ゼロ戦がつないだ2つの遺族

ゼロ戦がつないだ2つの遺族
旧日本海軍の戦闘機、ゼロ戦。太平洋戦争では、日本の航空戦力の主力とされた。
戦時中千葉県にあった航空基地からは、首都圏防衛のため多くのゼロ戦が出撃してパイロットが戦死したが、その歴史はあまり知られていない。

私たちは、パイロットたちの亡くなった場所を探し続ける男性の活動をこの1年取材してきた。そしてことし1月には千葉県の水田からゼロ戦のものとみられる機関銃やエンジンが見つかった。

しかし奇跡の発見はこれで「終わり」ではなかった。

コロナ禍で、人のつながりを持ちづらくなっている76度目の夏。この間まったく接点のなかった2人のパイロットの遺族に新たな縁が生まれようとしている。
(千葉放送局記者 尾垣和幸)

「機関銃だ」 ゼロ戦の部品が発見

ことし1月、千葉県大多喜町の水田である発掘作業が行われた。地元の戦争の歴史を研究する男性やその仲間たちのグループが、重機を使って一帯の水田を広い範囲で掘り起こした。

作業開始から3時間がたち、日没が迫るなか、地中から泥にまみれた細長い金属製の筒のようなものが姿を現した。

「機関銃だ」

作業にあたる人たちから声が上がった。見つかったのは、旧日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」のものとみられる機関銃だった。
その3日後には、同じ場所からエンジンも見つかった。
塗装がそのまま残るなど、いずれも当時に近い状態で、地中の泥で空気から遮断され、さびが進まなかったのではないかと見られた。

奇跡的な発見に、周囲は興奮に包まれた。

ある男性の執念

発掘作業の中心になったのは幸治昌秀さん(78)。
千葉県出身の幸治さんは、終戦間際自分のふるさとに多くの戦闘機が墜落したことを知り、10年前からその場所の特定を進めてきた。
幸治さん
「自分の町にもしね、戦闘機が落っこちているのであれば、誰かが探さなければいけない」
幸治さんが特に力を入れて調べてきたのは、終戦の日に亡くなったとされる5人の若いパイロットたちが墜落した場所だ。

戦時中、房総半島には、ゼロ戦の拠点となる茂原航空基地があった。本土空襲のために飛来する、アメリカ軍やイギリス軍の航空機を迎えうつためだ。
終戦間際の基地に関する資料は、ほとんどが残されていない。幸治さんは、ゼロ戦のパイロットが残した手記などから、終戦の日に基地から飛び立った5機が撃墜されたことを突き止めた。

その後、地道な聞き込みや、地元の市史などに残された記述からこのうち3人については、最後に墜落して亡くなったおおよその場所が特定された。幸治さんの執念が実った結果だ。

亡くなった場所が分からない

しかし、いまだ亡くなった場所がはっきりしていないパイロットが2人いる。

そのうちの1人、杉山光平さん。当時の階級は上飛曹。享年20歳。
静岡県掛川市に住む杉山さんの弟、栄作さん(92)は6年前、幸治さんたちの活動を知り、兄が亡くなった場所を知りたいと調査を依頼した。

戦後、国から杉山家に届いた「戦死調査報告書」に記されていたのは、「昭和20年8月15日、千葉県にて 米機と交戦戦死」という内容だけ。息子が亡くなった場所を知りたいと願って亡くなった両親の思いを受け継ぎ、栄作さんは何度も千葉を訪れている。
栄作さんが覚えているのは一緒に魚釣りに連れていってくれた優しい兄の姿だ。

ゼロ戦の部品が発見されたという知らせを受け、栄作さんはことし2月、改めて千葉を訪れ、見つかった機関銃を確認した。
栄作さんは興味深そうに眺めながら、発見した幸治さんに「銃身が曲がっているけど、垂直に落ちたんですか」と何度も熱心に考えられるかぎりの当事の状況を尋ねていた。
そして大多喜町の水田に向かった。これまで戦闘機のものと見られる金属片が見つかり、目撃証言もあることから、この場所でゼロ戦が墜落した可能性が高いと何度も足を運んだ場所だ。
栄作さんは静かに手を合わせた。
杉山栄作さん
「これだけの物が見つかり、兄貴もうかばれます」
複雑な思いもあった。光平さんがここで亡くなったかどうかはまだ分からない。

墜落したのはこの周辺で唯一ゼロ戦が配備されていた茂原航空基地から飛び立った機体である可能性が高まった。ただ、光平さんが乗っていた機体かどうか、パイロットにつながる情報が得られないとやはり特定は難しい。

その後も相次ぐ発見

そうしたなか、機関銃が発掘されたほど近くから、新たな手がかりが見つかった。数センチ四方の白いかけらだ。
見つかった瞬間、幸治さんたちに緊張が走った。連絡を受けた警察官がかけつける。
見つかったものは、人骨の可能性があることがわかった。近所の人が書き残した日記からは、終戦の日、ここでゼロ戦が墜落して機体は炎上したとされていて、そこで遺骨が見つかるのはかなり可能性が低いと見られていた。

さらにその後も新たな発見は続いた。

ゼロ戦の一部が発見されたと報じたNHKのニュースを見た人から、研究グループのもとに、近くにパイロットの墓があるという連絡が届いたのだ。
墜落場所からおよそ700メートル。その墓は地元の人たちが眠る小さな墓地の片隅にあった。

高さ1メートルの墓石には「故海軍一等兵曹 茂原航空基地 一勇士之墓」「昭和二十年八月十五日 於大多喜泉水戦死」と刻まれていた。近所に住む男性によると、墓石は男性の祖母が建立し、代々墓参りを続けてきたという。

亡くなった人の名前は刻まれていなかったが、日付や場所から大多喜町の水田で亡くなったパイロットが地元の人たちによって大切に供養されてきたことがわかった。ただ墓は墜落から1年後に建立されたもので、中に実際に遺骨が納められているかどうかはわかっていない。

もう1人のパイロットを探して

水田で見つかった白い骨のようなかけらは、DNA鑑定が行われることになった。
幸治さん
「ここまできたからには、ぜひともパイロットを特定しないとね」
正確な鑑定のためには、墜落場所が分かっていないもう1人のゼロ戦のパイロットの遺族を探す必要があった。

パイロットの名は増岡寅雄さんという。
遺族会の名簿から、増岡さんの兄が福岡市にいることは分かっていたが、数年前幸治さんが、一度手紙を送った時には返信はなかった。

しかし、今回改めて書留郵便を送ると、まもなく、幸治さんのもとに、ある男性から電話がかかってきた。増岡さんのおい、藤田鉄平さん(69)からだった。
熊本県出身の増岡寅雄さん、階級は一飛曹。享年18歳。
男3人、女2人の5人きょうだいの次男だった。

藤田さんの母が増岡さんの妹にあたるという。母はすでに亡くなっているが、増岡さんについては「終戦の日に特攻に出て海で亡くなったのだろう」と聞かされていたという。

戦後、増岡さんの遺骨が家族のもとに戻ることはなく、家族の手元に残されているのは生前増岡さんから家族に宛てられた手紙と、戦時中、戦闘機の前で撮影されたとみられる写真だけだ。
増岡さんから親に届いた手紙には「我今より任地に向ふ(中略)只々国の為に散るのみ」などと記されていただけで、千葉県の基地にいたことさえ、知らなかったという。
ことし3月、藤田さんは、千葉県を訪れ、幸治さんたちに案内されながら、発掘された機関銃やエンジンを眺めた。

そして水田で手を合わせた。
写真の中の増岡さんの後ろには、ゼロ戦とみられる戦闘機と「掩体壕」(えんたいごう)といわれる建物がうつっている。

掩体壕は、爆撃から戦闘機を守るために格納するためのもので、基地の跡地には、現在もそのいくつかが壊されることなく残っている。
幸治さんと藤田さんたちは、これを手がかりに、写真が撮影された場所を探そうといくつかの掩体壕を見て回った。

結局特定はできなかったが、藤田さんは静かに語った。
藤田さん
「おじはここから飛び立っていった可能性があるんですね」
増岡さんの兄の健一さんは、3年前に94歳で亡くなったが、その妻の連子さん(94)は健在だ。連子さんは、同い年の増岡さんと仲がよく、戦後はしきりに「ああいうことで死なせてしまってもったいなかった」「あんな時代にしてはいかんよ」と口にしてきたという。

今は高齢者施設に入居していて、新型コロナウイルスの影響でなかなか面会も難しいが、藤田さんは「ぜひともおば(連子さん)に、寅雄さんのお骨を抱かせてあげたい」と考えている。

終戦の日 合同の慰霊祭を

76年前の8月15日に同じ航空基地から飛び立ったと見られる杉山光平さんと増岡寅雄さん。水田から見つかった遺骨らしきものを、家族のもとに返すためには、DNA鑑定でどちらのものなのか特定する必要がある。

しかし2人の遺族と交流を深める中で、活動を続けてきた幸治さんには新たな気持ちが芽生えてきた。戦禍で失われた若い命を思う気持ちはまったく同じだ。2人を一緒にあの場所で慰霊してあげられないだろうか。
幸治さんが提案すると、遺族である杉山さん、藤田さんともに快諾したという。

恐らく2人は、その日、終戦を迎えることを知らずに意を決して飛び立った。同じ空で散ったことに、変わりはない。気持ちは一致していた。

76度目の夏、ゼロ戦が墜落したとみられる水田で、2人の遺族が初めて対面する。兄やおじを悼み、共に手を合わせる予定だ。
そして、これまでまったく接点のなかった2つの家族が、平和を願う気持ちでつながる特別な1日になるはずだ。
千葉放送局記者
尾垣 和幸
新聞記者を経て、2017年入局
千葉市政などを担当
祖父や親しい知人から軍隊時代の過酷な体験を聞かされて育った