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「お芝居は、必要ないの?」コロナ禍で戦時下で

「押しつぶされて動けない!助けて!」「火が迫ってくる!」
8月6日、新型コロナによる緊急事態宣言下の東京。「ヒロシマ」という朗読劇が披露されました。演じたのは、20代から40代の俳優たち。
コロナ禍と76年前の戦争。二つの状況を重ね合わせて表現したのは「自由に演じる」ことの大切さ、そして芝居をすることの喜びでした。
(科学文化部記者 富田良)

原爆に散った桜隊とは

「桜隊」
朗読劇で演じたのは、76年前の8月6日、広島に投下された原爆で9人全員が犠牲になった「桜隊」と呼ばれた劇団の俳優たちの思いです。

「桜隊」は、太平洋戦争末期、慰問を目的に公演が許された移動演劇隊です。

丸山定夫や園井恵子といった当時の人気俳優をはじめ、舞台での仕事を失った俳優たちが参加しました。

表現や言論が厳しく統制され、国策にそぐわない劇団が次々に解散に追い込まれていった中、移動演劇隊も戦意高揚を図る「国策演劇」を強いられました。

それでも桜隊の団員たちは、芝居を通じて人々を少しでも明るくしたいという思いから、日々稽古を続け、演じることをやめませんでした。

ところが、1945年8月6日、公演のため滞在していた広島市の宿舎で、その場にいた9人全員が被爆。5人が即死し、残る4人もまもなく命を落としました。

桜隊を伝えていくために

無念の思いを抱えたまま犠牲になった劇団員の思いを追悼しようと、戦後、俳優仲間たちが、慰霊碑を建て、毎年、追悼会を開いてきました。

しかし、関係者の高齢化などで3年前には休止を余儀なくされていました。
丸仲恵三さん
そこで、劇作家の丸仲恵三さん(46)から出されたアイデアが、桜隊の再結成でした。

10年ほど前に訪れた広島で桜隊の存在を知り、何か力になりたいと考えてきました。
丸仲恵三さん
「戦時中の非常に制限された環境の中でも演劇をやろうとした、その姿勢に非常に心をひかれた。そういう人たちのことを忘れないためにも、演劇をもって彼らに報いたいと思いました。どうしたら会が生き残っていくか考えた時に、移動演劇隊として各地で公演を行う劇団を現代に再び作り上げれば、桜隊の名前も残せるし、広く知ってもらうこともできるんじゃないかと考えました」

コロナ禍で重なる思い

呼びかけに応えて集まったのは、20代から40代の俳優たち。

戦時下でも最期まで演じ続けた先人たちの思いに共感し、参加を決めたといいます。
平田みやびさん
中でも、強い思い入れを持って参加したのが、平田みやびさん(22)です。

広島出身で、子どものころから原爆投下や戦争の歴史に触れてきました。

おととし上京し、役者デビューを果たしましたが、去年からコロナの影響で芝居の公演などがほとんどなくなり、仕事が激減。

演じたくてもできない時間が続き、精神的にも追い詰められていたといいます。
平田みやびさん
「思うようにお芝居ができない、やりたいことができない息苦しさと、人に会えない寂しさも重なって、朝まで眠れなかったり、日が昇ってから眠ったりするような生活がコロナが始まってから続きました。当時の桜隊と今の私たちが置かれている状況というのはよく似ていると思います。お芝居がしたくても戦争には必要ないと言われ、今の私たちはコロナ禍で感染率が高くなるかもしれないのに芝居や演劇という娯楽は不要不急だと周りに言われています。その中でも、なんとしても工夫をこらして自分たちのお芝居をしたい、演劇をしたいっていう思いが強い人たちが集まったのが再結成した桜隊のメンバーで、原爆で犠牲になった桜隊のメンバーと気持ちは同じなのではないかとすごく感じています」
稽古中の平田さん
公演で演じる朗読劇「ヒロシマ」は、原爆や戦争をテーマにした映画を数多く制作してきた故・新藤兼人監督の台本をもとに、丸仲さんがシナリオを仕上げました。

原爆によって受けたひとりひとりの苦しみや、桜隊のメンバーがどのような最期を迎えたかも描かれます。
森下彰子さん
平田さんが演じるのは、亡くなった当時、23歳だった森下彰子さん。

森下さんは、結婚してまもなく戦地に派兵された夫、そして家族とも離れ、戦時中でも役者として成長できる場を求めて、桜隊に参加しました。
平田さん
「私とほぼ同年代の役者さんで、これからの未来に希望があった方が、たった一発の原爆で亡くなられたということに衝撃を受けました。これからやりたいことがたくさんあったのにその夢を自分の意思ではなく奪われてしまったという現実。セリフの中でもあるのですけど、恨むまもなく、叫ぶまもなく亡くなってしまったっていうのがすごく苦しくて」
平田さんは、森下さんが夫に送った手紙など、当時の資料を調べる中、森下さんが誰よりも稽古熱心で、最期まで演じることにこだわり続けたことを知りました。
平田さん
「自分の家族を守るためにお芝居から離れるという選択肢もある中で、それでもやりたいという形でご両親の思いとかも振り切って広島へ行った、そして被爆をしたというのは、間違った選択ではなかったと思います。自分の意思を貫いたっていうことはとても尊敬していますし、その思いは私も引き継ぎたかった。私も同じように、不要不急だと言われている中でもお芝居を楽しみにされている方、生きがいにされている方ももちろんいらっしゃるので、その方々のために自分の精いっぱいできる活動をしていきたい」

戦時下の思いに向き合えるか、葛藤も

一方で、平田さんは、戦争を体験していない立場で、森下さんが経験した死に対する恐怖感や苦しみ、無念さを十分に表現できるか、不安があったといいます。

シナリオの終盤、亡くなった森下さんが聴衆に訴える独白シーンがあります。

大きな見せ場となるこのシーンで、限られたことばにどのような感情を込めればよいのか。

平田さんは、台本のこのセリフの部分にひと言、「亡霊」と書き込んでいました。
平田さん
「あまりに情報がありすぎるとそれを全部詰め込もうとして結局何がしたいか分からなくなってしまうというタイプなので、シンプルに考えようと。最初は『悲しみ』を強調しようと考えましたが、稽古を重ねるうちに、亡くなった人間として話すものであるのであまりに生々しくなってはいけないという思いは大事かなと思うようになりました。自分は彰子さんとして戦争を経験して亡くなったわけではないけれど、とにかく彰子さんを自分の中に入れ込んで、私だったらこう思うってものを役者として出していきたい」

自由に表現すること

6日の公演
そして迎えた公演本番。桜隊の慰霊碑がある東京の五百羅漢寺で、76年ぶりに新しい「桜隊」が舞台に上がりました。
「押しつぶされて動けない!助けて!」
「火が迫ってくる!」
「熱い!誰かここから出して!助けてください!」
「丸山さん、遺骨が出たよ。ウチの喜代もダメだった…」
「すまん、すまん!君たちをこんな姿にしちまって。無理にでも疎開すべきだった!みんな許してくれ!」
感染防止のため、集まったのは限られた関係者のみ。

それでも演者たちは、亡くなった桜隊のメンバーをはじめ、被爆した人たちの苦しみや無念、そして怒りを、ことばと表情だけで表現しました。
そして、平田さんがこだわった独白のシーン。
「森下彰子です。私たち5人は寮で、建物に押しつぶされ、焼死しました。遠い戦地にいる夫、川村禾門との新婚生活も、女優としての前途も、戦争と原爆によって全て断たれてしまったのです」
唐突に未来を奪われた悲しみや絶望、怒り、悔しさ。
さまざまな感情が入り交じった思いを、森下さんに成り代わって訴えました。

被爆者たちの声をそのまま代弁するかのような熱演に、会場では涙を流す観客の姿も見られました。
平田さん
「人前でお芝居をするのは久しぶりでしたが、やっぱりうれしくて、特別な公演になりました。やりたくてもできない状況の中でも、あがいてでもお芝居がしたい、ダメと言われてもしたいっていう強い思いって、本当にお芝居が好きじゃないとできないことだと改めて思いました。桜隊の意思を私たちが引き継ぐ形で精いっぱい、尊敬の意も込めながら、これからもお芝居を続けていきたいですし、コロナが早く収束して観客の笑顔とか表情を見ながらまたお芝居ができることを願っています」
表現の自由が厳しく制限された戦時中と、観客を入れて公演ができないコロナ禍の現代。
自由に芝居がしたいと願い、最期まで演じ続けること。
公演を終え、大きな拍手が送られた演者たち。
その表情からは、芝居をすることができた喜びとともに、76年前の俳優たちの思いを受け継ぐ覚悟が伝わってきました。
科学文化部記者
富田良
平成25年入局。金沢局を経て平成28年から長崎局で勤務し、原爆を中心に戦争関連の課題や文化財をめぐる問題点などを取材。令和元年夏から科学文化部で文芸や学術などを担当

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