“知の巨人” 立花隆さん 問い続けた「人間とは何か」

「知の巨人」と称された立花隆さんが亡くなりました。

政治・経済、宇宙、人間の脳、生命科学、臨死体験、音楽。
理系・文系の垣根を越えて多岐にわたる執筆活動を続けた立花さん。

その業績からは「人間とは何か」という問いへの絶えることのない好奇心に突き動かされてきたことが見て取れます。その仕事の一部をたどりながら立花さんの足跡を振り返ります。

原点は“引き揚げ体験” 「あすどこへ行くか分からない」

立花さんは著書の中で自身の仕事や生涯を振り返る際、重要な意味を持った出来事として、幼少期から青年期のいくつかの体験を繰り返し挙げています。

その一つが幼くして体験した「引き揚げ体験」です。

1940年、長崎市に生まれた立花さんは2歳の時に教師をしていた父親の仕事の関係で中国 北京に移住。そのまま敗戦を迎えます。

5歳の立花さんは父と母、兄・妹とともに北京から山口県への引き揚げ船の出る天津の港まで、貨物列車やトラックに揺られながら一家であてどない旅を続けたと言います。

立花さんはこの時の「あすどこへ行くのかも分からない」体験が青年期以降、繰り返してきた世界各国への放浪の旅につながり、そうした生来の“放浪癖”が多様な世界への好奇心へと結び付いていったと振り返っています。

“多読乱読”した10代 「調べつくすという欲望がある」

立花さんの幼少期をたどって目につくのは早熟した読書遍歴です。

父親の影響で家では常に本に囲まれていたという立花さんにとって、本は幼い頃から自然と読み始めていたものだったと言います。

著書『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫)の中には、立花さんが中学3年生の時に書いた「僕の読書を顧みる」という文章が収められています。

小川未明やグリム、アンデルセンといった童話から、マーク・トウェインなどの冒険小説へと移り、小学校の中学年には家にあった志賀直哉全集や山本有三全集を読み、高学年になると図書館で借りた世界文学全集から古代ギリシャの叙事詩や、エドガー・アラン・ポーの推理小説などジャンルも多様な小説群に出会い、この時期に読んだ『キュリー夫人伝』は文学と共に科学に興味を持つきっかけの一つになったといいます。

中学時代には樋口一葉、芥川龍之介、石川啄木、井上靖などの近現代の日本文学から、ゲーテやドストエフスキーなどの重厚な作品、シェイクスピアの戯曲まで古今東西の文学を浴びるように読みふけっていたと記しています。

立花さんは著書『知の旅は終わらない』(文春新書)の中で、この“多読乱読”の読書体験を振り返り「考えてみれば、このころから僕の中には、何かを読みつくすとか、調べつくすという欲望があるんです」と語っています。

東大在学中に友人と欧州旅行「人生で最大の勉強をした」

その後、立花さんが東京大学文学部に入学したのが1959年。安保闘争の前年に当たり学生運動が勢いを増していた時代です。

立花さんも多くの学生と同様、学生運動に加わりましたが、在学中に友人と2人で欧州を旅した体験がきっかけとなり、次第に距離を取るようになったと言います。

立花さんたちは1960年にイギリスで開かれた世界の学生による核軍縮の国際会議に合わせてヨーロッパ各国を巡る旅行の計画を立てます。そのために前年に広島で開催された「原水爆禁止世界大会」に出向き、各国の代表に直接この旅行についての次のような英文の「趣意書」を手渡します。

「われわれは原爆の悲惨さを伝え、核兵器の禁止を訴えるために、ヒロシマ、ナガサキの惨状を記録した写真、映画などを持って貴国を訪問したい」(『立花隆のすべて』文藝春秋編より)

行動力が実を結び、いくつかの国から受け入れを許可する返事をもらった立花さんたちは国内の反核運動関係者などから渡航費のカンパを募って半年間に及ぶ欧州旅行を実現させました。

参加した国際会議では国籍の異なる若者どうしが核軍縮と平和をテーマに建設的な議論を重ねていく姿を目の当たりにし、日本の政治主義的な平和運動とは異なる強い意志を持った個人による運動に触れ、大きなカルチャーショックを受けたと振り返っています。

世界の若者と同じ目線で交わった経験が、後のジャーナリストとしての探究心に広い視野を与えました。

「この旅行をしていた半年間は、人生で最大の勉強をしていたんだと思います。
(中略)
安保反対のデモで走りまわるよりも大事なやるべきこと、なすべきことが、自分個人の問題としても、日本社会の問題としても、山のようにあるということに気がついたということです」(『知の旅は終わらない』より)

雑誌記者からフリーライターへ ノンフィクションにのめり込む

東京大学を卒業したあと文藝春秋に就職し『週刊文春』の特集班の記者として仕事を始めますが、立花さんはこの仕事を2年余りで辞めます。

働いたのは短い期間でしたが、この時期に上司からかけられた「小説だけではなくノンフィクションも読め」ということばをきっかけに世界のノンフィクションを読みあさり、小説をめっきり読まなくなるほどにその魅力にのめり込んだと言います。

その後、改めて東大の哲学科に入学しながらフリーのライターとしてジャーナリストの歩みを始めていきます。

雑誌などに評論やルポを発表しながらキャリアを積んでいった立花さんの名前が一躍、全国区で知られるようになった仕事が「田中角栄研究」です。

「田中角栄研究」 緻密なデータで時の首相に対じ

1974年に『文藝春秋』に発表した「田中角栄研究~その金脈と人脈」。

この取材では文藝春秋に出入りしていたフリーの記者とともにチームを作り、登記簿や政治資金収支報告書などの公開資料を幅広く集め、開設まもない「大宅壮一文庫」を活用して田中氏に関する過去の雑誌記事を総ざらいするなど手に入るかぎりの活字資料を徹底的に分析した調査報道を行い、緻密なデータの積み重ねで時の首相に対じしました。

この記事が在京の外国人記者の注目を集めたことをきっかけに国内の大手メディアの報道や国会の追及につながり、田中内閣は退陣に追い込まれていきます。
立花さんはその後もロッキード事件の裁判の傍聴記を含めて関連の取材を続け、原稿用紙にして1万枚を超える仕事を残しました。

この仕事について立花さんは著書の中で、個人の政治スキャンダルを暴くことではなく戦後日本の政治・経済・社会そのものの暗部を見つめたかったと説明しています。

そして、これほどまでにエネルギーを注いだ理由について権力を支えていた者も含むすべての人間に対しての「あんな奴らに負けてたまるか」という気持ちがあったと振り返っています。

「遺跡というのは、みな本質的に権力の遺跡なのです。
(中略)
やがて崩壊し、風化し、半分砂に埋もれてしまう。
(中略)
田中角栄も同じです。あの闇将軍時代、あれだけ強大な権力を誇っていたというのに、いまでは、若い人は田中角栄の存在すら知らない。つまり遺跡なのです。
(中略)
まして、そういう人物を批判して、二十年間で一万枚以上もの原稿を書きつづけた男がいたなどということは、それよりはるかに早く忘れ去られるにちがいありません」(『知の旅は終わらない』より)

宇宙飛行士との対話で迫った「人間とは何か」

立花さんはその後、執筆のテーマを科学の領域へと広げていきます。こうしたテーマの早い時期の著作が、宇宙飛行士へのインタビューを元に宇宙体験が人間の内面に及ぼす変化に迫った「宇宙からの帰還」(1981年から連載)です。

当時の社会の反響について立花さんはこう振り返っています。

「ずっと角栄支配の時代が続いてしまったため、新聞や雑誌で結構頻繁に政治のことも書いていた。それでなにか権力と闘う立花隆というイメージがあったんですね。だから『宇宙からの帰還』を書いたときには、意外感を持って受け止めた人のほうがはるかに多かった。でも僕自身としては、むしろ角栄のほうがまったく意外な仕事だった」(『立花隆のすべて』より)

「宇宙からの帰還」を書くきっかけになったのは、宇宙飛行士の中には後に伝道師や詩人、画家になった人がいるという話を耳にしたことでした。

「宇宙体験とはどういう体験なのか」
「その後の人生にどのような影響を与えるのか」

興味に駆られた立花さんは、アメリカにいる宇宙飛行の経験者にひたすら手紙を送り「宇宙体験があなたにどういう精神的影響を与えたのか」という質問を投げかけ、返事のあった人と面会の約束を取り付けていきました。
宇宙飛行士との対話で立花さんが迫ろうとしたのは、「人間とは何か」ということです。

宇宙体験の前後で、宗教観や内面の精神性にどのような変化があったかに焦点を絞った取材について、立花さんは「さまざまの仕事の中で、これらの宇宙飛行士とのインタビューほど知的に刺激的だった仕事は少ないと思いました」(『知の旅は終わらない』より)と振り返っています。

その後も人間と動物の境界を探る『サル学の現在』や、生命倫理の問題に正面から向き合った『脳死』、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進さんとの対話で最先端の生命科学の世界に迫った『精神と物質』など多様な著作を発表していきました。

「人の死とは何か」を追う 自身もがんを宣告される

立花さんは著作の執筆と併せてNHKなどのドキュメンタリー番組でも数多くの取材を行ってきました。

その多くは「人の死とは何か」というテーマを追うものでした。

1991年のNHKスペシャル『立花隆リポート 臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか』では、死の危機から生還した人の体験談や臨死体験を研究する各国の専門家への取材をもとに、人は死ぬ時に何を感じるのか、死後の世界は存在するのかといった壮大な問いに迫りました。

また、自身ががんを宣告されたあとに放送された2009年のNHKスペシャル『立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む』では、がんがそもそもどういう病気であるのかという根本的な問いに迫りながら、いかに死と向き合い、いかに生きるかを見つめました。
NHKスペシャル『臨死体験』の中で、番組の最後に立花さんはこう話しています。

「私が印象深かったことは、体験者たちがこの(臨死)体験を語る時、そこに恐ろしいものがあったと語る人は1人もいなく、むしろそれはすばらしい体験であった、あるいは、この体験のあと死を恐れることがなくなったとすら語っていることです。この取材のあと、私は自分自身の死というものを直接、正面から考えることができるようになりました。私たちはどうしても死というものをタブー視して、正面から向き直って考えようとはしません。しかしそのタブー視する考えこそが死を特別な、巨大な、忌まわしいものにしようとしてしまっているのではないでしょうか。このような臨死体験の研究を通じて私たちがもっと直接、深く、死を見つめなおすことができるのではないかという気がしました」

自身の死後の希望書き残す「樹木葬あたりがいいかな」

ジャーナリストとして人の生と死に向き合ってきた立花隆さん。

去年刊行された著書の中で、自身の死後の希望を書き残しています。

「死んだ後については、葬式にも墓にもまったく関心がありません。どちらも無いならないで構いません。
(中略)
昔、伊藤栄樹という(中略)有名な検事総長が『人は死ねばゴミになる』という本を書きましたが、その通りだと思います。もっといいのは「コンポスト葬」です。
(中略)
そうすれば、微生物に分解されるかして、自然の物質循環の大きな環の中に入っていきます。海に遺灰を撒く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、妥協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」(『知の旅は終わらない』より)