自分の名前も、誕生日も、親の顔もわからない

自分の名前も、誕生日も、親の顔もわからない
私はいつ生まれたのかは、わかりません。
両親の顔を思い出すこともできません。
自分の本当の名前もわかりません。
自分はいったい誰なのか。
その女性は、80年近くたった今も、自分のルーツを探し続けています。
(国際部記者 関谷智)

自分で決めた誕生日

「私は誰なんだろう」

その女性は「誕生日」の8月16日が来るたび、自分が自分でないような感情にとらわれるといいます。生まれた日を知らない彼女は、その「誕生日」を自分で決めました。

公園で遊ぶ親子の姿を見ると、顔を思い出すこともできない両親のことを思いました。彼女は、誰から生まれたのか、今も知ることができていません。

彼女の子どもたちは日本で成人し、結婚をして、家族を持ちました。夫と一緒に孫の顔を見るたび、ささやかな幸せを感じることもできています。それでも、自分の中には何か大切なものが欠けている。その気持ちを拭えたことは一度もないといいます。
「自分がどこから来て、どこにいて、どこに向かっているのかわかりません。ただ、広い海をあてもなく泳いでいるような感覚です。自分はいったい、誰なのでしょう。私のたった1つの願いは、自分が誰なのか、ただそれを知ることです」

残っていない両親の記憶

彼女が生まれたのは、日中戦争のさなかの中国東北部。両親は日本人でした。

しかし1945年、ソビエト軍が侵攻してきたことで、彼女の家族は混乱の中で離散し、母親はまだ幼い彼女を背負って何日も逃げ続けました。

たどりついた小さな村で、母親は飢えと疲れから、彼女を背負ったままトウモロコシ畑の中に倒れました。偶然通りかかった中国人が2人を家に連れて帰って看病してくれましたが、母親は数日後に息を引き取ったそうです。

そして、彼女は養父母となる中国人夫婦に預けられ、育てられることになりました。

こうした彼女が知る自分の生い立ちさえ、すべて人から聞いた話です。当時、彼女はまだ幼く、本当の両親の顔や記憶は、どんなに頑張っても思い出すことはできないといいます。物心がついた時に理解できたのは、実の母親が亡くなったということと、自分が日本人だということだけでした。

孤独と祖国への思い

「蘇福琴」と名付けられた幼い少女。通い始めた小学校では日本人であることを理由にいじめられました。

「拾われた子ども」
「日本鬼子」

投げつけられることばの数々。養父母に助けを求めようと思った時もありましたが、打ち明けられませんでした。

いじめを受けて、生き続ける意味を感じられなくなったこともあったといいます。そんな時、彼女は祖国で生きているかもしれない父親のこと、海の向こうにある日本のことを思い、東の空を眺めました。

「本当のお父さんに会いたい」

彼女は、ただひとり静かに泣きました。

誰にも言えなかったルーツ、そして転機

学校を卒業したのち、小学校の教師となった彼女。その間、日本人というルーツは隠し続けました。

結婚した中国人の夫にも、夫との間に授かった4人の子どもたちにも、日本人であることは明かしたことはありません。自分が受けたような偏見や差別にさらされるかもしれないと思ったからだといいます。

ただ「いつか誰かに知られてしまうかもしれない」という恐怖から、心が安まることはありませんでした。

そんな彼女に大きな転機が訪れたのは、1972年、日本と中国の国交が正常化したことがきっかけでした。互いの国を自由に行き来できるようになり、彼女と同じように、幼いとき肉親と中国で生き別れた孤児たちが、日本を訪れ家族を探すことができるようになりました。

「お父さんに会えるかもしれない」

自分が誰なのか知りたい、日本に行きたい。彼女はその感情を抑えることができなかったといいます。気付くと、夫と子どもたちに、自分が日本人であることを初めて打ち明けていました。
「君が日本人だということは、うすうす知っていたよ。君のふるさとに帰ろう。私たちは家族なんだから、子どもたちのためにも、君のためにも、家族が引き裂かれることは、もう二度とあってはならないから」
夫は、笑みを浮かべて言いました。長く教師をしていた夫は、中国での安定した仕事を失っても、彼女と日本に行く覚悟であることも伝えてくれました。

お互いを信頼し、尊重しあってきた夫。彼女は、彼の覚悟に驚くとともに、その優しさに心打たれました。

1985年、彼女は初めて祖国を訪れました。家族と引き裂かれてから40年の歳月がたっていました。

しかし、日本で家族を見つけ出すことはできませんでした。自分自身の出自を示す資料などが何もなかったためです。

初めて祝ってもらえた「誕生日」

それでも、祖国で暮らしたい。1987年、彼女は家族と一緒に永住帰国をしました。

新たな暮らしが始まるのにあたって、彼女は、ずっとほしかった、日本人としての名前と生年月日を自分で決めました。

「河本琴」子どもの頃に育った中国の地名から「河」、日本の「本」、そして中国名の「蘇福琴」から「琴」をそれぞれ取りました。

そして、生年月日は1942年8月16日。生まれた年は、終戦を迎えたのが3歳くらいだったことから、誕生日は「終戦から人生が変わった」という思いを込めて選びました。

このとき河本さんは、初めて「誕生日」を持つことができました。それ以降「誕生日」を迎えるたび、家族が祝ってくれるようになりました。

それまで、1度も誕生日を祝ってもらったことのなかった河本さんは、笑顔で家族に感謝を伝えるといいます。

一方で、心の奥底では、ずっと答えを探し続けています。

「私は、いつ、誰から生まれたんだろう」
「私は誰なんだろう」

いくら名前と誕生日を決めても、心には、決して埋まらない穴が空いたままなのだといいます。
現在の河本さん
「私は、誰かに守られているという安心感を得たことはありません。幼いころから、自分の本当の家族が周りにいなかったからです。だから、いじめられて心が傷ついても、自分ひとりで耐えるしかありませんでした。そのおかげで、心は強くなりましたが、親からの温かい愛情を、せめて1度でいいから感じてみたかった」

今も続く中国残留孤児の苦悩

河本さんが今、不安に思っているのは、このまま、自分のルーツがわからないまま、死を迎えてしまうことです。

河本さんのように、終戦前後の混乱で、家族と離れ離れになり、中国に残された子どもたちは「中国残留孤児」と呼ばれています。孤児たちは、終戦後の長い時間、家族と引き裂かれたまま祖国から遠く離れて、生き抜いてきました。

日本政府が確認した中国残留孤児は、2818人。その半数以上が、河本さんのように、今も家族を見つけられていません。

東京にある支援団体「中国帰国者・日中友好の会」によると、孤児や、その家族のために団体が管理している共同墓地には200人以上が埋葬され、その多くはルーツがわからないまま、亡くなっているといいます。

今回の取材の中で話を聞いた、団体の事務局長で、自身も残留孤児である過能国弘さんのことばは、今も心に重く響いています。
過能事務局長
「私たち残留孤児のことを忘れてほしくありません。過去の戦争が原因で、当時幼い子どもだった私たちは、今も苦しみ続けているのです。将来、二度と戦争を起こさないためにも、私たちのことを忘れないでください」
国際部記者
関谷智
2015年入局
徳島放送局を経て国際部
主に中国を担当