1964年東京五輪ポスターに支えられて

1964年東京五輪ポスターに支えられて
走り出す屈強な男たちの写真の前でほほえむ男性。

写真の下には「TOKYO 1964」。

57年前の前回の東京大会の公式ポスターです。

このポスターと男性をめぐる“ある物語”をご紹介します。

(ラジオセンター チーフディレクター 熊田繁夫)

1964年東京五輪ポスターとは

前回の東京オリンピックでは、当時の日本を代表するグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏が中心になって4種類の公式ポスターが制作されました。

このうちの1枚は、暗闇を背景に陸上選手が一斉にスタートする瞬間をとらえています。

オリンピックポスターの歴史のなかで初めて写真が使われました。

「斬新」で「躍動感」があると海外でも大きな反響を呼び、オリンピックポスターの傑作の1枚ともいわれています。

写っている6人のうち3人は、記録によると当時のアメリカ軍・立川基地に所属していた陸上経験者。

残る3人は日本人で、当時の現役の選手たちです。

そして、奥から2人目。
横顔がわずかに見え、靴下をはいた足が写っているのが、千葉県流山市に住む岡本政彰さん(84)。

ポスターの前でほほ笑む男性の半世紀余り前の雄姿です。

ポスター参加のきっかけは

私は4年前、千葉放送局に勤務していた時、岡本さんにお会いし、話を伺う機会がありました。

今回の“コロナ禍”で開かれる異例づくめの大会について、どのような思いを抱いておられるのか、改めて取材したいと思い、千葉・流山市に向かいました。

岡本さんは、ことし84歳です。

熊本県の出身で、高校時代、進学した早稲田大学時代も陸上の短距離選手として全国大会で活躍。

大学卒業後は、当時、全国屈指の実業団チーム「リッカー」に所属し、1964年の東京オリンピックへの出場を目指していました。
そうした中、同じチームの先輩で、1956年のメルボルンオリンピックに陸上・短距離の日本代表として出場した潮喬平選手が公式ポスターの「モデル」に選ばれました。

岡本さんは、ある日、潮選手に声をかけられました。

「今度、ポスターの撮影があるから、君も準備しておきなさい」

ただ、ポスターの撮影がどういうものかは具体的に知らされませんでした。

「いったい何の撮影をするのかな?」

岡本さんは、内容を十分に理解せぬまま撮影に参加することになります。

その撮影が後日、オリンピックの公式ポスターの撮影だと知った時、岡本さんは「大変なことになった」という思いと「とても名誉なこと。よし、やってやるぞ!」という思いが交錯したといいます。

当時、25歳でした。

難航した撮影

撮影は1962年3月、当時の国立競技場で行われました。

制作を手がけたグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏のねらいは「6人の選手が折り重なり、さらに全員の顔が見えること」
撮影は難航を極めました。

当時のカメラに連写機能はなく、1回のチャンスに撮影できるのは1枚のみ。

シャッターを切るタイミングが早すぎたり、逆に遅かったりしたケースや、タイミングはよくても選手が重なって全員の顔が見えないなど、ねらいどおりのショットはなかなか撮れません。

日没からおよそ3時間にわたって行われた撮影で、30回以上のスタートダッシュが繰り返されました。

その結果、およそ100枚から選びだされたのが、あの「珠玉のショット」です。
当時の様子について岡本さんは。
「1本1本が勝負ということでそれを繰り返しただけですね。『もう嫌だ』とか『もういいよ』とか、そういう感じは、一切なかったですね。全身全霊で頑張った印象しかありません」

かなわなかった五輪への出場

大会を彩るポスターの撮影から2年半後に開幕した東京オリンピック。

しかし、その場に岡本さんの姿はありませんでした。
選考レースを前に右太ももの肉離れの痛みが悪化し、出場の夢はかなわなかったのです。
岡本さん
「いくらやっても勝てないという力であればあきらめもつくけど、自分としては、やれば勝てるかなという希望があったものですから、非常に挫折感は強かったですね」
悔しさから当時の東京オリンピックは一切、見ることができなかったそうです。

それだけではなく、誰にも会いたくない、誰とも話したくないと鬱屈(うっくつ)した思いに駆られていたということです。

東京大会後は、自ら競技からも所属チームからも離れていきました。

社会人としてもいくつか職をかえるなど失意の日々を送ることがあったといいます。

公式ポスターを飾った岡本さんですが、東京大会はつらい出来事として長く影を落とすことになったのです。

ポスターとの“再会”

そんな岡本さんがみずからの生き方を見直すきっかけ。

それはポスターとの“再会”でした。

50歳を前にしたある日。

訪れた親戚の家で、およそ20年ぶりにポスターと対面しました。
ポスターを目の当たりにした岡本さんは。
「自分はオリンピックのポスターを飾ることができたのだ。人生に対し、おそれず前に突き進んで生きていこうという強い気持ち。自信が湧いてきた」
それ以降、岡本さんは、自宅にポスターを掲げて励みにしているということです。

そして仕事においても、「陸上競技」に対しても、再び真摯に向き合うことができるようになったということです。

84歳の今もランニングで汗を流すことを日課にしています。

妻 陽子(ようこ)さん(80)は。
陽子さん
「ポスターは、夫が困難に陥ったときに、当時の湧き上がるようなエネルギーを思い出させて、そっと背中を押してくれたんだと思います。私たち家族にとっても、大きな宝物ですね。かけがえのないものだと思います」

“コロナ禍”での五輪への思い

まさにオリンピックポスターに支えられた人生ともいえる岡本さん。

その岡本さんに今回の“コロナ禍”で開催された東京オリンピックをどう受け止めているのかたずねてみました。

岡本さんは「私たちも選手たちも心の底から開催を喜べず、とても残念な気持ちだ」との思いを打ち明けながらも、無観客でも開催が決まった以上、後輩ともいえる男子陸上・短距離の選手たちの活躍には期待を膨らませていました。
岡本さん
「本当は大観衆の中で走るのが選手にとっての本望だと思いますけど、コロナは、誰にも避けられない問題です。選手の皆さんは、ここまで努力され、日本にも今、9秒台という世界に並ぶ選手が出てきてます。だから、自分が勝つ、負けるじゃなくて、最高の走りをしたんだと、思い残すことがないような走りをしてほしい」
そのうえで岡本さんは。
「現場では見られなくてもテレビを通じて見られます。今度こそ選手の躍動する姿を自分の目でしっかりと見て、脳裏に焼きつけたい」
“コロナ禍”での東京大会となりましたが、岡本さんにとっては事実上、初めての東京オリンピック観戦となります。
岡本さんは、半世紀余りの時をこえて今回の東京オリンピックを心に刻みつけようと新たな気持ちで向き合っているように私には強く感じられました。
ラジオセンター チーフディレクター
熊田繁夫
1992年入局
松江局、テレビニュース部などを経て現職