アフガニスタンから避難して40年 待ち続ける日々

アフガニスタンから避難して40年 待ち続ける日々
あの日、密入国を手引きする業者に大金を渡し、国境を渡りました。遠くない将来、またふるさとで暮らせると信じて疑いませんでした。いろいろな軍隊がやってきては「平和を取り戻す」と言っていましたから。でも平穏は訪れないまま、気がつけば40年がたっていました。(テヘラン支局長 戸川武)

22歳で祖国を逃れた

男性の名前はモハンマド・ムーサ・アクバリさん。60歳。
いまはイランの首都テヘランで、妻と3人の子どもと暮らしています。アクバリさんの出身地は、隣国アフガニスタンの首都カブールです。

幼い頃から絵を描くのが好きだったアクバリさんは、カブール大学に進学し美術を専攻しました。テコンドーなどスポーツに打ち込む学生生活だったと言います。
異変が起きたのは1979年でした。

「ソビエト軍がやってきたんです。雰囲気はがらっと変わりました。あの時以降、アフガニスタンには幸せな時期はありません」

アフガニスタンの混乱が始まったのは、40年あまり前にさかのぼります。旧ソビエト軍の侵攻です。ソビエトは自らに近いアフガニスタンの共産主義政権を支えるため、当時の隣国、アフガニスタンに軍隊を送り込んだのです。
アクバリさんの周囲の多くの友人たちは、ソビエトを批判していました。大学の教室に治安当局が突然押し入ってきて、クラスメートたちが連行されたこともありました。いとこは理由も告げられず当局に拘束されたあと、行方がわからなくなりました。のちに、死亡したことがわかりました。
いったんこの国から逃げよう。
アクバリさん自身も何度か拘束されかけたことで、22歳の時、国外へ逃れる決意をしました。

行き先は隣国のイラン。言語が似ていて意思疎通ができる上、文化も近いからです。
イラン国境に近い町で密入国を手引きする業者と落ち合いました。当時の平均月収の7か月分にあたる大金を手渡しました。40キロの道のりを歩き、国境を越える計画でした。しかし、途中、当局に見つかり拘束されてしまいました。

死刑になるかもしれない。最悪の結末が頭をよぎりました。

でも、釈放されました。
業者は「相当な金を払ったよ」と言い残し、姿を消しました。こうしてなんとかイランにたどりつくことができたのです。

すぐに戻れると信じ、40年

イランでアクバリさんは写真屋の仕事の手伝いをして、生計をたてていきました。カメラマンとしての仕事も始めました。その後、同じく難民として逃れてきたアフガニスタン女性と結婚。子どもも生まれました。

でも、イランに長くとどまるつもりはありませんでした。
アクバリさん
「逃れたアフガニスタンの大半の人たちは避難先でずっと暮らすとは思っていませんでした。状況が落ち着けば戻るつもりでした。でも、一向に平和は戻らなかったんです」
祖国の混乱は続いていました。

旧ソビエト軍は10年にわたってアフガニスタンにとどまりましたが、イスラム主義の武装勢力の激しい抵抗にあい、89年ついに撤退。その後は内戦状態に陥ります。

90年代後半にはタリバンが国内の大半を制圧し政権を発足させます。オサマ・ビンラディン容疑者を滞在させ、密接な関係を持ちました。
そして、2001年にアメリカで同時多発テロが起きました。しかし、当時のタリバン政権は、首謀者のオサマ・ビンラディン容疑者らの引き渡しを拒否。これをきっかけに、アメリカはアフガニスタンへの軍事作戦に踏み切りました。

その結果、タリバン政権は崩壊しましたが、その残党などによるテロが絶えることはなく、戦火はくすぶり続けました。気がつけば、祖国から逃れてきて40年近くがたっていました。

アクバリさんは、なんとかまたふるさとで暮らせないかと、時折、祖国の状況を確認しに行きました。しかし混乱が収束する見通しはたたず、イランに舞い戻るしかありませんでした。

およそ900キロの国境を接するイランには、繰り返しアフガニスタンの人たちが逃れてきました。難民として登録されない人も含め、現在、300万人ほどがイランで暮らしていると言われています。工事現場などで低賃金で働く担い手の多くがアフガニスタン人です。

カブール制圧 タリバン復権

今年8月、アクバリさんたちは、気が気ではない日々を送っていました。アフガニスタンからアメリカ軍が撤退を進めるのにあわせて、タリバンが各地で攻勢に転じ、首都カブールに迫っていました。

連日、アフガニスタン各地の友人と連絡を取り合っていました。ある日、タリバンの戦闘員が押し寄せていた北部のマザリシャリフにいる友人に電話をかけました。
アクバリさん
「そっちの状況はどうだ?」

友人
「タリバンはもうすぐそこにいるよ。息子たちは明日この町を離れる。でも、俺だけは残ることに決めた。全員が家を離れたら政府の支持者だと思われ、この家を没収されるかもしれないからだ。タリバンも俺のような年をとった人間を殺しはしないだろう」

アクバリ
「皆の無事を願っているからな。また会おう」
この電話から、わずか4日後、タリバンは首都を制圧しました。自宅にあるテレビには、なんとか国外に脱出しようとアメリカ軍の輸送機にしがみつく人たちの姿が映し出されていました。

「今までの人生で最も心がしめつけられる映像でした。こんな残酷なことがあるでしょうか」

アクバリさんはしばらく何も考えられなかったと言います。難民となって周辺国に逃れる人々の波も続いていました。

「誰も約束を果たしていない」「平和はどこに」

妻のロガイエさんは、路上をさまよう多くの人たちの姿を、かつての自分に重ねていました。
ロガイエさん
「再びアフガニスタンの人たちが家を失うのを見るのは本当につらいです。誰も難民になりたくない。移住もしたくない。みんな静かにふるさとで暮らしたいだけなんです。もう40年もたっています。私たちはまだ平和を見つけられないのでしょうか」
取材をしていた私には、アクバリさんの目が怒りに燃えているように見えました。
アクバリさん
「ソ連も、アメリカも、タリバンも、その後の政府も、みな、アフガニスタンを平和にすると言ってやってきた。でも、誰1人約束を果たしていないじゃないか」
そして、まもなく、アクバリさんが恐れていたことが起きてしまいました。

8月26日、首都カブールの国際空港近くでIS=イスラミックステートの地域組織によるとみられる自爆テロが起き、多数のアフガニスタン人やアメリカ軍兵士が亡くなったのです。

アクバリさんは強いショックを受けながら、国の行く末を案じています。
アクバリさん
「絶望的な出来事だ。この国がまとまる日は来るのだろうか」

借金して作った地元料理レストラン

一向に戦乱のおさまらない祖国。

それでもアクバリさんたちの祖国への思いは変わりません。
一家は2年前、イランで念願だったアフガニスタン料理店のオープンにこぎつけました。

親戚に借金をし、さらには妻のロガイエさんの身の回りのジュエリーなどを売り払って、資金を捻出しました。
アクバリさん
「紛争やがれきといったアフガニスタンのネガティブなイメージを変えたい。レストランを開いて文化、食事、伝統を紹介したい」
お店の看板料理は「カブリパラウ」。
羊肉の炊き込みご飯に、炒めたレーズンやにんじんを添えたアフガニスタンを代表する料理です。

妻のロガイエさんが長女とともに腕をふるい、接客は末っ子の長男が担当です。
壁一面には、アフガニスタンの美しい景色や伝統行事の写真を飾るようにしました。ようやく常連客も増えてきたレストラン。こうした人たちにアクバリさんは「いつかアフガニスタン各地を案内してあげる」と約束しています。

私は取材の最後に「アフガニスタンに戻って、かなえたいことはありますか」とアクバリさんに尋ねました。時折言葉をつまらせ、目に涙を浮かべながら、こう答えてくれました。
アクバリさん
「生きているうちにアフガニスタンで暮らせる日が来るかはわかりません。でも、いつか大学で美術や写真を学生に教えてみたいんです。若い人たちと一緒になって、アフガニスタンを再び良くしたい。そんなことを夢みています」
テヘラン支局長
戸川武
2005年入局
新潟局、国際部、
中国総局などを経て現職