軍のためには泳げない

軍のためには泳げない
子どもの頃から目指してきた夢。それがかなうのを目前にして、祖国のためにその夢を諦めることはできますか。

「祖国の旗を、誇りを持って背負えなくなったから」。

東京オリンピック出場を断念した、1人の競泳選手の思いです。

(シドニー支局長 青木緑)

つかみかけたオリンピックの切符

5月下旬、晩秋のオーストラリア・メルボルン。

気温6度という冷え込みの中、屋外プールからは湯気のような白い煙が立ち上っていました。

その中で寒さをものともせず、黙々と何往復も泳ぎ続ける男性がいました。

ウィン・テット・ウーさん(26)。

ミャンマーの競泳男子自由形の選手です。

プールから上がると、そのストイックな泳ぎと打って変わり、人なつこい表情で話してくれました。
ウィン・テット・ウーさん
「6歳から泳ぎ続けています。水の中にいると何も聞こえず、穏やかな気持ちになるのが好きです」
オーストラリアには、2017年に両親・姉とともに移住。

永住権を取得しましたが、ミャンマーの国籍を維持し、ミャンマー代表として、国際大会に出場してきました。

2019年には、50メートル自由形のミャンマー記録を更新。

東京オリンピックへの出場が有力視されていました。

「国民の血で染まった旗」

しかし、東京大会の開幕まで半年を切った2月1日、祖国で軍によるクーデターが発生。

軍は抗議する市民を弾圧し、現地の人権団体のまとめでは、治安部隊の発砲などでこれまでに800人を超える市民が命を落としました。

祖国はどうなってしまうのか。
オーストラリアにいるウィン・テット・ウーさん一家にとっては、市民がSNSで発信する情報を集めるのが日課となりました。
ウィン・テット・ウーさんの母親
「午後にはすべてのニュースが軍に消されてしまうので、朝早く起きてチェックするようにしています」
そして、連日多くの市民が犠牲になる状況に心を痛めていた4月。

ウィン・テット・ウーさんは「ある決意」をフェイスブックに投稿しました。
“国民の血で染まった旗のもとでは、オリンピックの行進に参加できない”。
ウィン・テット・ウーさん
「クーデターが起きたあの日から、自分はオリンピックに出場するべきか、疑いを抱くようになりました。軍部のもとでは、ミャンマーの国旗を背負って出場することはできません。軍の宣伝にしかならないからです。私は、自分の夢に別れを告げることにしました」

決断を後押しした「エンジェル」の死

私たちのインタビューに、気丈に答えていたウィン・テット・ウーさん。

途中で、ある人物の名前を口にすると、せきを切ったように目から大粒の涙があふれました。
チェー・シンさん、通称「エンジェル」。

3月、ミャンマーでデモの最中に頭を撃たれ、19歳の若さで亡くなりました。

生前、テコンドーに打ち込んでいたことで知られていました。

自分と同じ若いアスリートが犠牲になっているのに、自分は遠く離れたオーストラリアでオリンピックという夢を追いかけていていいのか。

こうした思いが、決断を後押ししたと言います。
ウィン・テット・ウーさん
「彼女は国のために犠牲を払うことを決して恐れませんでした。それなのに私は、スポーツ選手として、オリンピックを目指しているだけでした。私は幸運にもオーストラリアで暮らしていますが、祖国では、夢を持った多くの人たちが殺され、若い人たちの将来が奪われています。彼らとの連帯を示すために、出場断念は必要な決断でした」
26歳という年齢を考えると、オリンピック出場のチャンスは最初で最後かもしれません。

それを諦めるという大きな決断を最も理解してくれたのは、ともに暮らす家族でした。
ウィン・テット・ウーさんの父親
「決意を聞いて、もちろん悲しかったです。ここまで頑張ってきたのだから、息子にはオリンピック出場という夢をかなえてほしい。でも、軍のためには泳げないと言うなら、私たち家族は喜んで支えます」
祖国のため、ウィン・テット・ウーさんは、具体的な行動に乗り出しています。

オーストラリアで開かれた、クーデターへの抗議デモに参加。

ミャンマー国外でも声を上げることで、国際社会の関心を高めたいと考えています。

IOCにも働きかけ

さらに、IOC=国際オリンピック委員会に書簡を送付。

市民への弾圧を事実上、黙認しているミャンマーオリンピック委員会は軍部と一体化しているとして「ミャンマーオリンピック委員会を承認し続けることは、軍部による支配の正統性を認めることになる」と、選手たちが個人資格で東京大会に出場できるよう求めました。

これに対しIOCは「ミャンマーオリンピック委員会の承認を続ける」という姿勢を崩していません。

ウィン・テット・ウーさんは今後、ミャンマーのほかのスポーツ選手たちと連携し、承認の取り消しを求める署名活動を始める計画です。
ウィン・テット・ウーさん
「沈黙は、痛みをもたらすということを、世界に理解してほしい。声を上げれば、力が生まれます。問題を認識することで、解決につながります。だからIOCにも、ミャンマーで起きている問題を、まずは認識してほしい。きっとミャンマーの良い未来につながると信じています」

いつか真の「祖国の代表」に

東京オリンピックという目標がなくなった今も、ウィン・テット・ウーさんは毎日、厳しいトレーニングを続けています。

競技力を少しでも向上させておくことが、ミャンマーの競泳界全体にとってもプラスになるという思いからです。
ウィン・テット・ウーさん
「ミャンマーに民主主義が戻る日が来れば、たとえ選手ではなくても若い世代を育てる指導者などとしてオリンピックに参加したい。それが、今の私が目指す、将来の夢です」
父親の仕事の関係で、幼い頃から世界各国を転々としてきたというウィン・テット・ウーさん。

ミャンマーで長期間暮らした経験はありません。

でも遠く離れていたからこそ、心には常に祖国があり、祖国への人一倍強い思いが支えになってきたことを、その涙は物語っていました。

ミャンマーの選手たちが誇りを持って国旗を掲げ、国歌を歌う。

そんな日がいつか訪れることを信じて、ウィン・テット・ウーさんは闘い続けます。
シドニー支局長
青木緑
2010年入局
釧路局、サハリン事務所、新潟局、国際部などを経て現所属。