の息子を連れて渡米しました。

翌年の事件当時は、3人目の息子を妊娠していました。

陽一さんのオフィスは、マンハッタンの世界貿易センタービル南棟の80階。

2機目の旅客機が衝突したのは、77階から85階でした。

一人一人に人生があった

事件では、日本人24人が犠牲になりました。遺族がまとめた資料によると、内訳は男性22人、女性2人です。
24人がいた場所
世界貿易センタービル(南棟)16人
世界貿易センタービル(北棟)6人
北棟に衝突の旅客機に搭乗 1人
ペンシルベニア州に墜落の旅客機に搭乗 1人
最も多い16人が犠牲になったのは、陽一さんがいた世界貿易センタービルの南棟です。このうち、陽一さんが勤めていた銀行では12人が亡くなりました。

はじめに旅客機が衝突した北棟で亡くなった6人のうち2人は、日本の地方銀行の行員で、支店を閉じるため残務整理に当たっていました。また、2人は東京から出張で訪れていた大手シンクタンクの社員で、当時会議中でした。

その北棟に衝突した旅客機には、西部カリフォルニア州に住む団体職員の男性が乗っていました。
乗客乗員が協力して、首都ワシントンの政治の中枢への突入を阻止し、東部ペンシルベニア州に墜落した旅客機には、20歳の男子大学生が乗っていました。

事件で犠牲になった日本人の遺族会は存在しません。外務省は毎年遺族に、ニューヨークで開かれる追悼式典の案内を送っているということです。

見つかった右手の親指

「必ず夫を見つける」

事件のあと、晴美さんは身重の体でニューヨーク中の病院を探し回ったと言いますが、陽一さんは見つかりませんでした。

そして三男を出産した翌月の2002年4月、陽一さんの勤め先から1本の電話がかかってきました。世界貿易センタービルの跡地から見つかった右手の親指が、DNA鑑定で陽一さんのものと特定されたのです。
杉山晴美さん
「全身の血が逆流したような感じだった。この日が本当に来てしまった、と」
晴美さんは、火葬された陽一さんのわずかな灰を、ペンダントに大切に保管。

その夏、3人の子どもを連れて日本に帰国しました。

20年間、走り抜けた

帰国後の晴美さんにとって、子育ては決して楽ではありませんでした。

それでも、日々成長していく子どもたちに陽一さんの面影を見ることもあり、心の支えになったと言います。
そんな母親について、大学生になった次男の力斗さん(21)はこう話します。
力斗さん
「3人の子どもを育てるのはなかなか簡単なことではないし、感謝しかありません」
20年前、事件をテレビを見ながらつぶやいた長男の太一さん(23)は、高校の教師を目指しています。

父親を直接知らない三男の想弥さん(19)も、あと半年で成人になります。
杉山晴美さん
「生まれた子どもが成人するだけの年月がたったという、20年の重みのようなものを感じます。走り抜けた。あっという間だったなと」
「ちゃんと無事に育ってくれた子どもの姿を見ると『よかった』と思います」
20年は大きな「節目」だと言う晴美さん。世界貿易センタービルの跡地で毎年開かれている追悼式典に、ことし5年ぶりに出席することを決めました。
杉山晴美さん
「あの場所で、何を感じとれるのか自分でも想像がつかず、知りたいという気持ちがあります。改めてもう一度あの現場に向き合って、残された人生を歩んでいくステップにできたらと思います」

夫がとどまる場所へ

そして9月11日。晴美さんは陽一さんの写真とともに、「あの場所」に向かいました。

世界貿易センタービルで亡くなった犠牲者のおよそ4割にあたる1106人は、依然として身元が特定されず、DNA鑑定が続けられています。

晴美さんは、親指しか見つかっていない陽一さんが、多くの行方不明者とともに、今もそこにとどまっているように思えると言います。
追悼式典では、20年前、陽一さんがいたビルに旅客機が突っ込んだ午前9時3分、そのビルが崩れた午前9時59分などに合わせて、黙とうをささげました。

2977人の犠牲者全員の名前が、およそ4時間かけて読み上げられました。晴美さんは夫の名前を聞きながら、20年の歳月に思いをはせました。
杉山晴美さん
「20年間、頑張ってこられたのはテロに負けてたまるか、絶対にまた子どもたちと一緒に幸せになるんだという気持ちがあったからです。これから先は、自分がどう生きていくか考え、これまでのように前を向いていきたい。夫も見守ってくれているし『何かあればまたここに来ればいい』と言っている気がします」

20年間、変わらないもの

同時多発テロ事件をきっかけに、アメリカはアフガニスタンでの軍事作戦に踏み切りました。

20年間に及ぶ駐留の末、8月に撤退しましたが、武装勢力タリバンが再び権力を握り、多くの犠牲を払った戦争の意義が問われています。

晴美さんは、複雑な胸の内をこう明かしています。
杉山晴美さん
「アメリカが攻撃を始めたとき疑問を持ちつつも、その犠牲のうえに何かがあるのかなと思っていた。でも、結局また不安定な状態に戻ってしまった。簡単な問題ではないが、やるせないものを感じる」
それでも晴美さんは今回、私たちの取材に対し、生前の陽一さんとの思い出を努めて明るく、きのうのことのようにいきいきと話してくれました。

その姿から強く感じたのは、20年間ずっと変わらない、大切な人への愛情の深さでした。
国際部記者
藤井 美沙紀
2009年入局
秋田局、金沢局、仙台局を経て、国際部
担当は主にアメリカ