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参加できなかった57年前の東京オリンピック

厳しい練習と入念な準備を重ね臨んだオリンピック。メダル獲得は確実だと思っていました。しかし、スタートラインにすら立つこともできず、開催地・東京をあとにしなければなりませんでした。
これは今回の東京オリンピックでの話ではありません。57年前の東京大会で起きたことです。(社会部記者 白川巧・ジャカルタ支局長 伊藤麗)

57年前のあの日

ヘンドラ・グナワンさん
「東京オリンピックの開催日当日に『ジャカルタに帰れ』と言われました。急にです。その時、私たちはまっすぐ帰るほかありませんでした」
こう話すのは、80歳になるヘンドラ・グナワンさんです。57年前に東京で開かれたオリンピックで、自転車競技のインドネシア代表として、大会が始まる前から東京入りしていました。

しかし、予想もしていなかったあっけない幕切れ。詳しい理由もわからないまま帰国を命じられ、悔しさだけが残ったといいます。帰国後、チームを指導していたドイツ人のコーチはひどく落胆して、いなくなってしまったといいます。

自転車好きの少年から「アジアの虎」へ

首都 ジャカルタから100キロほど離れた町に生まれたヘンドラさん。
小学生の頃から自転車に乗るのが大好きでした。学校を休んで時間を忘れてこぎ続けるほど、夢中になったといいます。

15歳になると、両親から「地元の自転車レースで勝ったら、レース用の自転車を買ってあげる」と言われ、見事勝利。中古のレース用の自転車を手に入れ、インドネシア国内で開かれる数々の大会に出場するようになりました。

大会で結果を残すようになると、ジャカルタのチームに所属、インドネシア代表に選出と夢へと駆け上がっていきました。

19歳の頃、ヘンドラさんはインドネシア代表としてローマオリンピックに出場。結果は残せませんでしたが、2年後の1962年に開かれた自国開催のアジア大会では、金メダルを3つ獲得します。
大会に出場するヘンドラさん
当時のインドネシア代表はアジアでは向かうところ敵無し。「アジアの虎」と呼ばれるまでになりました。
ヘンドラさんが23歳で迎える東京オリンピックは、その2年後に開催されることになっていました。

しかし、その夢は突然断ち切られてしまいます。

ゲームに出ることなく東京を去った

1964年10月10日、東京オリンピックの開会式当日。
ヘンドラさんたちは、突然、母国インドネシアへ帰国するよう言われました。

詳しい事情は説明されないまま、ヘンドラさんたちインドネシア選手団はスタートラインに立つことも、開会式に出ることもなく東京を去らなければなりませんでした。
東京大会に向けて練習するヘンドラさん(中央)
ヘンドラ・グナワンさん
「それまでジャカルタで練習を続け、東京に来てからも練習を毎日しました。私たちは入念に準備しました。だから、私はメダルを獲得できると確信していました。あの時、実際に結果を残すことができただろうと思うと、今も残念な気持ちにさいなまれています」

政治とスポーツ

ヘンドラさんたちは、なぜ帰国しなければならなかったのか。

インドネシアの政治や外交の歴史に詳しい、慶応大学名誉教授の倉沢愛子さんに話を聞くと、当時の東西冷戦のもと、インドネシアの置かれた立場の難しさがあったと指摘しました。
慶応大学名誉教授 倉沢愛子さん
倉沢愛子さん
「当時のスカルノ大統領は、新興国を率いる『第三世界のリーダー』ということを自認していて、東西冷戦の中でも、中立の立場を保っていました。しかも、少しずつ共産主義陣営寄りに傾いていったこともあり、ベトナム戦争を戦っているアメリカは非常に脅威に感じていました」
こうした中、東京オリンピックの2年前の1962年、自国開催となったアジア大会では、当時、親密な関係にあった中国と、同じくイスラム教徒が多い、アラブ諸国との連携を強化する方針のもと、それぞれの諸国と対立関係にあるイスラエルと台湾に対して事実上の参加拒否を決定。

これに反発したIOCは翌年、インドネシアのオリンピック委員会を資格停止処分に。

インドネシア側もIOCからの脱退を宣言し、同じ年にはアジア・アフリカ諸国に呼びかけて「新興国競技大会(GANEFO)」を自国で開催し、両者の溝は深まりました。

インドネシア選手団の来日は実現したもののー

一方、西側諸国の中で、インドネシアと良好だった数少ない国とされた日本。インドネシアに対するIOCの姿勢にアラブ諸国がボイコットの意志を示す中、アジアで初めて開かれる東京オリンピックに、できるだけ多くの国や地域に参加してもらいたいという思惑などから、IOCにインドネシアが参加できるよう働きかけました。

こうした働きかけなどからIOCは、インドネシアの資格停止処分を解除。東京オリンピックが開催される10月10日のおよそ2週間前には、インドネシアの選手団が来日できることになったのです。
帰国するインドネシア選手団(1964年)
しかし、東京大会の開幕が目前に迫っても一部の競技団体がインドネシアの選手団の中にGANEFOに参加した選手がいることなどを理由に参加を認めませんでした。このため、インドネシア政府が東京大会からの選手団の引き揚げを決めたのです。

こうして、ヘンドラさんたちインドネシアの選手団は、来日したにもかかわらず、開会式当日に東京を離れなければならなかったのです。

57年前と今回の東京オリンピックと

あれから57年。
ヘンドラさんは選手を引退したあと、15年前まで30年以上に渡り自転車競技のコーチを務め後進の指導にあたってきました。
今は、病気で視力を失い、今回の東京オリンピックは音声でしか聞くことはできませんでした。

それでも、インドネシアの選手たちの結果を熱心にチェックしていたといいます。
そしてヘンドラさんは、改めて、当時の東京大会に出場できなかった悔しさを感じていると話しました。
かつて獲得したメダルを手にするヘンドラさん
ヘンドラ・グナワンさん
「私の選手としてのピークは1964年の東京オリンピックになっていたかもしれません。当時は出場できず、本当に残念です。政治的な問題のことは、私たちは知らなかったんです。いまだに自転車への思いがあります」
開会式でインドネシア選手団の入場行進を見た慶応大学名誉教授の倉沢さんは、次のように話しています。
倉沢愛子さん
「前回の東京大会のことをかすかに覚えている私の世代にとっては感無量ですね。でも、小さな代表団でしたね。1964年の東京オリンピックの時は80人もの代表を送ってきていたんですよね。それなのに参加できなかった。今回はコロナのせいでしょうか。少ししか選手が来ていませんね。政治的な問題が無くなったらコロナでしょ。なかなかうまくいきませんね」

ようやく実現できた東京大会への参加

7月の東京大会の開会式で行進するインドネシア選手団
1度目の東京オリンピックには参加できず、57年越しに東京大会への参加を実現したインドネシア。
7月から国内で新型コロナウイルスの感染が急拡大する中で派遣した選手団は、金・銀・銅 合わせて5個のメダルを獲得しました。

インドネシアのスポーツと政治に詳しい、インドネシアスポーツ専門家協会のジョコ・プキック・イリアント会長は、次のように指摘しています。
ジョコ・プキック・イリアント会長
「1964年当時のスカルノ大統領は『スポーツは国家闘争の手段だ』と述べました。インドネシアは他国からの圧力を受けていて、自分たちの国の存在感やアイデンティティーを示すのにスポーツを利用したのです。情勢が安定した国としては、選手に最高のパフォーマンスをさせることで、その存在感を示すべきです」

オリンピックの意義と今回の東京オリンピック

新型コロナの影響で不参加を決めた国こそありましたが、政治的な問題で参加できなかった国はありませんでした。

ただ、ミャンマーでは軍事政権下で参加できた選手が少数にとどまるなど、依然としてアスリートが自由に参加できる環境にはなっていない現状もあります。
「オリンピック憲章」では「オリンピズムの根本原則」の中で次のようにうたっています。
「すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない」
政治的な問題で、選手たちの活躍の場が奪われることがないよう、57年前に起きたことが繰り返されてはならないと、改めて感じました。
社会部記者
白川 巧
2002年入局
総務省担当
ジャカルタ支局長
伊藤 麗
2015年入局
盛岡局や国際部を経て
ことしから
ジャカルタ支局で
インドネシアと
東ティモールを取材

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