ワクチンからほど遠い世界で

ワクチンからほど遠い世界で
新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない中でも世界各地で続く紛争や内戦。

ワクチンどころか、基礎的な医療すら受けられない人たちのもとに駆けつけ、支援を行う人たちがいます。

“国境なき医師団”は医療活動だけでなく現地で見聞きした状況を証言し、広く世に訴えることで問題の解決につなげようと取り組み続けています。

コロナ禍のさなか、さらに厳しさを増す活動の最前線を取材しました。
(映像センターカメラマン 川崎敬也)

紛争地でたったひとりの外科医

長引く紛争と混乱によって全国民のおよそ3分の1が住む家を追われているといわれるアフリカの南スーダン。
北部のベンティウには9万7000人が身を寄せる国内最大の避難民キャンプがあります。

中野悠平さん(34)は、ここで外科医として医療支援を行っています。
日中は気温40度を上回る避難民キャンプ。

その片隅にある国境なき医師団の病院には連日、ひっきりなしに患者が運び込まれます。
中野医師
「刺されてけがをした人は毎日のように運ばれてくるし、銃で撃たれた人も来ます。この国では戦争が終わったばかりで、法律も警察も機能していません。そのためいざこざがあっても、やられたら自分でやり返すしかない。その連鎖が、小規模、中規模の紛争を生んでいます」
しかし、ここには外科医にとって「目」ともいえるMRIやCTはもとより、レントゲンすらありません。

頼れるのはエコー、超音波を使った検査機器のみ。

あとは、触診と問診で判断するしかありません。
しかもおよそ10万人の避難民に対して、外科医は中野さんただ1人。

通常は、産婦人科医が行う緊急の出産手術も担当するなど幅広い対応を迫られています。

コロナ禍 厳しさ増す医療現場

劣悪な衛生環境の避難民キャンプでは、マラリアやはしかなどさまざまな感染症がまん延しています。

さらにことしに入ってから、新型コロナウイルスの感染者が急増しました。

専用の病棟を設けて患者を隔離するなど感染拡大を防ぐ対策を講じましたが、それでも、スタッフが濃厚接触者になり、一時、診察や治療ができなくなったこともありました。

厳しさを増す中でも中野さんは、運び込まれてくる患者一人ひとりに向き合い続けていました。
「いまは目の前に助けを必要としている患者がいっぱいいる。“ひとりでも多く家族のもとに帰してあげたい”という気持ちでいっぱいです」

活動のもうひとつの柱「伝える」

国境なき医師団のメンバーは、中野さんのような医師ばかりではありません。

実は、その半数が「非医療スタッフ」です。

そして、医療援助だけでなく、紛争地などでスタッフが見た現実を伝える証言活動をもう一つの大きな柱にしています。
医師団ができたきっかけは、1960年代後半にナイジェリアで起きた紛争です。

2年半にわたる争いで市民には食料も届かず、餓死も含め150万人以上が犠牲になりました。

当時、現地で医療活動にあたっていた医師たちは、一般市民が危機にさらされている実情が全く世界に伝わらないことに葛藤し「自分たちが声を上げ、現地で苦しむ人たちに代わって社会に訴えていかなければ事態の解決につながらない」と考え、国境なき医師団が設立されました。

ビザなどの制約のためメディアがすべての紛争地に入ることができない一方、現地で医療援助を行う団体だからこそ知りうる現実があるといいます。

1999年、ノーベル平和賞を受賞した際、スピーチの冒頭で当時、チェチェンで医師団が目撃した惨状を証言し、ロシアに対して「無防備な市民を襲う爆撃をやめるべきだ」と訴えたことは象徴的です。

医師団の設立からまもなく半世紀。

コロナ禍にあるいまも世界各地では紛争や内戦が続き、難民や避難民の数も去年、過去最多の8000万人を超えました。

紛争がやまない世界で、医師団の証言活動はさらに重要になっています。

伝えたい思い 原動力は

日本国内にいても、現地の状況を伝えることに特別な思いを持つ人がいます。

国境なき医師団日本で日本人初の事務局長となった村田慎二郎さん(44)です。
IT企業の営業職を経験した後、28歳で医師団の一員になった村田さん。

シリア、南スーダン、イエメンなどの紛争地で延べ10年以上、物資の輸送から武装勢力との交渉まで行うなど医療援助活動を支えてきました。

いま、コロナ禍で活動が制限される中でも、紛争などさまざまな危機に直面する人たちの苦しみを少しでも多くの人に知ってもらいたいと、インターネットを通じて現地で見た状況を伝えています。

村田さんはことし2月、高校生向けに開かれたオンライン講演会の中で、内戦で混迷をきわめるシリアで、活動拠点の責任者をしていた時の経験を話しました。

病院や一般市民に対する攻撃が全くやまず、活動できる範囲が日一日と狭められていく中、無力感を抱かずにはいられなかった村田さんは、この仕事を辞めようと思ったことが一度あったといいます。

シリアの将来を悲観し、ある患者に支援の限界について口にしたところ、こう言われました。

「そんなことを言わないでほしい。あなたたちは私たちの希望なのだから」

私たちは現地の人たちからそんな風に思われていたのかと目が覚める思いだったと村田さんはいいます。

そして、その言葉が今もこの仕事を続ける原動力になっていると語りかけました。
これまでのように直接、学校などを訪れての講演活動ができない中で始まったオンラインの講演会ですが、学生や若い社会人を中心に1000人を超える申し込みがあることもありました。

国境なき医師団では予想以上の反響に驚いているといいます。

いま、私たちにできること

ある講演会の終わりにひとりの参加者が「コロナ禍のいま、私たちにできることは何ですか?」と尋ねました。

その問いに、長年、紛争地で活動してきた看護師の白川優子さん(47)は次のように答えました。
「もちろん現場に行って手を差し伸べるのは1つの手段ですが、そのほかにも援助できる方法があるのではないか。人道危機が起きている現場の多くはニュースにもならず注目もされない。まずは現地の人たちを気にかけること。世界のどこで危機が起きているのかを調べて知ること、そこから始まると思う。学校のみんなに話すとか家族に話すとか、それだけでも援助につながっていく」
2010年からシリアや、パレスチナ、南スーダンなどで活動を続けてきた白川看護師。

白川さん自身も医療だけでは現地の人たちを救うことができないというジレンマに思い悩み、一時は看護師を辞めてジャーナリストになろうと思ったことがあるといいます。

しかし、現地の惨状をよく知る看護師だからこそ伝えられることもあると、3年前には自身の経験を一冊の本として出版するなど、看護師を続けながら証言活動にも力を注いでいます。
白川看護師
「いま、コロナ禍で日本でも“医療崩壊”だとか医療にたどり着けないとかそういった問題が出てきました。しかし、それは決して新しいことではなく、私たち国境なき医師団のスタッフは、ずっと世界中で見てきていたことでした。医療が届かないところで暮らさざるをえない人たちがいる。コロナ禍にあるいまだからこそ、そのことがより伝わるのかもしれないと思っています」
「いちばんつらいのは、忘れ去られてしまうこと」

紛争地にいる人たちは、口々にそう語るといいます。

世界で起きていることに関心を持ち続け、決して忘れないこと。

それがいま、私たちがより厳しい環境で暮らす人びとのためにできることなのかもしれません。
映像センターカメラマン
川崎敬也
平成19年入局
沖縄局、国際放送局などを経て現職。
医療的ケア児、沖縄戦、大林宣彦監督などを長期取材。
日航123便墜落事故30年の番組でギャラクシー賞を受賞。