“危険な格差” ~世界経済に起きる異変

“危険な格差” ~世界経済に起きる異変
「4月以降仕事がない。収入がないんです」。

東南アジアのタイで、政府の支援事業による割安の卵を買い込んだ女性はこう嘆いた。新型コロナウイルスのワクチン接種の広がりが人々の生活を徐々に正常化に向かわせているが、世界の隅々まで行き届く状況にはほど遠く、新興国や途上国では経済の回復の遅れが目立つ。

IMF=国際通貨基金は、こうした回復のばらつきを“危険な格差”と表現し、警鐘を鳴らし始めた。(アジア総局 影圭太・ワシントン支局 吉武洋輔)

ワクチン格差

いま世界経済の回復をけん引するのは中国とアメリカだ。IMFの4月時点の予測では、ことしの経済成長率は、中国が8.4%、アメリカは6.4%と、低迷した去年からのV字回復が見込まれている。

中国は、いち早く感染を抑え込んだとして経済活動の再開を進めた。
またアメリカは、ここ数か月でワクチン接種が広がるとともに回復のペースが加速している。アメリカで少なくとも1回の接種を済ませた人は国民全体の半分を超えた。

一方、タイやインドネシアなどのASEAN主要5か国のことしの経済成長率は、4.9%にとどまると予測された。

中国やアメリカの成長率が1月時点の予測から上方修正されたのとは対照的に、この地域の成長率は0.3ポイント下方修正された。

感染が再拡大し、経済活動の制限が続いている。タイやインドネシアでワクチンを少なくとも1回接種した人の割合は10人に1人に届いていない。

国境は越えない

“危険な格差”の現場では何が起きているのか。現場に足を運んでみると、ワクチンの普及だけではない、今回の経済ショックに特有の現象が起きていることが見えてきた。
6月12日、アメリカテキサス州、フォートワース。西部劇のような町並みを生かした観光地を訪れると、道を埋め尽くす観光客の多さに圧倒された。

その多くがマスクをしていないことにも驚くが、コロナ禍の混乱から着々と正常化に向かっていることを実感した。
現地で南部料理のレストランを取材すると、オーナーの男性が「夏前には完全に客足が元どおりになるだろう」と自信をのぞかせた。

アメリカ旅行協会は5月、国民の90%近くが半年以内に旅行の計画を立てているという調査結果を発表している。ところが、その行き先は国内ばかりだ。

街行く人に次の旅行計画を聞いてみると「海外旅行はまだ不安」「車で行ける場所に出かける」との声ばかりで、海外旅行に行くという人にはひとりも出会わなかった。
海外では観光客の受け入れに制限のある国が多いし、ワクチンを打った人でも海外旅行にはまだ強い抵抗感があるのだろう。

コロナ禍で控えられてきたアメリカ人の個人消費の反動、いわゆる“リベンジ消費”のパワーは、観光需要の面では海外に届かず、国内に集中しているのが実情なのだ。

沈む新興国経済 観光地は閑散

国境を越えた自由な旅の回復には程遠い現状。その影響をまともに受けている国の1つが、東南アジアの新興国・タイだ。

コロナ禍前は海外からの旅行客でにぎわっていたリゾート地・プーケットのビーチに人影はほとんどなく、パラソルはしまわれたまま。
バーやクラブが並ぶ通りでは多くの店がシャッターを閉め、「For Sale」の貼り紙が出されている。

タイは、GDP=国内総生産の2割を観光業に頼るとされているが、感染拡大を受けて海外からの観光客に対しては入国後の隔離などの制限が続いている。

2019年に4000万人近かった海外からの観光客は、2020年はおよそ670万人にまで落ち込んだ。

「仕事ができなければ生きていけない。どうしようもなくひどい状況だ」。

プーケットで1年間店を閉め続けているというイタリア料理店の経営者は強い口調でまくしたてた。
厳しい現状を前に、タイ政府は7月から、まずはプーケットで隔離なしでの観光客の受け入れを再開することを決めた。

ただそれもタイ政府が感染リスクが高くないと判断した国や地域からであること、ワクチン接種を終わらせていることなどの条件付き。

本格的な受け入れ再開には程遠く、海外からの観光客が以前の状態に戻るには数年かかるというのが専門家の見方になっている。

暮らしへの深刻な痛み

経済の回復が遅れる中で、タイ政府は、コメや卵、野菜などの生活必需品を車に乗せて販売する移動販売の事業を行っている。

政府が主導することで商品の価格は最大で60%ほど安くなっているという。

6月上旬に首都バンコク近郊で行われた販売には10人以上が列を作り、次々と商品を買い求めていた。
卵を買い込んだ女性は建築関連の仕事を請け負っているが、4月以降、1件も仕事が入っていない。

「仕事がない。収入がないんです。この卵でようやく1週間生活できる」と絞り出した。

タイの中央銀行は、3月の時点で3%と見込んでいたことしの経済成長率を6月に下方修正し、1.8%の成長にとどまるとした。

移動販売車で食料を買い込んだ別の女性は「タイの景気は悪すぎてアメリカや中国の景気とは差が開くばかり。この悪い状況は来年まで続くような気がする」と嘆く。

格差解消に各国が協調を

GDPで世界1、2位の米中の景気回復は、無論、世界経済にとって明るい材料だ。力強い消費が本来は国境を越えてヒト・モノ・カネを動かし、新興国なども恩恵を受けられるからだ。

しかし今回、新型コロナウイルスがもたらした経済ショックからの回復局面の大きな特徴は、ヒトの動きの鈍さが続いていることにある。“危険な回復格差”に警鐘を鳴らすIMFの幹部も、その点を指摘する。
ギータ・ゴピナート調査局長
「回復格差の背景にはワクチンの普及状況や国ごとの財政支出の規模の差などがあるが、観光産業への依存度が高い国ほど回復が遅れている面もある。旅行による感染リスクが残る以上は、その回復に時間がかかるだろう。

国ごとの回復格差は非常に深刻な問題だ。一部の国の回復の遅れが社会的な緊張の高まりを招けば、それは世界全体の問題になり得る。また、いま経済活動の正常化が進んでいる国でも変異ウイルスの拡大などのおそれはあり、各国は一致して取り組まねばならない」
IMFは、格差の解消に向けて、各国が協調してワクチン接種を加速させることなどを提言している。

景気回復の国に問われる責務

景気の回復とともに物価の上昇が顕著になっているアメリカでは、いま、中央銀行のFRB=連邦準備制度理事会が、いつ、どのように大規模な金融緩和を転換させるかが大きな焦点になっている。

FRBによる大量のドルの供給は、コロナ禍にあって、アメリカ経済のみならず、世界の金融市場も支えてきた。しかし、このドルの蛇口が細くなっていけば、回復が遅れている新興国や途上国の経済にさらに打撃を与える懸念がある。

コロナ禍という未曽有の混乱から世界がどう抜け出すのか。アメリカをはじめ、回復の先頭を行く国々こそが、“危険な格差”に十分に目配りをして政策運営をしていくことが欠かせない。
アジア総局記者
影 圭太
2005年入局
経済部で金融や財政の取材を担当し
去年夏からアジア総局
ワシントン支局記者
吉武 洋輔
2004年入局
名古屋局・経済部を経て現所属