ジャーナリスト・作家 立花隆さん死去 幅広いテーマ取材

田中内閣退陣のきっかけになったと言われる「田中角栄研究」をはじめ、政治や科学、医療など幅広いテーマで取材や評論活動を行ってきたジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆さんが、ことし4月、急性冠症候群のため亡くなりました。80歳でした。

立花隆さんは昭和15年に長崎市で生まれ、東京大学を卒業したあと出版社の文藝春秋に入社しました。

入社から2年余りで出版社を離れたあとも取材活動や記事の執筆を続け、昭和49年に現職の総理大臣だった田中角栄氏の金脈問題を膨大な資料を検証して追及した「田中角栄研究」を発表して大きな反響を呼び、田中内閣が退陣するきっかけになったと言われています。
その後も鋭い着眼点と徹底した取材をもとにしたルポルタージュを次々と発表し、扱うテーマも政治だけでなく、最先端の科学や医療、宇宙や脳死など多岐にわたり、「知の巨人」と称されました。

平成7年からは東京大学の客員教授を務めてユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いできました。
平成19年にはぼうこうがんが見つかったことを公表し、病気や死をテーマにした作品の執筆やドキュメンタリー番組の制作にも携わってきました。

家族によりますと、立花さんは糖尿病や心臓病などを抱えて入退院を繰り返したあと旧知の病院で入院を続け、4月30日、急性冠症候群のため亡くなったということです。

80歳でした。

家族がHPで詳細を公表

立花隆さんが亡くなったことについて、家族が23日朝、立花さんの教え子が運営するサイトに詳細を公表しました。

それによりますと、立花さんはことし4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため亡くなりました。

亡くなるまでのいきさつについては、「長年 痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気をかかえ、入退院を繰り返してまいりました。一年前大学病院に再度入院しましたが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため、旧知の病院に転院しました」と説明しています。

この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をとったものの、到着を待たずに急逝したということです。

葬儀は家族のみで執り行ったということです。

ルポライターの鎌田慧さん「一時代を作ったライター」

同じライターとして仕事で交流のあったルポライターの鎌田慧さんは「エッセーの連載がなかったので病状が悪くなっているのかなと思っていましたが、ついに亡くなってしまったのかという感慨があります。同じ時代を生きたライターで、今ではほとんどいなくなってしまった『ルポライター』と呼ばれる存在の1人でした」と振り返りました。

そのうえで、立花さんの功績について「若い時から凝り性で、その性格が膨大な量のデータの分析した『田中角栄研究』を生み出す原動力になったのではと思います。幅広いジャンルに関心を持って資料を徹底的に調べ上げ、時には取材チームを作ってその力を結集させる立花さんの好奇心と総合力は傑出しており、彼のような存在はそれまでいなかったし、これからも出てこないのではないかと思います。まさに一時代を作ったライターでした」と話していました。

ジャーナリスト 田原総一朗さん「命懸けのジャーナリスト」

立花さんと親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、立花さんが文藝春秋で「田中角栄研究」を発表したことについて「当時、田中角栄が金権政治を行っていたことは他の報道機関も知っていて、田中角栄自身も、どこもそのことを書かないと思っていた。文春で記事が出たあとも、どこの新聞も書かず、その後、田中角栄が開くことになった日本外国特派員協会での会見をきっかけに、初めて日本の新聞が報じた」と振り返ったうえで「金権政治が当たり前の時代に体を張って、命がけで書いた。日本には、なかなか命懸けのジャーナリストはおらず、そこがえらいと思う」と立花さんをたたえました。

田原さんは、立花さんが「田中角栄研究」を発表した当時、テレビのディレクターをしていて、政治にはそれほど関心は無かったと言うことですが、立花さんの発表がきっかけで、世の中が田中角栄のバッシング一色になる中、田原さん自身も田中角栄について調べ、政治家としてのすごさを記した論考を直後に中央公論で発表することになり、そうした経緯からも立花さんとは「近々、田中角栄論を一緒に本で書こう」と話していたということです。

そのうえで、立花さんや田原さんが扱ってきた政治の世界について「その頃は、政権の支持率が下がれば党内や野党から俺がやるというムードがあったが、いまはそれが弱まっている。政権を批判するだけでなく、日本をどうするのか、という気概を持った政治家やジャーナリストが出てきてほしい」と話していました。

京都大 山中伸弥教授「 立花さんの言葉に励まされた」

立花隆さんと交流があった京都大学の山中伸弥教授は、NHKの取材に対して「立花隆さんとはiPS細胞研究所が開設された11年ほど前に対談させていただきました。立花さんは、iPS細胞の倫理的な課題を見据えつつ、生命の謎を解明する研究を進めることの重要性を理解しておられ、立花さんの言葉にずいぶん励まされました。このたびの訃報に接し、心より哀悼の意を表します」とコメントしています。

毛利衛さん「宇宙飛行士になりたいと決心させてくれた」

立花さんと30年以上にわたって交流があり、日本人宇宙飛行士として初めてスペースシャトルに搭乗した毛利衛さんは立花さんの著書、「宇宙からの帰還」を読んだことなどがきっかけで宇宙飛行士の募集に応募したということです。

毛利さんは「科学技術ではなく宇宙飛行士の個人に焦点を当てた本で、宇宙体験をした人がどのように意識が変わるのかや人類全体、地球生命といった大きな捉え方をしていて、目からうろこが落ちるような思いでした。この本を読んで単なる研究者ではなくてもっと大きなことに挑戦したいと思い、本当に宇宙飛行士になりたいと決心させてくれました」と話しました。

宇宙飛行士に選ばれたあと、スペースシャトルに搭乗する前に、立花さんと初めて対談したときの印象については「立花さん自身が本物の宇宙飛行士をインタビューしているので、私がそれに耐えられるかどうか立花さんの目で見ていたのではないかなと思います」と話していました。

立花さんも生前、宇宙に行きたいと話していたということで、「『自分病気だからだめなんだよね』と言っていて、立花さんのような人が宇宙に行って地球を見ると私と全く違った発見ができるのでぜひ頑張ってくださいねと冗談のような話を何度もしました」と振り返っていました。

そのうえで、「立花さんは作家でありつつ、政治や科学技術のことをよく知っていて、科学技術政策の面でも日本がどのように進むべきか、考えをしっかり持って提言していました。日本の科学技術が危機になりつつあると感じる中で、立花さんの作品をもう一度静かに読み返して、政策を決めていく必要があると思います」と話していました。

編集者「彼の書いたものは宝物」

立花隆さんが亡くなったことについて、立花さんとおよそ20年にわたってつきあいのあった、文藝春秋文春新書編集部の石橋俊澄さんは「立花さんの活躍は本当に縦横無尽でした。例えば『このことは専門だ』という人は、たくさんいると思いますが、あらゆる事でトップのレベルまで突き詰められるというのは、この人以外にはいないのではないでしょうか」と話しました。

そのうえで、立花さんについて「本当に仕事に生きた人で、朝起きると8紙くらいの新聞を丹念に読んで、必要な箇所は全部スクラップするという生活を50年ぐらい続けていた。もともと脳みそがはるかにいいことに付け加えて、努力も怠らない。努力しようとしていたというよりも、知的好奇心がものすごい推進力になっている」と指摘し、仕事の進め方についても「自分が興味のあるテーマがあると、それに関する資料は、とにかく手に入るものは全部読むということが基本でした。尋常じゃない人だということは、誰でも想像がつくと思うんですけれど、立花さんは巨大なエネルギーの塊であって、何かを突き詰めようとなったときの集中力と頭脳のすごさは異常なくらいだと思う」と話していました。

また、印象に残っている話として、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進さんへの取材の際のエピソードをあげ「立花さんは最初、利根川さんの研究については、まるで何も知らなかったが、高校の生物の教科書から読み始め、最後は英語の論文を読みこなすまで、膨大な時間をかけて勉強していった」と話しました。

そのうえで「最先端の研究について、彼の頭で理解して、それを一般の人たちまでわかるようなことばにして送り届けてくれる。彼の書いたものは、われわれにとって宝物であり、非常にありがたいものでした」と話していました。

ノンフィクション作家 柳田邦男さん「調査分析報道家」

立花さんと同時期にライターとして活躍したノンフィクション作家の柳田邦男さんは「立花さんは世界と人間を理解しようととことん自分なりに探求しようとしていた方でした。まだまだ書きたい課題を抱えていたはずなので、もっと仕事してほしかった。惜しい人を亡くしてしまったなという思いです」と立花さんの死を惜しみました。

立花さんが果たした役割について、昭和49年に発表した『田中角栄研究』を例にあげ、「日本のジャーナリズムや報道の在り方に大きな刺激を与え、時代の転換点を作ったと言えるものであり、彼のエネルギッシュな姿に非常に強烈な印象を受けました。徹底的な取材によって資料を収集し、分析を加えるというのが立花さんの仕事の特徴で、その分析のしかたに彼ならではの鋭さがあった。調査報道の新しい在り方をみずから実践した立花さんは『調査分析報道家』と呼ぶべきだと思います」と功績をたたえていました。

そのうえで、「今はすべてのことがSNSなどで情報化してしまう時代で、真実が非常に不透明になっている。それだけに立花さんが取り組んだような真実をとことん探求するアプローチのしかたはとても大事で、知的理解の在り方を考え直すいい手本になる。その人が何を考え、どんな生き方をして、どのようなことばを残したかが人間の存在の証しであり、そういう意味では立花隆という男の存在はこれからも生きていくと思います」と話していました。

ゼミ生「社会のレンズのような存在」

立花さんが平成17年に東京大学で開講したゼミで、ゼミ生の代表を務めた加藤淳さんは「立花先生は好奇心のかたまりで、毎回決められたことを話す講義ではなく、そのつど、興味のあることを話したり、取り組んでいる仕事の話をしたりして、私たちを刺激してくれました。自分の考えている先生像とは違っていて、立花先生を通して世の中を見せてくれる、社会のレンズのような存在でした」と振り返りました。

ゼミは、最先端の科学技術について専門家に取材して記事を書くというもので、加藤さんは立花さんとともに取材した経験について「あらゆるジャンルの人に、相手のポテンシャルを引き出す質問をしていて、その人だけでは出てこなかったような知を引き出していました。相手と知的な好奇心を競うようにことばを探し、おもしろい対話が出来上がっていく体験は、今の自分に影響を与えたと思います」と話しました。

加藤さんは現在、産業技術総合研究所でコンピューターサイエンスの研究者として働いていて「進路について伝えたとき、“自分がいま学生だったら絶対にコンピューターを専門にしている”と言ってくれて、ガッツポーズをしました。知ることに貪欲になってほしいと考えて、ゼミを運営してくれていたと思うので、私も立花さんのように決まった枠にとらわれずに知を追い求めていくことを、自分なりにやっていきたいと思っています」と話していました。