スティーブ・ジョブズ 「美」の原点

スティーブ・ジョブズ 「美」の原点
ITの傑作商品を次々と開発して世界を変えたスティーブ・ジョブズ。惜しまれたその死から、ことし10月で10年になる。彼が生み出した製品は、いまも、その機能性と共に、美しく斬新なデザインでも世界を魅了している。

ジョブズの美的センスには日本文化の禅が影響を与えたことが知られているが、実は、禅に触れる以前、子どもの頃に見た日本の「新版画」、特に川瀬巴水(かわせはすい)から大きな影響を受けていた。ジョブズが巴水から学んだシンプルな美への探求をたどる。

文末には、ジョブズが購入した新版画作品のリストも記した。
(国際放送局・佐伯健太郎)

川瀬巴水との出会い

スティーブ・ジョブズが川瀬巴水の作品と最初に出会ったのは、彼がまだ10代の頃に知り合ったカリフォルニア州サニーベールに住む親友ビル・フェルナンデスの自宅だった。

2人は互いの家を行き来し、電子機器をいじって遊んでいた。ビルは後年、アップル最初のフルタイムの社員になる。
2人は学校のスポーツや演劇などのクラブには入らず、散歩をしながら、女の子を好きになったらどうするか、ボブ・ディランをどう思うか、人生の意味は何か、そんなことを話しあっていた。
やがて、ビルは電子機器をいじるようになってジョブズを引き込み、互いの家に入り浸っていろんなものをつくるようになった。2人の家のガレージはビジネス活動の拠点になっていった。

そして、ジョブズにとって、ビルの家こそ、「美」に初めて触れる場所となった。

下の写真は、居間で愛犬とくつろぐビルの母親バンビさんだ。そして、壁にかかっている3点の和風の絵...
実は、この3点こそ日本の「新版画」、川瀬巴水の作品だ。
フェルナンデス家では、新版画が所狭しと壁にかかっていた。
これらはビルの祖父が、1930年代の大恐慌の頃から少しずつ買い集めたものだ。シカゴの職場に行く途中にある画廊で、巴水の作品を見かけて一目ぼれしたのだという。

1930年代というのは、アメリカで「新版画」の人気に火がついた頃だ。1930年と1936年には、オハイオ州のトレド美術館で「現代日本版画展」が開かれ、アートとして受け入れられた新版画の人気が頂点を迎えた。

風景画を得意とした巴水の精緻な作風は高い評価を得て、浮世絵の北斎、広重と共に、「3H」(スリーエイチ)と並び称された。
親友の母親のバンビさんは、名門スタンフォード大学で極東の歴史を学び、日本の美術にも親しんでいた。

当時、ジョブズは、下の写真の3点、いずれも巴水の作品を特に気に入っていた。バンビさんが、遊びに来たジョブズの様子をユーモア交じりに話してくれた。
親友の母親のバンビさん
「スティーブは居間を通るたびに、3点の新版画をじっと見ていました。そして、ある日、私に突然言ったんです。『版画を分けてほしい』と。『あいにく、父のコレクションを譲ることはできないわ』と断りましたが、その後も遊びに来るたびに、『版画を分けてくれ』と訴えるように私の目をじっと見るんですよ」
ジョブズは、それほど気に入っていた。

アップル設立後のある日、バンビさんが新版画作家として川瀬巴水に次いで好きな吉田博(よしだひろし)のことを話すと、ジョブズは、「ノー、巴水こそベストだ!」と言い返してきたそうだ。

3点のうち、「赤目千手の瀧」(あかめせんじゅのたき)は、ジョブズが1983年8月に東京の画廊で注文もしている。

入手できたかは分からないが、親友の家で見とれていた気持ちを、おとなになるまで持ち続けていたのだろう。
この作品は、滝と紅葉が非常に写実的に描かれているが、よく見ると、本来、水面に映っているはずの紅葉の影がない。巴水は不必要な要素をそぎ落とすことによって、よりシンプルで斬新なものを生み出そうとした。

ビルは、ジョブズが巴水の美的センスに強く共鳴していたと言う。ジョブズにとって、美的センスのインスピレーションの源だったと言うのだ。
ビル・フェルナンデスさん
「あれがすべての始まりだったと思う。『シンプルがいい。この美的センスが好きだ。この感性が好きだ』というように。スティーブがアップルでつくった製品に表れているように、生涯にわたり、シンプルさとエレガントさへの愛着が表れている」

Shin-hangaの魅力

ジョブズが見とれた「新版画」とは何か。

「新版画」は、明治後半から昭和にかけて制作された木版画で、伝統的な浮世絵の技術を使って海外の市場を目指し、代表的な版元の渡辺庄三郎が当時の画家に呼びかけた芸術運動だ。

その版元の3代目店主の渡辺章一郎さんに浮世絵との違いを聞いた。

有名な北斎の「凱風快晴」(がいふうかいせい)は、わずか7回の摺りでできているという。多色摺りの浮世絵としては、極めて少ない摺り度数だという。
そもそも浮世絵というのは、できるだけ手をかけずに最大限の効果が出るように作られている。省略した作りだが、それが逆に良い効果を生み出しているのだ。

一方、新版画の「増上寺の雪」は、摺り度数が6倍の42回。

渡辺さんが説明する。
渡辺章一郎さん
「『凱風快晴』は、山の部分が3色、空もたった3色。これに対し、『増上寺の雪』は、空だけでも6色、木々の部分も同じぐらい。赤い楼門は数えきれないぐらいの手がかかっています。加えて、人物の着物や傘にも相当の摺り度数がかかっています。その分、深みが出て、見えない部分に相当のエネルギーをかけているのが新版画なんです」
「新版画」は制作に手間がかかるため、一点の作品が摺られるのは数百部だけだった。気が遠くなるほど手間がかかるこの工程こそ、新版画の芸術性を生み出したものだった。

ジョブズの新版画への共感について、渡辺さんが言う。
渡辺章一郎さん
「おそらく、ジョブズさんのように、最先端の技術を開発して、『何か工夫を』と考えている人にとっては、ピンとくるんじゃないかと思います。作品の見えている部分だけではなく、その下に、職人のものすごい血と汗の結晶みたいなものが感じられたのではないでしょうか。だから、それに賛同して、新版画を買ったのではないか。それが非常にうれしい」
製品造りにあたって、ジョブズは、外見のデザインはもちろん、見えない製品の内側、部品の並び方、配線の位置までも美しくなるように気を配っていた。

銀座に現れたカリスマ

東京・銀座の目抜き通りにあった老舗の「兜屋画廊」にジョブズが初めて現れたのは、1983年3月。

よれよれのシャツにジーンズ姿の20代後半の若者が、版画のコーナーで対応した松岡春夫さんに、「これから新版画を集めたいので、いろいろ教えてください」と言って、名刺を差し出した。
その後、ジョブズは日本に来るたびに画廊を訪れ、新版画の購入を続けた。それは、彼の人生や仕事の節目とも重なっていった。

ジョブズが初めて店を訪れたときに購入した巴水の作品は、富士山だった。外国人がとても好む題材だ。3回目も富士山だった。
やがて、松岡さんはジョブズの美的センスに気付く。審美眼はプロ級だった。

購入したものは巴水の初期のもの、特に1923(大正12)年の関東大震災で焼失して残存数が少なくなっていた作品が多かった。しかも、作品を選ぶときは、即断即決で決めていくのだ。

松岡さんは、「好みの基準がはっきりしていて、むだを省いた洗練されたものが好きだったようだ。店員といろいろと話しながら選ぶ、ふつうのお客さんとは全く逆だった」と話している。

ジョブズがマッキントッシュ・コンピューターを発表したのは1984年1月だったが、その2週間前には日本にいて、巴水の4点を含む新版画5点を購入している。

このうち、巴水の「三十間堀の暮雪」(さんじっけんぼりのくれゆき)は、雪景色を描いた版画の最高傑作とも評価されている。

巴水は、雪を「点」で表すのは臨場感に欠けるとして、版木を砥石やタワシでこすり、摺りにも工夫を凝らして吹きすさぶ雪を表現した。次々と新作をつくっていた頃で、巴水には納得のいく出来栄えだった。
ジョブズが4回目に店を訪れたときには、30点を超える作品を注文した。新版画にほれ込んでいる様子で、店にあった巴水の画集を見ながら、とても楽しそうにしていたという。

このうちの「奈良二月堂」は、青色を強調することで、版画独特の透明感が表現されている。巴水が木版画を始めて2年以上が過ぎ、好調の波に乗っているときの作品だ。
アップルを追放されたあとに立ち上げた企業・ネクストが苦境に陥ったときも、新版画への情熱が変わることはなかった。

1987年4月に購入したのは、青色で強調された宵闇の無人の寺だった。

ジョブズの孤高の姿を作品に重ね合わせてしまう。
ジョブズが松岡さんと交わった20年間に購入した新版画の作品は、少なくとも43点にのぼり、半分以上の25点は巴水だった。注文したままのものも33点あった。

松岡さんの手元には、ジョブズの名刺が4枚残っている。
新版画に詳しい千葉市美術館の西山純子上席学芸員は、ジョブズが選んだ作品には、独特の好みが色濃く表れていると話す。
千葉市美術館 西山純子上席学芸員
「雪景色、朱色の鳥居や神社、そして、和傘を持つ女性。この三つが、日本の木版画が外国人によく売れる要素だと聞いたことがあります。しかし、ジョブズのコレクションには、そういった作品はほぼありません」
ジョブズは、欧米人が好む異国情緒あふれる風景ではなく、むしろ、地味で寂しい風景を好んだ。色彩も、明るいものより暗めで、モノトーンのグラデーションのものが多い。
千葉市美術館 西山純子上席学芸員
「川瀬巴水自身も、静かなものやうら寂しいものが好きで、それが自分の世界だと語っています。ジョブズの好みは、そうした巴水の好みと、実はぴったり合致しているように見えます」

新版画との出会いに感謝

ジョブズは、親友の家で「新版画」と出会ったことに感謝していた。

マッキントッシュ・コンピューターがデビューする前の1982年ごろ、日本から戻ったジョブズが、ビルの母親のバンビさんのもとを訪れて次のように言った。

「ここから2マイル離れたところで育った僕の家の壁には、カレンダーしかなかった。でも、あなたの家で日本の版画を見る機会に恵まれました」
そして、ジョブズから手渡された重いものを見た彼女は、ことばを失った。それは、巴水の作品を網羅した本格的な日本の画集だった。

バンビさんが続ける。
ビルの母親のバンビさん
「私が巴水の作品を好きだと知っていて、プレゼントしてくれたの。うちにあった新版画を見て、どれだけ楽しかったのか伝えたかったのだと思います」
ジョブズは、画集と共に、巴水の作品も加えてプレゼントした。

それは、ジョブズが「兜屋画廊」で初めて購入した作品と同じものだった。バンビさんの期日についての記憶があいまいなのではっきりしないが、もしかしたら、これはジョブズがそのとき買ったものかもしれない。

ジョブズは、親友にも門出を祝うにふさわしい巴水の作品をプレゼントした。
ビル・フェルナンデスさん
「私の結婚式のときに、スティーブからプレゼントされた新版画です。彼が、まだ新版画を好きだったことを知り、思いのこもったプレゼントがとてもうれしかった。私も新版画が好きなんです」
生前のジョブズは、新版画についてほとんど語っていない。

ただ、こうした行動を知ると、ジョブズにとって、巴水との出会いがとても大切なものだったと分かる。

心の中の新版画

ジョブズは48歳のときにがんと診断されるも、長いあいだ病と闘いながらヒット商品を作り続け、2011年に56歳でこの世を去った。

死後、娘のリサさんが父親との関係をつづった回顧録の最初のページには、ジョブズが亡くなる3か月前の病床の様子が記されている。
「(父の部屋には)寺の黄昏と夕暮れの巴水の版画の額がかかっていた。ピンクの光のかけらが壁に伸びていた」
私が驚いたのは、回顧録の中で“Hasui”とつづられていることだった。“Hasui”を「川瀬巴水」だと分かる読者が一体どれだけいるだろうか。

もしかしたら、“Hasui”は2人にとって共通語だったのかもしれない。
父は娘に“Hasui”の魅力を話していたのかもしれない。
松岡さんに、ジョブズが購入したもの、そして、注文したままになっているものの合わせて70点余りの中から、部屋にかかっていた可能性のある作品を聞いてみた。

すると、松岡さんは即座に、東京・大田区にある池上本門寺(いけがみほんもんじ)の五重の塔を描いた巴水の作品を指さした。
松岡春夫さん
「たぶん、自分の死期を悟った時期じゃないかと思うんです。でも、私は、ジョブズさんが若いときにおつきあいをしたので、そのときのイメージが強く、感傷的になるタイプの方とはあまり思えないんです。けれど、やはり人間ですから、自分の最期のときは、たそがれて死んでいくという気持ちを持っていたのかなと思えるんです」
ジョブズが10代で出会った「新版画」とコンピューター。

一見、その二つは無関係に見えるが、ジョブズは違った。

新版画の「究極のシンプルさ」から受けたインスピレーションを、コンピューターで再現し、私たちの考え方、学び方、そして、暮らしを永遠に変えた。

ジョブズにとって川瀬巴水は、「美」の原点だった。

スティーブ・ジョブズが購入した新版画43点(制作年順)

▼川瀬巴水25点

「塩原おかね路」(1918・大正7年)
「塩原畑下り」(1918・大正7年)
「塩原志ほがま」(1918・大正7年)
「塩原あら湯路」(1919・大正8年)
「伊香保の夏」(1919・大正8年)
「雪の白ひげ」(1920・大正9年)
「雪に暮るる寺島村」(1920・大正9年)
「三十間堀の暮雪」(1920・大正9年)
「奈良二月堂」(1921・大正10年)
「阿伏兎の観音」(1922・大正11年)
「唐津」(1922・大正11年)
「大坂高津」(1924・大正13年)
「新大橋」(1926・大正15年)
「明石町の雨後」(1928・昭和3年)
「市川の晩秋」(1930・昭和5年)
「山中湖の暁」(1931・昭和6年)
「富士の雪晴」(1932・昭和7年)
「上州法師温泉」(1933・昭和8年)
「京都清水寺」(1933・昭和8年)
「越ヶ谷の雪」(1935・昭和10年)
「薩※た峠の富士」(1935・昭和10年)※「土」へんに「垂」
「船津の富士」(1936・昭和11年)
「阿かい夕日」(1937・昭和12年)
「西伊豆木負」(1937・昭和12年)
「吉田の雪晴」(1944・昭和19年)

▼鳥居言人(とりいことんど)8点

「帯」(1920・大正9年)
「雨」(1929・昭和4年)
「化粧」(1929・昭和4年)
「湯げ」(1929・昭和4年)
「髪梳き」(1929・昭和4年)
「雪」(1929・昭和4年)
「朝寝髪」(1930・昭和5年)
1点作品名不明

▼橋口五葉(はしぐちごよう)5点

「髪梳ける女」(1920・大正9年)2点
「京都三条大橋」(1920・大正9年)
「雪の伊吹山」(1934・昭和9年)
1点作品名不明

▼伊東深水(いとうしんすい)5点

「対鏡」(1916・大正5年)
「伊達巻の女」(1921・大正10年)
「涼み」(1922・大正11年)
「おしろい」(1923・大正12年)
「吹雪」(1932・昭和7年)
国際放送局
佐伯 健太郎
昭和62年入局
秋田放送局、マニラ支局長
八戸支局、水戸放送局などを経て現職