「忘れない…」 沖縄 慰霊の日 「平和の礎」は祈りに包まれる

沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から76年の「慰霊の日」を迎え、各地で平和への祈りがささげられています。沖縄県に緊急事態宣言が出ているため、戦没者追悼式は規模を大幅に縮小して開かれました。

76年前、昭和20年の沖縄戦では住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。

各地で平和への祈りがささげられていて、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた平和の礎の前で花を手向けたり、手を合わせたりしています。

平和祈念公園では正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれました。

ことしは緊急事態宣言が出ていることから県外からの来賓や一般の県民の参列は見送り、例年は5000人規模だった参列者の数が去年よりさらに少ない36人に絞られ、正午に1分間の黙とうをささげました。

式で沖縄県の玉城知事は「平和宣言」を読み上げ「沖縄戦の実相と教訓を次世代に伝え続け、人類社会の平和と安寧を願い、国際平和の実現に貢献できる『安全・安心で幸福が実現できる島』を目指し全身全霊で取り組んでいく」と述べました。

また、来年で沖縄が本土復帰50年の大きな節目を迎えることについて「辺野古新基地建設が唯一の解決策という考えにとらわれることなく『新たな在沖米軍の整理・縮小のためのロードマップ』の作成と、目に見える形で沖縄の過重な基地負担の解消を図ることを要望する」と述べました。

このあと菅総理大臣はビデオメッセージで「引き続き『できることはすべて行う』との方針のもと、沖縄の基地負担の軽減に向け一つ一つ確実に結果を出していく決意だ」と述べました。

式の中では沖縄県宮古島市の中学生、上原美春さんがことしの「平和の詩」に選ばれた「みるく世の謳」を朗読しました。

上原さんはめいが生まれて初めて命の芽吹きを目にして感じた平和への思いと、多くの命が犠牲になった76年前の戦争の悲惨さを対照的に描き平和な世の中をつくっていきたいと訴えました。

「平和の礎」亡くなった24万1632人の名前が刻まれる

「平和の礎」は戦後50年の平成7年に沖縄戦の最後の激戦地、糸満市摩文仁に建設されました。

国籍を問わず、民間人と軍人も区別せず、沖縄戦などで亡くなった24万1632人の名前が刻まれています。ことしは新たに申告のあった沖縄県出身の38人と、県外出身の3人の合わせて41人の名前が追加されました。

朝早くから祈り

「平和の礎」ではことしも朝早くから祈りをささげる人たちの姿が見られます。平和の願う祈りに包まれる沖縄の声です。

叔父を亡くした女性「心安らかに眠ってください」

宜野湾市の砂川いづみさん(54)は沖縄戦で船の乗組員として軍に徴用された叔父を亡くしました。

砂川さんは「去年はコロナの影響で来られませんでしたが、ことしは母を自宅に残し姉と2人で来ました。叔父には『心安らかに眠ってください。戦争を二度と起こさず平和に暮らしていきます』と伝えました」と話していました。

また、姉の厚子さん(56)は「戦争で亡くなった人たちを忘れてはならないと思います」と話していました。

父と姉亡くした82歳男性「そばで艦砲射撃の破片で亡くなった」

沖縄戦で父親と2歳年上の姉を亡くした那覇市の82歳の男性は「姉は一緒に沖縄本島北部に逃げている時、すぐそばで艦砲射撃の破片にあたって亡くなったので当時のことはよく覚えています。きょうは『いつも見守ってくれてありがとう。みんな元気です』と伝えました。平和がいちばんで、戦争には反対です」と話していました。

叔父を亡くした女性「祈り続ける…」

20歳で叔父が徴兵され、場所が分からないまま亡くなったという浦添市の翁長明美さん(67)は妹と一緒に手を合わせたあと、亡くなった叔父の若い頃の写真を持って涙を見せていました。
翁長さんは「亡くなった母からは『弟はとっても優しくて、もし生きていたらもっと幸せだった』と口癖のように言っていた。私は母の気持ちを聞いてるので、この平和の礎に来ないわけにはいかない。コロナの影響で自粛とかありますが祈りを続けるのは変わらない」と話していました。

80歳男性 姉2人と幼なじみ亡くす「供養は生き延びた自分しか…」

沖縄戦のさなか、祖父母とともにごうを転々としながら逃げたという豊見城市の高良正信さん(80)は「当時4歳だったので沖縄戦の記憶はほとんどありませんが、地上戦で亡くなった姉2人と幼なじみの供養は生き延びた自分にしかできません。あと10年はここに来られるように元気でいたいです」と話していました。

叔父と曽祖母亡くした85歳男性「命からがら歩いて逃げた」

沖縄戦で叔父と曽祖母を亡くした南城市の85歳の男性は「沖縄戦の時は9歳で家族で沖縄本島南部のごうに避難していましたが、日本軍に追い出され命からがら北部に歩いて逃げました。最近は戦時中のように個人の自由が奪われつつあるように感じます。一人ひとりが自由に意見を言える社会、そして平和を強く望んでいます」と話していました。

父の名前が刻まれた82歳男性「毎年 父親に会いに来ています」

中城村の新垣勲さん(82)は沖縄戦で犠牲となった父親の名前が刻まれた平和の礎の前で手を合わせました。

新垣さんは「父親がどこで亡くなったかわからず遺骨も見つかっていません。毎年、父親に会うためここに来ています」と話していました。

新垣さんは母親と姉とともに3人で沖縄本島北部に疎開しましたが、母親は戦後マラリアで亡くなったということです。

新垣さんは「布団もないかやぶき屋根の建物の中で母親の熱を下げようと直接、頭に水をかけていました」と、時折ことばを詰まらせながら当時の様子を振り返っていました。

親族10人以上が亡くなった86歳男性「平和な世の中を」

父やいとこなど親族10人以上が戦争で亡くなって平和の礎に名前が刻まれている八重瀬町の86歳の男性は「沖縄戦の時は11歳で八重瀬から金武まで夜に歩いて逃げました。当時、ブンブンと降り注ぐ艦砲射撃が光っていた様子を今も覚えています。父たちには安らかに眠ってくださいと伝えました。願うのは平和な世の中ですが、基地がなくならないと沖縄には本当の平和は訪れないと思っています」と話していました。

親族10人で訪れた男性「子どもに戦争について考えてほしい」

平和の礎に妻の曽祖父の名前が刻まれている浦添市の48歳の男性は親族10人ほどで訪れました。

男性は「子どもたちに先祖を大切にしてほしいという思いで毎年来ています。沖縄戦のことをありのまま学び、戦争について自分自身で考えてほしい」と話していました。

8歳の息子は「手を合わせ、戦争で亡くなった先祖に天国に行ってくださいと伝えました。悪い人がいない世界になってほしいです」と話していました。

戦跡などめぐる女性ガイド「伝えていきます」

沖縄戦の戦跡などをめぐるバスツアーのガイドとして働く豊見城市の20歳の女性は「沖縄戦のことは学校の平和学習で学んできましたが、この仕事を始めてからより身近に感じられるようになりました。私たちにできることは戦争の悲惨さを伝えることなので、しっかり伝えていきますと戦没者に誓いたいです」と話していました。