「私は20歳になります」94歳の“語り部”が伝えたいこと

「私は20歳になります」94歳の“語り部”が伝えたいこと
「私は20歳になります」
ハンセン病の元患者の上野正子さん(94)はこう語りかけました。長年、国の隔離政策に翻弄され、偏見と差別に悩み生きてきた上野さんが今、力を入れているのが若い世代との対話です。新型コロナウイルスの感染が続き、偏見や差別などが出てきている今、“20歳”の上野さんが伝えたいメッセージとは。(映像センターカメラマン 柏瀬利之)

本名を取り戻して20年

ことし5月に広島の中高生が主催した勉強会。新型コロナの影響で、上野正子さんは鹿児島県からオンラインで参加しました。

「なぜ20歳?」
生徒たちと一緒に聞いていた私が思うのと同時に、生徒のひとりも理由をたずねました。
上野さん
「2001年5月11日。私が本名に戻った日です。その日から数えて20歳です」
上野さんはこう答えました。実は、20年前、上野さんが原告として加わっていたある裁判の判決が言い渡された日だったのです。

隔離と差別と偏見

ハンセン病は「らい菌」に感染することで起こる病気です。現在では、たとえ感染しても早期に発見すれば、飲み薬で発病を抑え、治すこともでき、治療中も治療後も普通に生活することのできる病気です。厚生労働省によると、日本での新規患者はほとんど確認されていません。

しかし、上野さんが発病した昭和10年代には有効な治療法はまだありませんでした。当時、「らい病」と呼ばれたこの病気は、進行すると顔や手足が変形して後遺症になることもあったことから、「不治の病」として恐れられていました。

昭和6年、国は「感染拡大を防ぐ」という名目の法律のもと、療養所を建設し、すべての患者を療養所に隔離・収容する政策を進め、全国各地でも官民あげて、患者を見つけ出しては療養所に送り込む動きが広がっていました。

教師を夢見たあの頃

昭和2年。上野正子さんは、沖縄県の石垣島で生まれました。雑貨店を営む両親と、姉1人、弟3人とともに育ちました。

「将来、教師になりたい」

上野さんは猛勉強の末、那覇市内の高等女学校に合格。13歳で親元を離れて暮らし始めました。しかし、学校生活は長くは続きませんでした。

1年生の冬。足に小さなできものが見つかりました。担任の先生から皮膚科の専門医の診察を受けるようにと言われます。父親に連れられ、すぐにふるさとを離れました。
2日間の船旅を経て、鹿児島県鹿屋市にある国立のハンセン病療養所「星塚敬愛園」に連れてこられました。

着いたその日、上野さんは、ハンセン病と診断され、療養所に収容されました。そして今もここで暮らしています。

八重山の“八重子”

入所した上野さんは、すぐに名前を変えるよう促されたといいます。ハンセン病の偏見や差別が、家族に及ばないようにするためだというのです。

「八重子」
出身の八重山諸島から取ったその名前を名乗るようになりました。このとき13歳。以来61年間、「偽名」を名乗ることを余儀なくされました。

「数か月でふるさとに帰れる」

そう思っていた上野さんは、次第に、社会から隔離された園内の暮らしに絶望していったと言います。
上野さん
「見回りの職員がいつも棒きれを持って、外に出て行く人をたたいていました。外に出ることは絶対にできませんでした。木の枝に首をつったりして亡くなった人たちの姿を見るとやっぱりここは、生きていけないところだなと感じました」

子どもは産むな

求められたのは、偽名を名乗ることだけではありませんでした。

園内で受けた最初の診療の時。出された水を飲もうとすると「コップに触るな」と制止されたといいます。
そして18歳のとき、同じ入所者の清さんと結婚します。婚姻届を出したその日。清さんは、子どもを作れないよう「断種」の手術を強制的に受けさせられました。

この手術のことを上野さんは、知らされていませんでした。
上野さん
「洗濯をする時に夫から受け取ったのが血まみれの下着でした。どうしたらいいかわかりませんでした」
上野さんだけでなく、多くのハンセン病の患者が、子どもを生むことも育てることも許されませんでした。

「生まれ変わった日」

戦後、さまざまな治療薬が開発されるなどして、ハンセン病は治すことができる病気になりました。しかし、それでもなお隔離政策は1996年まで続きました。

「誤った国の政策によって、感染のおそれがなくなったあとも強制的に療養所に隔離され続け、人権を侵害された」

鹿児島県と熊本県にある国立の療養所に収容されていた元患者13人が国を訴えます。上野さんはその一人です。
「隔離を続けたことは憲法違反だった」

訴えから3年後、2001年5月11日。熊本地方裁判所は、国の責任を認めました。判決の直後のことを、上野さんは手記につづっています。
「人間回復の瞬間(とき)」(南方新社)より
『報道陣に囲まれて、「今の気持ちはどんなですか」と聞かれました。「私はこれから、親がつけてくれた本名の正子になります」ときっぱり宣言しました』
上野さんは、この日をもう一つの誕生日だと考えています。
上野さん
「私の最高の日でした。“正しく生きなさい”と親がつけてくれた正子という名前に戻ることができたのですから」

生まれ変わって“語り部”として

この判決をきっかけに、ハンセン病問題を取り巻く環境は大きく変わりました。

2008年、ハンセン病問題基本法が成立し、全国に13か所ある国立の療養所は地域に開放され、社会との共生が進みました。
上野さん
「外に出ることはいちばん怖かったですけど、裁判に勝ってからは外に出てもあまり震えません。外に出て行くことも、皆さんと話をすることも、私の楽しみになっています」
上野さんの生きがいは、「語り部」としての活動になりました。年間およそ20回。全国を飛び回って、ハンセン病への根強い偏見・差別の解消のため、学校などで自身の体験を語っています。

しかし、偏見は今もまだ続いているといいます。

手が曲がっているのは…

3年前の写真です。この日も、上野さんは講演に招かれていました。
写真に写る上野さんの両手の指は曲がっています。

私はこの写真を見て、すぐに思いました。
「ハンセン病の後遺症で曲がった手…」

その手を見て、握手を避ける人もいたと言います。
上野さん
「だから私は、この手をポケットの中に隠して生きてきました」
しかし、上野さんは、続けてきっぱりと言いました。
上野さん
「やけどで曲がったんです」
手が曲がっているのは、療養所で作業をしていたときに負ったやけどが原因なのだと。そのことばに、気付かされました。

私の「思い込み」こそ、「偏見」なのではないか…。
上野さん
「私の曲がった手でも握手をしてくれる子どもたちがいる。いい世の中になりつつあると感じています。講演の帰りに握手をすることが何よりも楽しみなんです」

子どもたちへいま伝えたいこと

勉強会の最後。上野さんは生徒たちに質問を投げかけました。
「将来皆さんは何になるんですか?」
「弁護士かもしれません」生徒の1人が答えると、上野さんは、自分の夢を語り始めました。
上野さん
「私、小さいときから学校の先生になりたいと思っていました。病気になって、その思いは届きませんでした。若い方々にお願いしたいことがあります。偏見・差別のない社会を作ることを、皆さんも応援してください」

いまも残る差別・偏見

判決から20年。当事者を取り巻く環境は厳しいままです。

全療協=全国ハンセン病療養所入所者協議会の調査では、全国に13か所ある国立の療養所には、ことし5月現在、上野さんを含め1001人が暮らしているということです。平均年齢は87歳。およそ4人に1人が認知症です。

裁判の弁護を務めた専門家は、彼らがようやく取り戻した人生を全うすることは難しい状況になっているといいます。
徳田弁護士
「ハンセン病に関する裁判というのは遅すぎました。もしもさらに20年前に起こされていたら、おそらくもっと多くの回復者の方々が社会に出て、全く違った人生を歩み直すことができたと思います。生きてきてよかったなと思えるような、そういう余生を送っていただくことが非常に難しくなっています」
さらに指摘したのは、いまだに社会に根強く残る差別や偏見です。

厚生労働省によると、令和元年までの10年間で、延べ151人が療養所に再入所していて、社会に出て生きることの難しさが浮き彫りになっているというのです。
徳田弁護士
「社会で暮らしている方はかなりいます。しかし、高齢化が進んでいます。多くの方がいわゆる断種政策の中で子どもがいないんです。ハンセン病の元患者であったということを知って受け入れてくれるような施設は社会の中にほとんどありません。せっかく社会の中に出てきたのに、人生の最後をまた療養所に帰るということが起きてしまっているんだろうと思います」

あの日の港で

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、全国の療養所では立ち入りが一部制限されたり、上野さんのような語り部の活動もできない状況が続いています。

上野正子さんがたどった人生を少しでも自分のこととして感じたい。私はことし5月、鹿児島に向かいました。
81年前、父と一緒に上野さんが降り立った港。この日は、春にもかかわらず冷たい北風が吹いて、遠くに、煙を上げる桜島がはっきり見えました。

この港で2人は、療養所へ行きたいとタクシーに告げました。「あの場所には行けない」と、乗車を断られたと言います。

13歳の上野さんは、療養所までおよそ30キロの道のりを、父と2人で歩いて行きました。

上野さんの曲がった手を見て、ハンセン病の後遺症とすぐに決めつけた私。「思い込み」をした自分を思い出さずにはいられませんでした。

苦しみを助ける役に

いま新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、患者や医療従事者、その家族などにいわれのない誹謗中傷や差別の問題が出てきています。
上野さん
「差別された人がどんなに苦しんだかということを私は経験したので、皆さんはそれを助ける役をしてくださいますようにお願いします」
この願いに応えたい。私は、強く思っています。
映像センターカメラマン
柏瀬利之
福島放送局、いわき支局を経て現在は国会映放クラブ所属
これまで東日本大震災や原発事故などを取材