はだしのランナーにシューズを 立ち上がったオリンピアン

アフリカ東部、大陸最高峰のキリマンジャロがそびえるタンザニア。
日本から1万キロ以上離れたこの国に、ことし新潟県からはるばる135足のスポーツシューズが届けられました。
そこにはスポーツを通じて母国の女性たちを支えたいという、オリンピアンの思いがありました。
(新潟放送局記者 野原直路)
日本から1万キロ以上離れたこの国に、ことし新潟県からはるばる135足のスポーツシューズが届けられました。
そこにはスポーツを通じて母国の女性たちを支えたいという、オリンピアンの思いがありました。
(新潟放送局記者 野原直路)
きっかけは27年前

シューズはなぜ海を渡ったのか。そのきっかけは27年前にさかのぼります。
1994年、新潟県・旧六日町(現南魚沼市)の町内マラソン大会で、先頭を疾走する選手の姿がありました。
当時、世界的なランナーとして名をはせていた、タンザニアのジュマ・イカンガーさんです。
1994年、新潟県・旧六日町(現南魚沼市)の町内マラソン大会で、先頭を疾走する選手の姿がありました。
当時、世界的なランナーとして名をはせていた、タンザニアのジュマ・イカンガーさんです。

イカンガーさんはマラソンのタンザニア代表として、オリンピックに3回出場。「アフリカの星」とも呼ばれました。
1983年の福岡国際マラソンで、日本の瀬古利彦さんとゴール直前にデッドヒートを繰り広げたことでも知られています。
1983年の福岡国際マラソンで、日本の瀬古利彦さんとゴール直前にデッドヒートを繰り広げたことでも知られています。

イカンガーさんを旧六日町の大会に呼んだのが、当時町役場の職員だった今井雄一さんです。
当時、今井さんは町おこしの担当。地元のマラソン大会に一流の陸上選手を呼んで盛り上げたいと、日本陸連に掛け合っていました。
偶然、国際大会に出場するため来日予定だったイカンガーさんの日程に余裕があり、招待が実現したのだといいます。
当時、今井さんは町おこしの担当。地元のマラソン大会に一流の陸上選手を呼んで盛り上げたいと、日本陸連に掛け合っていました。
偶然、国際大会に出場するため来日予定だったイカンガーさんの日程に余裕があり、招待が実現したのだといいます。
今井雄一さん
「最後、本当にぎりぎりのところでイカンガーに決まったんですけど、なんだかすごい、どんでん返しというのか、すごい人が来る、本当に来るのかなと思いました」
「最後、本当にぎりぎりのところでイカンガーに決まったんですけど、なんだかすごい、どんでん返しというのか、すごい人が来る、本当に来るのかなと思いました」
とはいえ、大会の予算が限られる中、宿泊先に高額なホテルは用意できません。
そこでイカンガーさんの滞在先となったのは、今井さんの自宅でした。
そこでイカンガーさんの滞在先となったのは、今井さんの自宅でした。

今井さん
「ホテル代が捻出できないもので私の家に13泊も泊まってもらったんですけど、ジュマは『日本で家族と同様の扱いをしてもらって日本文化を吸収できて本当によかった』と。すごく気さくで町の子どもたちが遊びに来てくれても親しくつきあってくれる。本当に親しい友達になってくれたのがジュマなんです」
「ホテル代が捻出できないもので私の家に13泊も泊まってもらったんですけど、ジュマは『日本で家族と同様の扱いをしてもらって日本文化を吸収できて本当によかった』と。すごく気さくで町の子どもたちが遊びに来てくれても親しくつきあってくれる。本当に親しい友達になってくれたのがジュマなんです」
イカンガーさん
「日本の方と親しくなりたくて、町内マラソンに参加をしました。走っているとき、本当に多くの人が『がんばれー、がんばれー』と道ばたから声援を送ってくれたのを覚えています」
「魚沼のごはんをたくさん食べましたし、滞在中、今井さんに八海山に連れて行ってもらいました。八海山から見た日本海の美しい景色をいまも覚えています」
「日本の方と親しくなりたくて、町内マラソンに参加をしました。走っているとき、本当に多くの人が『がんばれー、がんばれー』と道ばたから声援を送ってくれたのを覚えています」
「魚沼のごはんをたくさん食べましたし、滞在中、今井さんに八海山に連れて行ってもらいました。八海山から見た日本海の美しい景色をいまも覚えています」
イカンガーさんを親しみを込めて「ジュマ」と呼ぶ今井さん。マラソン大会の後もお互いの国を行き来し、家族ぐるみのつきあいを続けてきました。
そんななか、3年前(2018年)に、来日中のイカンガーさんから、ある相談を持ちかけられました。
何とか中古のシューズを集めて送ってくれないかと頼まれたのです。
そんななか、3年前(2018年)に、来日中のイカンガーさんから、ある相談を持ちかけられました。
何とか中古のシューズを集めて送ってくれないかと頼まれたのです。
3割がはだしで出走 女子選手を取り巻く困難

実はイカンガーさん、競技を引退したあと、母国の女性たちがスポーツに打ち込める環境を作ろうと模索を続けてきました。
4年前には日本のJICA=国際協力機構とタンザニア政府の協力のもと、タンザニアで初となる女子陸上全国大会“Ladies First”を開催。
しかし、選手のおよそ3割が経済的な理由などで、はだしのまま出走していました。
その様子にイカンガーさんはショックを受け、何とか状況を改善しようと立ち上がったのです。
4年前には日本のJICA=国際協力機構とタンザニア政府の協力のもと、タンザニアで初となる女子陸上全国大会“Ladies First”を開催。
しかし、選手のおよそ3割が経済的な理由などで、はだしのまま出走していました。
その様子にイカンガーさんはショックを受け、何とか状況を改善しようと立ち上がったのです。

イカンガーさん
「シューズを買えない選手が、私の国にはたくさんいるんです。シューズがなければ練習中にケガをしやすくなりますが、シューズさえあれば、試合でよりいいパフォーマンスを発揮できるのです」
「シューズを買えない選手が、私の国にはたくさんいるんです。シューズがなければ練習中にケガをしやすくなりますが、シューズさえあれば、試合でよりいいパフォーマンスを発揮できるのです」

イカンガーさんたちが開いた全国大会に出場した、ハリマ・ハムザ選手です。マラソンでオリンピック出場を目指しています。
自身もはだしで競技をしていた時期があるハムザさんは、母国の女性選手を取り巻く環境の厳しさを訴えます。
自身もはだしで競技をしていた時期があるハムザさんは、母国の女性選手を取り巻く環境の厳しさを訴えます。
ハリマ・ハムザ選手
「経済的な理由で練習を続けることが難しく、多くの選手がランニングシューズやスパイクシューズなどを持っていません。特に女性選手の場合は、練習に対して両親の理解が得られないこともあります」
「経済的な理由で練習を続けることが難しく、多くの選手がランニングシューズやスパイクシューズなどを持っていません。特に女性選手の場合は、練習に対して両親の理解が得られないこともあります」

また同じく全国大会に出場し、自身もはだしで走っていた経験のある、ベロニカ・パウロ選手は交通費の捻出さえ困難だといいます。
ベロニカ・パウロ選手
「スタジアムまでの交通費が払えなかったり、両親の反対を受けたりして、私の所属するチームは女性選手が少ないんです。私もバス代が払えず、毎日は練習に行くことができません」
「スタジアムまでの交通費が払えなかったり、両親の反対を受けたりして、私の所属するチームは女性選手が少ないんです。私もバス代が払えず、毎日は練習に行くことができません」
イカンガーさんは、選手の活躍を通じて、経済苦やジェンダーにまつわる偏見という、女性たちを取り巻く2つの「格差」に挑みたいと訴えます。
イカンガーさん
「技術の発展で、とても高機能なシューズも開発されていますが、スポーツ用品が手に入らない選手も多くいます。それに、女性がスポーツをすることに反対する親もいます。でも、女性の競技への参加が、ジェンダーの平等や、女性を勇気づけることにもつながるのです」
「技術の発展で、とても高機能なシューズも開発されていますが、スポーツ用品が手に入らない選手も多くいます。それに、女性がスポーツをすることに反対する親もいます。でも、女性の競技への参加が、ジェンダーの平等や、女性を勇気づけることにもつながるのです」
「私も本当に貧乏学生だった」奔走する今井さん

イカンガーさんからの求めを受けた今井さんは、去年2月、自身のSNSで中古シューズの寄付を募りました。
その胸の内には、かつての自身のつらい経験がありました。
その胸の内には、かつての自身のつらい経験がありました。
今井さん
「学生時代、私は本当に貧乏学生でした。朝晩、新聞配達をして、セールスもあれば集金もある。大学も理工学部だったので実験と実習があるんですが、夕刊を配るために早退しないといけない。教授に言われたのが『勉強とバイトとどっちが大事なんだ』ということば。でも配達をやめたら学校もやめなければならない。非常に苦しい時代がありました」
「学生時代、私は本当に貧乏学生でした。朝晩、新聞配達をして、セールスもあれば集金もある。大学も理工学部だったので実験と実習があるんですが、夕刊を配るために早退しないといけない。教授に言われたのが『勉強とバイトとどっちが大事なんだ』ということば。でも配達をやめたら学校もやめなければならない。非常に苦しい時代がありました」
同じスタートラインに立てない悔しさを感じていたからこそ、今井さんは、タンザニアの選手のことを放ってはおけなかったといいます。
その思いが通じたのか、今井さんの元には県内外から瞬く間にシューズが集まりました。
その数、およそ300足。目標の3倍近くにのぼりました。
その思いが通じたのか、今井さんの元には県内外から瞬く間にシューズが集まりました。
その数、およそ300足。目標の3倍近くにのぼりました。

今井さんの自宅の一室は、集まったシューズでいっぱいに。
近所の人や地元の陸上競技の関係者と協力して、箱詰めや検品を行いました。
関税手続きや新型コロナウイルスの影響ですぐには送れませんでしたが、JICAの協力で、ことし2月に無事に発送。検疫を経て、4月に選手たちに手渡されました。
近所の人や地元の陸上競技の関係者と協力して、箱詰めや検品を行いました。
関税手続きや新型コロナウイルスの影響ですぐには送れませんでしたが、JICAの協力で、ことし2月に無事に発送。検疫を経て、4月に選手たちに手渡されました。
「これで足も痛くない」 目指すはオリンピック

かつてはだしで走っていたハムザ選手も、今回シューズを受け取った1人。厳しい環境で練習を積む周囲の選手たちも、意欲が高まっていると話しています。
ハムザ選手
「シューズがあれば、足も痛くないし、よりよいタイムを出せるようになります。シューズの支援をしてくれた日本の方々に、感謝しています」
「シューズがあれば、足も痛くないし、よりよいタイムを出せるようになります。シューズの支援をしてくれた日本の方々に、感謝しています」
同じくシューズを受け取ったパウロ選手は、将来への夢を語ってくれました。
パウロ選手
「頂いたシューズを練習で使っています。次の大会ではきっと今までより良いパフォーマンスができる。将来はオリンピックのような国際大会に出場したいです」
「頂いたシューズを練習で使っています。次の大会ではきっと今までより良いパフォーマンスができる。将来はオリンピックのような国際大会に出場したいです」
くじけそうな選手たちの支えに
タンザニアでのシューズの引き渡し式には、現地メディアおよそ10社が駆けつけ、注目を集めました。
今井さんとイカンガーさんは、今後も選手が才能を発揮できるよう、支援を続けることにしています。
今井さんとイカンガーさんは、今後も選手が才能を発揮できるよう、支援を続けることにしています。

今井雄一さん
「経済的な事情でシューズが買えないで、なかなか潜在能力を引き出すことができないでいる選手たちがいる。送ったシューズが役に立って、オリンピックでも活躍できるような選手が生まれたらすばらしいと思う。それが今の夢です」
「経済的な事情でシューズが買えないで、なかなか潜在能力を引き出すことができないでいる選手たちがいる。送ったシューズが役に立って、オリンピックでも活躍できるような選手が生まれたらすばらしいと思う。それが今の夢です」

ジュマ・イカンガーさん
「シューズを受け取った選手たちはとても喜んでいました。近い将来、サポートを受けた選手が、オリンピックのような大きな大会で活躍してくれると信じています。新潟や日本の方々に、とても感謝しています」
「シューズを受け取った選手たちはとても喜んでいました。近い将来、サポートを受けた選手が、オリンピックのような大きな大会で活躍してくれると信じています。新潟や日本の方々に、とても感謝しています」
ことし64歳になったイカンガーさん。インタビュー中、彼自身もキャリアの最初期ははだしで走ってけがをしていたと打ち明けてくれました。それだけに、シューズを買えない若手選手を目にするのが、つらいのだといいます。
もし新型ウイルスが収束していれば、イカンガーさんは東京オリンピックに合わせての来日を希望していたそうです。今井さんや、瀬古利彦さんとの再会も、かなったかもしれません。
しかし海外との行き来も制限され、オリンピックでさえ選手との交流は限られました。それでもイカンガーさんたちは、海外で厳しい環境に直面している選手たちの存在を知ってほしいと、訴えています。
もし新型ウイルスが収束していれば、イカンガーさんは東京オリンピックに合わせての来日を希望していたそうです。今井さんや、瀬古利彦さんとの再会も、かなったかもしれません。
しかし海外との行き来も制限され、オリンピックでさえ選手との交流は限られました。それでもイカンガーさんたちは、海外で厳しい環境に直面している選手たちの存在を知ってほしいと、訴えています。

新潟放送局記者
野原直路
平成27年入局。人生で一番長く暮らした都道府県が新潟になりました。
現在は佐渡や東京電力・柏崎刈羽原子力発電所、国際関係、医療の問題などを取材。
野原直路
平成27年入局。人生で一番長く暮らした都道府県が新潟になりました。
現在は佐渡や東京電力・柏崎刈羽原子力発電所、国際関係、医療の問題などを取材。