3年前の西日本豪雨で岡山県では災害関連死を含めて95人が亡くなり、今も3人が行方不明のままです。
このうち、75人が犠牲となった倉敷市の追悼式が、被害が最も大きかった真備町で行われました。
追悼式は豪雨で被災し、6月に再開されたばかりの文化施設「マービーふれあいセンター」で開かれ、およそ50人が参列して亡くなった人たちの名前が読み上げられたあと、全員で黙とうをささげました。
倉敷市の伊東香織市長は今も600人余りが民間の住宅を借り上げる、みなし仮設住宅などで暮らしていることに触れ「被災した皆様が一日も早く元の生活を取り戻していただけるよう、復興への歩みを着実に進めていきたい」と述べました。
このあと、遺族を代表して84歳の母親を亡くした松村好美さん(58)が「西日本豪雨からはや3年となりますが、心の傷が癒えることはありません。災害はいつ襲ってくるかわかりません。このつらい経験を教訓として、災害から命を守る備えの大切さを語り継ぐことで、母にも気持ちが届くのではないかと思います」と追悼のことばを述べました。
最後に参列者が献花を行い、静かに手を合わせていました。
西日本豪雨3年 岡山 倉敷 真備町で追悼式「つらい経験教訓に」
西日本豪雨から3年となる6日、甚大な被害を受けた岡山県倉敷市真備町で犠牲者の追悼式が行われました。

亡くなった町内会長を悼む
倉敷市真備町では、地域の人たちが亡くなった住民を悼み、静かに手を合わせる姿が見られました。
このうち、箭田地区で犠牲になった高本健吾さん(当時71)の墓には6日朝、同じ地区で暮らす住民が訪れ祈りをささげました。
高本さんは70世帯余りが暮らす「旭町町内会」の町内会長を10年以上務め、豪雨の当日も浸水が始まる中、車の中に取り残された住民の救助に向かい、命を落としたとみられています。
この町内会では被災した多くの住民が避難生活を余儀なくされたため活動を中断していましたが、あの日から3年がたち、ほとんどの住民が戻ったほか、新たな住民も加わり、ことし2月から活動を一部再開したということです。
6日は高本さんと一緒にかつて町内会の役員を務め、地域で喫茶店を営んでいる高本明英さん(68)が好物だったアメリカンコーヒーを供えて線香をあげ、ひとり静かに手を合わせていました。
高本明英さんは「3年がたって地区のコミュニティー活動もようやく少し軌道に乗り始めたので『地域のことは安心してください』と伝えました。人とのつながりを大切にしていた健吾さんが生きていたら、もっと早く町内会が復活できたのだろうと改めて感じています」と話していました。
このうち、箭田地区で犠牲になった高本健吾さん(当時71)の墓には6日朝、同じ地区で暮らす住民が訪れ祈りをささげました。
高本さんは70世帯余りが暮らす「旭町町内会」の町内会長を10年以上務め、豪雨の当日も浸水が始まる中、車の中に取り残された住民の救助に向かい、命を落としたとみられています。
この町内会では被災した多くの住民が避難生活を余儀なくされたため活動を中断していましたが、あの日から3年がたち、ほとんどの住民が戻ったほか、新たな住民も加わり、ことし2月から活動を一部再開したということです。
6日は高本さんと一緒にかつて町内会の役員を務め、地域で喫茶店を営んでいる高本明英さん(68)が好物だったアメリカンコーヒーを供えて線香をあげ、ひとり静かに手を合わせていました。
高本明英さんは「3年がたって地区のコミュニティー活動もようやく少し軌道に乗り始めたので『地域のことは安心してください』と伝えました。人とのつながりを大切にしていた健吾さんが生きていたら、もっと早く町内会が復活できたのだろうと改めて感じています」と話していました。