娘の“最後の68歩”「お母さん ちゃんと受け止めたからね」

娘の“最後の68歩”「お母さん ちゃんと受け止めたからね」
わずか7歳で命を奪われた本郷優希(ゆき)ちゃん。

母親の本郷由美子さん(55)は、20年前の大阪教育大学附属池田小事件で愛する娘を失いました。

事件直後は、みずから命を絶とうとも考えたという本郷さん。そんな中で知った「ある事実」に、その後の人生を支えられることになります。

それは、現場検証で分かった優希ちゃんの最期です。優希ちゃんは、致命傷を負いながらも、教室を出て廊下を歩いていたのです。その距離、本郷さんの歩幅で68歩、39メートルありました。

娘は最期に何を思ったのか。本郷さんは、毎日のように廊下に通い続ける中で、やがて「生きることの尊さ」というメッセージを受け取ってゆきます。

本郷さんは、このメッセージを原動力に、事件や事故などで家族を失った人たちに寄り添う活動を始めます。そして、去年11月、長年の念願を実現します。

「人を支えることで、自分も支えられている」
娘の“最後の68歩”を胸に生きる母親の20年をたどりました。

(大阪拠点放送局 ディレクター 泉谷圭保 白瀧愛芽 村田裕史)

愛する娘を突然奪われたあの日

優希ちゃんは、花や歌うことが大好きな優しい女の子でした。

「あの道です」

母親の本郷さんが私たちに教えてくれたのは、ある日、優希ちゃんが家の近所の道でミミズに遭遇したときのエピソード。優希ちゃんは、ミミズが道を渡り切れるかどうか心配して見届けていたといいます。

事件が起きた日の朝も、親子は普段と変わらない日常を過ごしていました。

「帰ってきたら一緒にクッキーを作ろうね」

いつものように、娘が見えなくなるまでベランダに出て見送っていたという本郷さん。当たり前の幸せな日常は、突然奪われることになりました。

今から20年前の2001年6月8日。男は刃物を持って学校に侵入。最初に襲ったのが優希ちゃんのいた2年南組でした。男は、休み時間を過ごしていた5人の子どもたちを刺しました。そのとき、優希ちゃんは、友達と折り紙で遊んでいました。

さらに男は、隣の2年西組で8人を刺し、2年東組、1年南組へ。およそ10分の間に23人を刺しました。

事件直後、本郷さんはみずからの命を絶つことも考えたと、事件から2年後に出版した手記で綴っています。
本郷さんの手記「虹とひまわりの娘」より
「なぜ、優希が?」 「どうして、あの時間に?」 「なぜ、あの日に?」
次から次へと押し寄せる「なぜ? どうして?」の底なし地獄にはまってしまい、その堂々めぐりから、抜け出せなくなっていったのです。

毎日、気が狂いそうなほど苦しんでいるのに、実際には正気を保って生き続けている自分という人間が信じられなくなり、自分自身を許せないと感じるようになりました。

現場検証で分かった“最後の68歩”

事件から2週間余りが過ぎたころ、本郷さんは、初めて、優希ちゃんが倒れた場所を訪れました。当初、即死したとみられていた優希ちゃんの最期について、警察の現場検証で、まったく違う事実が分かったからです。
本郷さんの手記「虹とひまわりの娘」より
あの事件は、優希が教室内にいるときに起こり、警察からは「お嬢さんは即死でした」と報告を受けていました。即死ならば、すぐ意識がなくなって、苦しまずにいられたのだろう。それが、せめてもの救いかもしれない……そう考え、無理矢理、自分たちを納得させていたところに、まったく予想していなかった新情報が届けられたのです。
それは現場検証の結果、教室内で刺された優希が、致命傷を負いながら、懸命に廊下まで逃れ出て、校舎の出口に向かって必死に歩いている途中で、ついに力尽きて倒れたことが判明した、という衝撃的な報告でした。
本郷さんは、一歩一歩よろけたり、手をつきそうになったりしたことが分かる優希ちゃんの血の跡を辿っていきました。

本郷さんの歩幅で68歩、39メートル。

警察の担当者から「いろいろな事件を見ているが、ここまでの傷を負って、ここまで歩ける人は見たことがない」と言われるほどの距離でした。

優希ちゃんの“68歩”が語る「生きることの尊さ」

今回、長年の取材の中で私たちに初めて見せてくれた写真があります。それがこの、本郷さんが廊下に行ったときの写真です。

本郷さんが撫でているところまで“68歩”、優希ちゃんは歩いていたのです。

「ここは大切な場所。倒れたところを撫でたり手を広げたりして過ごします」
本郷さんは、毎日のようにこの廊下に通いました。娘は最期に何を思ったのか。倒れたところに触れたり、ほおずりしたりする中である変化を感じるようになりました。

最初は苦しそうだった優希ちゃんの表情が、だんだんと笑顔に変わっていき、いつしか抱きしめて“よく頑張ったね”と言ってあげたいと感じるようになっていったといいます。
本郷さんの手記「虹とひまわりの娘」より
優希という名前は、夢と希望をもちつづけてね。何事も最後まであきらめないでね、必ず夢はかなうから、と思いをこめて名づけたことを話して聞かせていました。きっと、その言葉を思い出しその言葉を信じて、「ママ、パパ、助けて! 優希頑張る。生きる希望をもって最後まであきらめないよ!」そう思いながら頑張ったのでしょう。
本郷由美子さん
「たどっていくうちに、苦しいとか悲しいとか痛いということもあったかもしれないけど、それだけじゃない。生きたいという気持ちが、ここに詰まっていると思ったときに、一生懸命、本当に死力を尽くして、この子が伝えようとしたことというのは、それだけではなくて、生きることの素晴らしさや尊さということを、一歩一歩に伝えてくれているなというのは私には感じてきて」

“68歩”胸に、少しでも前を向こう

娘の“最後の68歩”が教えてくれたことを胸に、少しでも前を向こうと考え始めた本郷さん。事件から4年後には、事件や事故、自然災害で家族や故郷を失った人などと対話し、支える側に回っていきました。

そして3年前からは、身寄りのない高齢者が暮らすホスピスで、入所者の身の回りの世話などをしています。

「人を支えることで自分も支えられている」と語る本郷さん。それでも、あの日のこと、優希ちゃんの死のことを考え、幾度となく押しつぶされそうになるといいます。
本郷由美子さん
「ときどき何度も何度も、いまこんな自分だけど、これでいいのかという問いは、どうしてもついて回ってくる。どこへ行ってしまったの? なんで死んじゃったの? 正直言って悲しみがなくなるということはないですよね」

生きる意味を探す中で… ある夫妻との出会い

常に揺れる中で生きる意味を探し続ける本郷さんを、事件直後から支えてくれ、交流を深めてきた夫妻がいます。井上郁美さん・保孝さん夫妻です。
池田小事件の2年前の1999年11月28日、井上さん一家の乗った車は東京・世田谷区の東名高速道路で飲酒運転のトラックに追突され、長女の奏子(かなこ)ちゃん(3)と次女の周子(ちかこ)ちゃん(1)が亡くなりました。
その後、井上さん夫妻は、危険な運転で事故を起こしたドライバーへの厳罰化を求めて署名活動などを行い、賛同する声が全国に広がりました。これを受けて、刑法が改正され、飲酒運転など危険な運転で事故を起こしたドライバーへの罰則を重くする「危険運転致死傷罪」が新たに設けられました。

井上さん夫妻と本郷さんが出会ったのは、池田小の事件後、犯人への厳罰化と安全な学校づくりを求めて行った署名活動のとき。夫妻は進んで手伝ってくれました。

そして事件から2か月ほどしかたっていない本郷さんたちの気持ちを優しく包み込んでくれたといいます。
本郷由美子さん
「やはり私が言葉にもならないわけです。そんな時に、肩に手を触れたり、手を握ってくれたり、そういうことで『大丈夫だよ、そばにいるよ』ということを伝えてくれたんだなと思い、あたたかさを感じたんです。本当に体の中に染み込んできて、わたし、生きているって思えたんです」

“生きていてくれてありがとう” 17年目の抱擁

事件当日の優希ちゃん。実は“68歩”以外にもう一つ判明したことがあります。それは治療の優先順位を決める「トリアージ」の場面です。

一旦は救急車に乗せられた優希ちゃんが降ろされ、事件で重傷を負った村田洋子さん(仮名)が搬送されたのです。

それを知った本郷さんはずっと村田さんを気に掛けていました。「助かって良かったね、と直接声を掛けたいと思いながらも、トラウマを引き起こしてはいけないからと敢えて距離をとらざるを得なかった」といいます。
数年前、本郷さんが、大学生になった村田さんと話をする機会が訪れました。

村田さんは当時、大学で不登校に苦しむ子ども達の学習支援に取り組んでいて、講演を行うために大学を訪れた本郷さんに、村田さんの方から声をかけ、追悼の集いに一緒に行きたいという気持ちを伝えたといいます。

村田さんは、事件後、自分が優希ちゃんの代わりに救急車に乗ったことを母から聞いていました。そして私たちに「自分が助かったことを申し訳ないという気持ちを抱えてきた」ということを明かしていました。村田さんも、優希ちゃんのことをずっと考え続けていたのです。
事件から17年目の追悼の集い。本郷さんと村田さんは、あの日救急車があった場所に初めて一緒に立ちました。

「生きていてくれてありがとう」
本郷さんは、村田さんをそっと抱きしめていました。

「ずっと伝えられずにいた気持ちをやっと伝えられた。それには17年という歳月が必要だった」

優希ちゃんの“最後の68歩”と向き合う上で、この日は本郷さんにとって大事な“一歩”となったのです。

幼なじみが繋いだ”しょうらいのゆめ”

優希ちゃんはどんな大人になっていたのか。そう想像するたびに本郷さんが思い浮かべるのが「優希ちゃんの夢」だといいます。

「辛くなるから、あまり見たくない」と言いつつも本郷さんが私たちに見せてくれた1枚の紙があります。それは亡くなる1年前に優希ちゃんが記していた「しょうらいのゆめ」。

「大きくなったらせんせいになりたい。なぜかとゆうとおもいでがたくさんできるしたのしいから」。しっかりとした筆圧で書かれた直筆の文字からは、優希ちゃんの生き生きとした躍動感が伝わってきました。
事件で叶わなくなったその夢は去年、突然動き出しました。
きっかけは優希ちゃんと同じ幼稚園から附属池田小に進学し、予備校の講師を務める三田村尚輝(仮名)さんの一言でした。
三田村さんはあの事件で、逃げる途中に男に背中を刺され、けがを負いました。

「奇跡の連続で生かされたと思っているので何かをしなければ」と話す三田村さんにとって事件が発生した6月8日は「生きる力をもらう日」。毎年のように学校を訪ね、亡くなった優希ちゃんたちに手を合わせ、事件と向き合い続けていたのです。

教壇に立った後、優希ちゃんが先生という夢を持っていたことを知った三田村さん。おととしの追悼の集いで本郷さんと再会後「優希ちゃんの夢を叶えたいので形見を頂けませんか」と相談を寄せました。
本郷さんが渡したのは、事件当日優希ちゃんが遊んでいた折り紙。それは今、三田村さんが肌身離さず仕事中に首から掛けているネームタグの中にあります。

三田村さんは、「生徒達が目をキラキラさせながら授業に参加するその光景が、優希ちゃんにもみえているんじゃないかという気持ちになる」。そう教えてくれました。
”68歩”を遺した優希ちゃんの夢が思いがけなくも叶えられた出来事は、本郷さんが心の中で大きな一歩を踏み出すきっかけとなりました。

「大切な誰かのなかで娘が生きてくれているようでとても嬉しい」と感じた思いをSNSで綴り、私たちにこう心の内を明かしました。
本郷由美子さん
「優希に会いたいし、悲しみがなくなるということはない。ただ、かつての羽をもがれるような悲しみから、愛しさを感じる愛(かな)しみに感じ方が変わった。こうやって悲しみは質が変わっていくんだなと確かに感じています」

誰もが悲しみを吐き出せる場所をつくる

優希ちゃんの“68歩”から「命の尊さを伝えてほしい」というメッセージを受け取った本郷さん。人に支えられながら、自らも傷ついた人に寄り沿い、20年の歳月を積み重ねるなかで、ようやく娘のメッセージが一つの形になったと感じる場所ができたといいます。

それは去年11月本郷さんが都内に開設した「グリーフケアライブラリーひこばえ」。“ひこばえ”とは切り株からでる芽のことです。

事件や事故で家族を奪われるなどして心を断ち切られるような経験をした人たちから「ただ話を聞いて欲しいだけなのに、そういう場所がない」とたびたび聞いてきた本郷さん。“悲しみや苦しみの感情を安心して吐き出せる場”を作り、少しでも悩みに応えたいと考えたのです。

“ひこばえ”の名前にはこの場が少しでも”心の再生”を見いだすきっかけになればとの願いを込めました。
「ひこばえ」には、子ども部屋のような空間があります。かなしみや死別をテーマとした750冊の本が置かれていて、自由に手に取ることができます。予約制で利用は無料。自分の感情を吐き出し、誰にも気兼ねなく、過ごせます。

開設から半年で訪れた人は60人。死産をした人、病気や障害のある人の家族、事件や事故で家族を奪われた人。そして20年前優希ちゃんとともに学校で事件に巻き込まれた当時の“子ども達”もやってきました。

「悲しみとの向き合い方やタイミングは人それぞれ。必要だと思ったときにいつでもありのままの気持ちを出せる場はやはり必要だった」。本郷さんはそう実感したといいます。

事件から20年を前に、本郷さんの心を支え続けてくれた井上郁美さん・保孝さん夫妻も「ひこばえ」を訪れました。

子どもたちを突然奪われた深い悲しみに苦しんできた井上さん夫妻は、本郷さんが用意した本を何冊も手に取っていました。

「悲しみと心ゆくまで向き合える場があるということが分かるだけでもきっと多くの人が救われることと思います」。感想ノートにそう書いてくれました。
本郷由美子さん
「自然に優希と一緒にいるという気持ちを大切に活動しているが、ここができて、”ママ、よくやったね”と優希が言ってくれているのかもしれないし、”これだけの人たちと出会って、ママ、いま生きているんだよ”って伝えています」
本郷さんは、優希ちゃんに語りかけるような口調で私たちにそう話してくれました。

事件から20年 これからも優希とともに

事件から20年となった6月8日。本郷さんは附属池田小学校へ向かっていました。事件後、毎年この日に行われる追悼の集いに出席するためです。

学校へ向かう道中、本郷さんの手元には優希ちゃんの写真がありました。
追悼の集いには、遺族や学校関係者などおよそ650人が出席しました。
事件で亡くなった8人の児童を悼み、8つの鐘を鳴らした本郷さん。ことしも“いつもの場所”に向かいました。

優希ちゃんが最期に歩いたあの廊下。
“最後の68歩”を再び歩き、力尽きて倒れていた場所を何度も撫でたと言います。
本郷由美子さん
「一人で頑張って歩いたところですよね。やっぱりその一歩一歩を感じたいし、”本当によく頑張ったね。あなたが伝えたことを、お母さん、ちゃんと受け止めたからね”」
今回の取材中、本郷さんが漏らした一言が心に残っています。
「本当に悲しみはなくならない。その気持ちから解放されるのは自分の人生を終えるとき」。
遺族の悲しみは死ぬまで続くーー 事件の傷の深さを改めて痛感させられました。
それでも、本郷さんはこれからの人生も、前を向いて生きていきたいと言います。命懸けの”68歩”を通して、”生きることの尊さ”を教えてくれた娘、優希とともに…。
本郷由美子さん
「毎日のように、今日こんなふうに一日過ごしたよって報告しているので、”今日、ママらしく頑張れたじゃん”とか、”もうちょっとこうしたらいいんじゃない”とか、そんなふうに言ってくれているような気がします」