その4日間に何が… 国会議員の急すぎる死

その4日間に何が… 国会議員の急すぎる死
出口の見えないコロナ禍。
ウイルスが猛威を振るっていた去年暮れの12月27日。
1人の国会議員が感染により命を落とした。
羽田雄一郎氏、享年53。
発症から、わずか4日での急逝だった。
あれから半年余り。
残された家族や、長年活動をともにした秘書への取材から、知られざる4日間が明らかになった。
(宮川友理子)

突然の訃報

「羽田雄一郎さんが亡くなられたという情報がある。確認して欲しい」
野党取材を担当していた私のもとにキャップから1報が入ったのは、去年12月27日、夜7時すぎのことだった。

「まさか。この前、取材で会ったときには元気そうだったのに…」
半信半疑の気持ちで関係者への取材に追われたときのことを今でも鮮明に覚えている。
結果、死亡は事実だった。訃報を告げる各社の速報が相次いだ。

翌28日、立憲民主党は羽田氏が12月24日に発熱の症状を訴えて以降、自宅療養を続けていたが、27日に体調が急変して亡くなったこと、そして死因は新型コロナウイルスへの感染だったと発表した。

現職の国会議員で新型コロナに感染して亡くなったのは初めてだった。

早すぎる死

羽田氏は、父親の羽田孜元総理大臣の秘書などを経て、1999年の参議院長野選挙区の補欠選挙で初当選し、政界入り。
民主党政権時代には44歳の若さで国土交通大臣に抜てきされ、東日本大震災からの復旧や復興などに尽力した。

「羽田さんを悪く言う人はいない」
永田町関係者は、政党の枠を超え、口をそろえてそう言う。

親交のあった立憲民主党の田名部匡代参議院議員は、羽田氏の人柄は利害がぶつかる与野党の政策交渉などで力を発揮したと語る。
「本当に温厚で、何があっても動じない器の大きな人。追及だけではなく与党側の意見も聞いた上で言うべきことも言う。だから信頼され、交渉をうまくまとめていました」

その後も党の幹部を歴任し、去年10月には、立憲民主党の参議院幹事長に就任。野党勢力のとりまとめ役として、その手腕に期待が集まっていた矢先。
そして、妻の七栄さんと、まだ5歳の娘など3人の子どもを残しての早すぎる死だった。

その4日間に何が…

突然の死から半年余り。
去年12月24日に発症し、27日に亡くなったことは公表されたが、この4日間、羽田氏はどう過ごし、病状はどう推移したのかといった詳細は明かされていなかった。

私は、羽田氏の妻の七栄さんとはメールで、およそ20年活動を共にしてきた秘書の辻甲子郎さんにはインタビューを通じて当時の状況を取材した。

2人の話から、知られざる4日間が明らかになった。

発症初日 病院が見つからず自主隔離

発症の日。
羽田氏は、午前中、自宅で過ごしていた。
昼前、数日前に面会し、会話を交わした知人から羽田氏のもとに電話が入る。

「私はPCR検査で陽性がわかったので、羽田さんも気をつけて欲しい」

知人の感染が判明し、羽田氏にも接触者として注意を呼びかける連絡だった。
この時点で、羽田氏の体調に変化はなかったが、念のため、以後の予定をすべてキャンセルし、自宅で待機することにした。

連絡を受けた秘書の辻さんは、参議院の医務室や、羽田氏のかかりつけ医に連絡するなどしてPCR検査を受けられそうな病院を探したが、見つけられなかった。
当時、国内の検査体制は逼迫していて、望んでもなかなかたどり着けない人が多くいた。

そして深夜。
羽田氏に発熱の症状があらわれ、38度6分まで上がった。

これ以降、家族とも接しないよう、自宅の納戸での隔離生活を始めた。
食事は妻の七栄さんに部屋の前に置いてもらい、誰もいなくなってから扉を開けることを徹底した。

発症2日目 PCR検査予約 ぶり返す発熱

翌朝。目を覚ますと、熱は36度5分まで下がっていた。少しの安ど。
この時、辻さんは羽田氏を電話で見舞い、こうやりとりを交わしたという。

辻さん
「この時期に発熱ということは、新型コロナへの感染を疑った方がいいのではないか」
羽田氏
「一度熱が下がったし、様子を見るよ。まさか感染はないだろうが、PCR検査について調べておいて欲しい」

辻さんは、再び病院を探した。
インターネットで片っ端から病院を調べ、東京都内のクリニックで、ようやく2日後にPCR検査を受ける予約がとれた。これが最も早く検査が受けられる日程だった。

そして夜。
再び症状が悪化し、38度3分まで熱が上がった。
連絡を受けた辻さんは、羽田氏に対して東京都の発熱センターに連絡するよう進言した。

センターに連絡した羽田氏。オペレーターからは「すでに検査の予約が取れている」などとして、自宅待機を続けるようアドバイスされたという。

羽田氏は、そのことを辻さんに話したあと、こう続けた。
「こんなに熱はあるんだけど、体は元気。熱があるだけで飯も食えるし味もちゃんとわかる」

当時の状況について、妻の七栄さんは、こう振り返っている。
「家の中で本当に隔離状態でしたので具体的な様子はわからないのですが。食事も食べておりましたし、苦しそうな様子はまったくなく。熱は上がったり下がったりではありましたが」
比較的、病状は安定していたとは言え、高熱をぶり返す状況だった。
もっと強引に検査を求めてもよかったのではないか。
国政をあずかる国会議員なら可能だったのでは? そう思う人もいるかもしれない。

七栄さん
「今は『無理にでも検査を受けられるように強くお願いしていれば』という思いもありますが、あの時は、苦しそうでもなかったですし、『逼迫し始めていた保健所に迷惑をかけてはいけない』という気持ちが強かったのは事実です。27日に検査の予約が取れているからという安心もありました」

発症3日目 叶わなかった誕生祝い

朝の体温は、やや下がっていたものの、37度5分と症状は続いていた。

羽田氏は、辻さんに電話でこう伝えてきた。
「熱があるだけで元気だ。ご飯をおいしく食べ、匂いもするから」

実はこの日は、羽田氏にとっては特別な日。七栄さんの誕生日だった。
家族みんなで祝うため、都内のレストランを予約。
スーツとろうそく柄のネクタイを用意し、この日を待ち望んでいた。

しかし、隔離生活の中、それはかなわなかった。
用意した服は今も部屋にかけられたままだという。
「半年たつ今でも『ただいま』と、当たり前のように帰って来そうに思えています。部屋にかかったままの、スーツとロウソクの柄のネクタイを見るたびに現実を感じてしまう、そのような日々を過ごしております」

発症4日目 容体急変そして…

発症4日目の朝、熱は36度1分に下がっていた。

午前9時すぎ。
辻さんは、電話口の羽田氏の様子は、いつも通りだったと振り返る。
「全然普通でしたね。発熱した24日以降、毎日電話で体調を確認していましたが、この日も、同じように元気な様子でした」
その後も、ふだんと同じように、今後の選挙や政治活動などについて、スマートフォンで断続的にメッセージを交わした。

正午過ぎ。
この日は、午後にPCR検査が予定されていた。

辻さんは、長いメッセージのやり取りの直後に、羽田氏に再び電話をかけ、検査の予定と迎えの時間を伝えた。
羽田氏からは「オーケー、待ってるよー」と返事があった。
この時も、声のトーンは変わらなかった。

「検査は受けるが、もう山は越えた。大丈夫だろう」
辻さんの脳裏を、そうよぎった。
しかし、ここから事態が一変した。

午後2時45分。
「マンション1階にいます」
辻さんは、羽田氏の自宅前に到着し、いつものようにメッセージを送った。
しかし、待てども待てども既読の表示がつかない。
午後3時15分ごろ。
検査の予約時間は3時45分だ。
病院まで10分ほどとはいえ、なんの音沙汰もない状況に不安を強めていたところに、羽田氏がようやく現れた。
様子は、これまでのやりとりからは想像できないものだったという。

辻さん
「それまでとは天と地の差ですよね。呼吸は荒く、もうふらふら。まっすぐ歩けなかったですからね。最初はなかなか現実についていけませんでした」

この直前。自宅の中で七栄さんも羽田氏の体調の異変を目にしている。

羽田氏は、外出前には必ずシャワーを浴びて、身だしなみを整えるのが習慣だった。
七栄さんは、離れたところから、シャワーの後の羽田氏が少しふらつく様子を目にした。
「大丈夫?」
そう声をかけた七栄さんに、羽田氏は「大丈夫、大丈夫」と応じたという。

午後3時20分ころ、車で移動。
病院に向かう道中、辻さんは、羽田氏に声をかけ続けたが、応答がなかったという。
「荒い呼吸をずっとしていて。車のミラーで様子を見ていたけど、視線もすごくさまよっていました」

羽田氏
「俺、肺炎になっちゃったのかな」
辻さん
「まさか…」

車中でのこのやりとりが最後の会話となった。

午後3時30分ごろ。
病院に到着し、辻さんは慌てて後部座席に駆け寄ったが、羽田氏の呼吸は止まっていた。

そのときの様子を辻さんは、こう振り返る。
「その場で心臓マッサージを行うとともに、到着した病院では対応できないので119番通報し、救急車で東京大学附属病院に向かいました。AEDも使いました。『何とか息を吹き返してくれ』。それしかなかったです」

七栄さんは、辻さんからの連絡を受けて病院に駆けつけたが、羽田氏が息を吹き返すことはなかった。

病院到着後の午後4時31分。
死亡確認。

羽田氏は、死亡直後の簡易検査で新型コロナへの感染の疑いが出たため、シートに覆われて安置された。
2人は遺体に触れられず、表情を満足に確認することもできなかった。

あまりにも急な死。辻さんは、現実を受け止められなかったという。
「『えっ、こんな元気な人間が亡くなる訳ないでしょ』という感じだった。年が明けたら『これやっていこう』という話をしたばかりだったので。何も考えられる状況じゃなかったですよね」

結局、2人は羽田氏の姿を見られないまま、遺体は1月5日に火葬された。

3時間で急変か

2人の証言を整理すると、羽田氏は、発症した24日から亡くなる27日正午すぎまで、熱の上がり下がりなどはあったが、食事や会話などもでき、症状は安定していた。

そして、検査のために辻さんが、羽田氏を迎えに行ったのが午後2時45分。
これ以降、辻さんへの羽田氏のメッセージが途絶え、その後、羽田氏はまっすぐに歩けない状況で姿を見せた。
病状は、正午すぎからの3時間たらずのうちに急変し、死に至ったと見られる。

辻さんは、4日間を振り返り、こう語る。
「あれ以上、何かやれることはあったのかなと思う一方、遠くでもいいから、もっと早くPCR検査を受けられるようにすればよかったとも考えます。あとは、血液中の酸素の値をみる『パルスオキシメーター』を持っておけばよかったなと」

そして、今回の経験をかみしめるかのようにこう話した。
「急変。それが、新型コロナの症状の怖さです。何が急変の理由になるのか突き詰めて対策を考えていく必要があると感じています。また、いつ誰がかかり、急変してもおかしくない。亡くなる人が1人でも減り、悲しむ人が減るよう、感染した人をしっかり周りが守ってあげられるような社会作りを考えていかないといけない」

「このような思いをする方がいなくなることを」

最愛の夫を新型コロナでなくした七栄さん。
気持ちの整理もつかないまま、直後に自身も感染していることがわかった。

記憶がないほど、大変な日々だったと振り返る。
「12月29日に保健所から連絡があり、年末年始を挟んだこともありましたが、PCR検査を受けられたのが1月2日、結果が出たのが1月4日でした。正直、12月30日から1月2日まで、今でも記憶がないくらい具合が悪かったです。それだけ、保健所も検査機関も大変だったのだと、あの時は本当に異常な状態でした」

いまも気持ちの整理はつかない日々が続くという七栄さん。

生前の父親としての羽田氏を、こう記している。
「主人は、どんなに大変な時も、自宅に帰れば本当に優しいパパでした。多分、相当疲れていて早く寝たいだろうに、娘にせがまれれば3冊でも5冊でも絵本を読んでくれていました。子供たちの学校行事も何より優先してくれておりまして、家にいないことも多かったですが、子供たちが寂しい思いをしたことはなかったように思います」
そして、七栄さんのメールは、次のように締めくくられている。

「本当に1日でも早く、ワクチンが行き渡り、このような思いをする方がいなくなることを願うばかりです」

羽田氏の死を教訓に

私が野党取材の担当となり、羽田氏と接するようになったのは去年9月。初めての政党取材で要領を得ない私の質問にも常に笑顔で丁寧に答えてくれ、多くの政治家が語る通りの人柄だった。
今回の取材では、そんな羽田氏の死を悼む気持ちとともに、家族のかけがえのない日常を突然奪う新型コロナのおそろしさを肌で感じさせられた。

急逝から半年余り。
国内では、感染力の強い変異ウイルスへの置き換わりが進み、若い世代にも重症化リスクが指摘されるなど、なお感染収束は見通せない。

政府は「新型コロナは自覚症状がないまま進行し、静かに重篤化するケースもあり、最初は軽症でも油断は禁物だ」と注意の呼びかけを続けている。

一方で、いざというときに病院は受け入れてくれるのか。
3回目の緊急事態宣言時には、各地で病床が逼迫し、自宅で療養中に亡くなるケースも相次いだ。

感染した人が適切に治療を受けられるようにするために、どうすればいいのか。病状が急変した人の命を救うためには何が必要なのか。
羽田氏の残した教訓に答えが急がれている。
政治部記者
宮川 友理子
2012年入局。宮崎局、名古屋局を経て政治部。現在、野党クラブで立憲民主党などを担当。