障害者殺害事件から5年 施設で追悼式 慰霊碑に犠牲者7人の名前

相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から5年となるのを前に、現場に再建された施設で追悼式が行われました。施設の広場には慰霊碑が設置され、犠牲者7人の名前が刻まれました。

平成28年7月26日、相模原市にある県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、19人が殺害された事件から5年となるのを前に、現場に再建された施設で遺族などおよそ40人が参列して追悼式が行われました。

また、県が施設の広場に設置した「鎮魂のモニュメント」も公開されました。

この事件で、警察は遺族の意向として犠牲者を匿名で発表し、裁判でも母親が公表を決めた「美帆さん」以外は、匿名のまま審理が行われましたが今回、モニュメントには、美帆さんを含む7人の名前が刻まれました。
「ともに生きる」と書かれた水鏡の前に設置された献花台にやまゆりの花のイラストとともに刻まれています。
当時55歳だった、齊藤恵子さん。遺族が恵子さんが生きていた証しを残したいと名前を刻むことを決めました。
当時49歳だった山本利和さん、囲碁が大好きでした。

施設で山本さんを10年以上担当した元職員は、「最愛の家族を失っただけに事件を忘れたい気持ちもあるでしょうから、名前を刻むかご家族は悩まれたと思います。山本さんたちと過ごした楽しい思い出を胸に供養を続けていきたい」と話しました。
当時19歳だった美帆さん。

母親は「訪れてくれる方がいたら、美帆という名前に触れてこういう子が生きていたんだなと、思いをはせてほしい。そして忘れないでいてほしい」と話しました。追悼式のあと献花が行われ、遺族をはじめ、参列した人たちは、白い菊の花を手向け、静かに手を合わせていました。

県は、今後、遺族の希望があれば、新たに名前を加えることにしています。「鎮魂のモニュメント」は、今月26日以降は、誰でも訪れることができるということです。

神奈川 黒岩知事「今も強い憤りと深い悲しみ」

追悼式で神奈川県の黒岩知事は「5年前、突然の凶行により、19人のかけがえのない尊い命が奪われました。今もなお強い憤りと深い悲しみを禁じえません」と述べたうえで、「犯人が口にした『重度障害者は生きている意味がない』という考え方が、いかに独善的で間違っているか。それを証明するためにも、私たちは、誰もがその人らしく暮らせる地域社会を何としても実現しなければなりません」と述べました。

19人の名前公表をめぐる経緯

相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人の入所者が殺害された事件で、警察は遺族の意向などとして亡くなった人の名前を公表しませんでした。

警察は殺人事件などの被害者の名前は原則として公表していることから、障害福祉に関わる人からは「障害者を匿名とするのは逆に差別ではないか」といった非難の声も上がりました。

去年、行われた裁判でも当初、19人は「甲Aさん」などと呼ばれて、審理されることになっていました。

こうした中、事件当時19歳だった女性の遺族が裁判に合わせて女性の下の名前を公表し、法廷で美帆さんの名前が読み上げられました。

母親はNHKに寄せた手記の中で「美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした」と、名前を明かした思いをつづっています。

一方、裁判で「甲Eさん」と呼ばれた60歳の女性の弟は、事件の直後、あまりのつらさから警察などに匿名で発表してほしいと申し出たということです。

それでも「障害のある犠牲者を匿名にすることが差別を助長している」といった指摘に「自分は姉の存在を否定しているのか」と悩み続けてきたといいます。

事件で重傷を負った尾野一矢さんの父親で、息子の実名を出して取材に応じたり、各地で講演したりしている剛志さんは「障害のある家族を世間に出さないという方もいらっしゃると思います。そうした方々を責めるのではなく、障害は個性であって、何も恥ずかしいことはないと理解を呼びかけていくことで世の中が変わればと思っています」と話しています。

犠牲者の名前を刻むかどうか 遺族の意向に沿い対応

事件から5年となることし、現場となった「津久井やまゆり園」の再建に合わせて、神奈川県は、犠牲者を追悼するモニュメントを設置することを決め、ことし1月にデザインを公表しました。

このとき、県はモニュメントに犠牲者の名前を刻むかどうかは一律に判断せず、遺族の意向に沿って対応するとしました。

その後、県が19人の遺族それぞれに意向を確認した結果、母親が下の名前を公表した「美帆さん」を含む7人の名前が刻まれました。

献花台には、ほかの犠牲者の名前を刻むためのスペースも設けられていて、県は、今後、遺族の希望があれば、新たに名前を加えることにしています。

“名前を刻むことを決定” 齊藤さんの遺族「生きていた証しを」

齊藤恵子さんは、事件当時、55歳。

裁判では「甲Jさん」と呼ばれました。

遺族が恵子さんが生きていた証しを残したいと今回、名前を刻むことを決めたということです。

恵子さんは、いつもニコニコしている穏やかな人で、草や葉っぱを手に取ってくるくると回すのが好きだったということです。

裁判で読まれた供述調書の中で弟は「脇を抱えながらであれば歩くこともできたし、スプーンを持たせてあげれば、自分で上げ下げすることもできました。トイレに行きたいときは腹をぽんぽんとたたいていました。私たち家族にとっては特別なサインで、言葉による意思疎通はできませんでしたが、母がつくったごはんに顔をくしゃくしゃにして喜ぶなど、動作によるコミュニケーションはとれていました」と述べていました。

元施設職員の70代の女性は「道端の草や葉を手に取ってくるくると回す姿は、私たちを和やかな気持ちにさせてくれました。心がきれいなままの方で、お父さん、お母さんの努力があったのだろうと思います」と話していました。

元職員の40代の女性は「言葉はほとんど話しませんが、周りが言っていることはすごくわかっていると思うことがたくさんありました。ご家族が面会に来られない月があると建物の入り口まで歩いて立っていました。ご家族に会いたくてさがしているんだなと思い、印象に残っています」と話していました。

山本利和さんの母親「息子は必死に生きていた」

山本利和さんは、事件当時、49歳でした。

施設内でも特に活発で、テレビや本で囲碁を学ぶことが大好きだったということです。

施設で山本さんを10年以上担当した元職員は「ベッドの上に正座して勝負師みたいな顔でテレビの囲碁の番組を見ていたのを覚えています。最愛の家族を失っただけに事件を忘れたい気持ちもあるでしょうから、名前を刻むかご家族は悩まれたと思います。山本さんたちと過ごした楽しい思い出を胸に供養を続けていきたい」と話しました。

去年開かれた裁判で読まれた供述調書の中で母親は「息子は夫と囲碁を打ったり外出することが好きでした。グラタンが好きで、喫茶店でグラタンを食べているときはいい笑顔をみせていました。また、車に乗るのも好きで、夫と旅行するときは助手席に乗って安全確認をしてほめられると、うれしそうにしていました」と述べています。

そして「誕生日に施設に電話して『おめでとう、何歳になったの?』と聞くと『49歳になった』と返事をし、照れくさそうにしていたのが最後の会話になりました。息子は必死に生きていました。私は、息子が生きているだけで幸せでした」と述べています。

美帆さんの母親「訪れる方 名前に触れ 思いをはせ 忘れないで」

今回、モニュメントに名前が刻まれた中には、去年1月の裁判にあわせ遺族が下の名前を公表した美帆さんの名もあります。

19歳で犠牲となった美帆さんについて母親は、事件の初公判が開かれた去年1月に、0歳から19歳までの成長を追った4枚の写真とともに美帆さんの名前を公表していて、手記の中で「笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います」と記していました。

今回、モニュメントに名前を刻んだ心境について母親は「名前を出したことは今も後悔していないし良かったと思っています。『人は2度死ぬ』ということばを聞きますが、1度目は肉体が滅びたとき、2度目はその人のことを知る人が誰もいなくなった時だといいます。名前を記すことによって美帆を思い出してもらえ、誰かの心の中で生き続けることが出来たらと思っています」と話していました。

そのうえで、東日本大震災の被災地を訪れ、慰霊碑を前にした際に、地元の人に「全員の名前を触っていって下さいね」と声をかけられたことが印象的だったと振り返り、「完成したモニュメントを訪れて下さる方がいたら、美帆という名前に触れて美帆という子が生きていたんだなと、思いをはせて頂けたらと思います。そして覚えていてほしい、忘れないでいてほしいです」と話していました。

黒岩知事「鎮魂の思いを伝えていく大きな一歩」

神奈川県の黒岩知事は、式典のあとの会見で、「亡くなった一人一人に人生があった。今回、モニュメントに7人の名前が刻まれたことは、あの凶行でいきなり命を奪われた悲しみを記憶にとどめ、鎮魂の思いを伝えていく上で大きな一歩だと思う。モニュメントに刻まれた思いを受け止めて、新しい障害福祉をつくることに全力をあげたい」と話していました。

園長「19人の生きた証し」

「津久井やまゆり園」の永井清光園長は、追悼式のあとの会見で、「19人の生きた証しがモニュメントに込められているのかなと強く感じている。19人の命は戻ってこないが、そのことを決して忘れずに、新しい施設の運営を担っていきたい」と話していました。

また、入所者の家族でつくる会の大月和真会長は、「モニュメントに名前を刻むのは難しい判断だったと思うが、それぞれの遺族は、亡くなった子どもやきょうだいが確かに生きていたという証しを残そうと考えたのではないか。遺族は非常に複雑な思いを乗り越えて名前を刻んでいるので、温かい目で見守ってほしい」と話していました。

齊藤恵子さん入所施設の職員「名前があってこその人間」

慰霊碑に名前が刻まれた齊藤恵子さん(当時55)がやまゆり園に入所する前、若い頃に入っていた施設で職員として働いていた岩坂正人さん(70)は、「紙をひらひらさせる遊びと音楽が好きで、笑顔をよく見せる人でした。キャンプに行ったり、一緒に歌ったりした楽しい思い出があります。55歳というのは若すぎる」とことばを詰まらせながら、話していました。

そのうえで、「名前があってこその人間で、それを出すことを難しくさせているのは、異常な社会だと思います。障害のある人が地域で生活できるような環境をつくっていきたい」と話していました。

尾野一矢さんの父親 剛志さん「7人の名前 刻まれよかった」

事件当時、やまゆり園に入所していて、重傷を負った尾野一矢さんの両親は、夫婦で追悼式に出席したあと、献花台に刻まれた名前を一つ一つ確認していました。

父親の尾野剛志さんは、「7人の名前が刻まれたことはよかったと思う。19人全員の名前が刻まれたらいいと思うがそこには、それぞれの遺族の思いがあり、難しい課題だと思う」と話していました。

元職員「思い寄せられる場所 ようやくでき大きな意味」

追悼式のあと、午後からは一般の人にもモニュメントが公開され、多くの人が献花台に花を手向けて祈りをささげていました。

名前が刻まれた山本利和さんと津久井やまゆり園で6年間過ごした元職員の原田隆彦さんは「7人の名前が刻まれたことで、亡くなった方に強く思いを寄せられる場所がようやくでき、大きな意味があると思います」と話しました。

そして、山本さんについては「ずっと一緒にいたので、笑っているところや怒っているところ、落ち着かない時の様子や楽しそうにしている時の様子などを思い出します。いい思い出しか出てこないです」と振り返っていました。

そのうえで、「ここは、共生社会を実現するために私たちが何をするべきなのかを常に問うている場所だと思っています。ここで起きたことを忘れたり、風化させたりしてはいけない。私自身、そのことを忘れないためこの場所で手を合わせていきたい」と話していました。

元職員「事件を風化させない」

名前が刻まれた山本利和さんをよく知る津久井やまゆり園の元職員、西角純志さんは「名前は、その人が生きた証しだと思うので、刻まれた名前を確認することによって、改めてあなたたちのことを忘れない、事件を風化させないという気持ちになりました。今後も少しずつですが、ほかの方の名前も刻まれることになればいいなと思っています」と話していました。

元職員「忘れじの碑に」

事件のあと、毎月26日の月命日に献花を続けてきた元職員の太田顕さんは「この5年間を振り返りながら手を合わせたとき、この場所で19人を追悼できることに感慨を覚えました。事件を忘れず、後世に伝えていくためにもこのモニュメントを忘れじの碑として、原点にしていきたい」と話していました。