「私の知ってる父だった」 新型コロナ“看取り”の現場

「私の知ってる父だった」 新型コロナ“看取り”の現場
今、新型コロナウイルスの重症者が急増し、命を失うリスクが高まっています。
しかし、亡くなる人のほとんどは、家族に看取(みと)られることはありません。大切な人の最期に立ち会うことができない現実は、家族の心にわだかまりとして残り「死を受け入れられない」と話す人もいます。
私たちが去年から長期取材を続けている病院では、家族が最期を看取れるよう、この春から新たな取り組みを始めました。今回、ひと組の家族の“看取り”の現場の取材が許されました。
(社会番組部ディレクター松井大倫、津田恵香、平瀬梨里子)

1年たった今も受け入れられない兄の死

3月から看取りの取り組みを始めた川崎市にある聖マリアンナ医科大学病院。主に、新型コロナの重症患者を去年2月から受け入れています。

この1年間で309人が入院し、そのうち37人が亡くなっています。(5月19日午前11時時点)

これまでは、感染を防ぐために患者の家族は病室に入ることはできず、そのほとんどが直接対面することなく亡くなっていました。
この男性は、去年5月、この病院で、兄の高木椋太さん(芸名)を亡くしました。

椋太さんは世界で活躍するシャンソン歌手。優しい性格で多くの人に愛されていました。
「残念だけど、コロナにかかってしまったんだ」というメッセージを弟に送ってから、突然重症化した椋太さん。

意識不明の状態で病院に搬送されました。
しかし意識が戻ることはなく、入院から25日目に息を引き取りました。家族は病室に入ることはできませんでした。

家族が椋太さんに会えたのは、納棺が終わった後。感染防止のためビニールに包まれた姿でした。もちろん、直接、椋太さんに触れることはできませんでした。

男性は、いまも兄・椋太さんの死をなかなか受け入れられないといいます。その理由の一つが、兄の最期に立ち会うことができなかったことです。
兄・椋太さんを亡くした男性
「最期に体に触ったりとかっていう中で死を受け入れていく部分があると思うんですよね、でもそういう最期がなかったものですから」
椋太さんは動物が好きで、生前、多くのペットを部屋で飼っていました。

その部屋は、亡くなって1年たった今もほとんど手つかずのままです。
兄・椋太さんを亡くした男性
「やはり死の実感がない部分がありますので、いつ帰ってきてもおかしくない気持ちはどこかにあるんですよね」

きっかけは“人間の命の尊さ”への疑問

聖マリアンナ医科大学病院で、家族の看取りを提案した看護副師長の長屋さんです。

家族を亡くした人たちと接する中で、最期の看取りができないことに多くの人がわだかまりを持っていると感じていました。
さらに、自分たち看護師が、防護服を着てコロナ患者の遺体をビニール袋に包む納棺作業にも、違和感を持ったと言います。
看護副師長 長屋さん
「まるで“物”かのような包み方で最期を送らないといけない。心が追いついていかない。人間の命の尊さっていうのはどこにいってしまったんだろう」
しかし、看取りの実現には越えるべき課題がありました。

第一の課題は、感染へのリスクです。

まず、家族が重症者病棟に来ることで感染する可能性があります。

さらに、家族がウイルスを持ち込み院内感染を引き起こせば、その病棟を閉鎖せざるを得なくなります。
第二の課題は、マンパワーです。

コロナの治療では人手が多くかかります。例えば、人工心肺装置エクモの装着は最低7~8人が必要とされています。

また、腹臥位(ふくがい)といって体位を変える治療では、多いときで10人以上の人手がかかるとされています。

ぎりぎりの状態で治療に当たっているため、看取りのために多くの人手を割く余裕はありません。

“看取り”を実現させたい 病院の覚悟

病院ではこれらの課題を解決するため、半年以上前から医師や看護師が議論を重ねてきました。
看護師「看取りをできる個室がない」
看護師「他の患者がいる中で看取りを行うと他の患者がどう思うか心配」
看護師「泣きじゃくって目もとを触ったり、患者に抱きつくことで感染のおそれがないか」
医師「でも、やっぱり自分の子どもだったら最期は抱きしめてやりたいと思う」
議論の末、以下の条件で実現に踏み切ることにしました。

(感染対策)
▼家族は入室の際に医療者と同じ防護服を着用
▼家族2人につき看護師が1人付き添い着脱をチェック

(マンパワー対策)
▼入室する家族の人数や年齢を制限
▼面会時間は最大で10分まで
看護副師長 長屋さん
「最期に直接看取りができることで残された家族のその後の人生にも影響が出てくる。だから、なんとかして会わせてあげたい」

“会いたい、でも変わり果てた姿を見るのは怖い”

今回、私たちは、この病院で看取りを行った家族の取材を許されました。
田中陽子さん(仮名)です。

1月、母と2人で暮らしていた70代の父親が突然、食欲をなくしました。

検査したところ感染が判明、すぐに入院しました。
ボランティアが大好きで震災の時も車で駆けつけたという、陽子さんにとって自慢の父親でした。

家族はみんな仲がよく、年末に姉の一家と一緒に父親宅で集まったばかり。

父親は喫煙もせず、酒も飲まず、既往歴もなし。健康そのものだったといいます。
しかし、入院から19日目。父親の症状が悪化。

自力で呼吸ができなくなり人工呼吸器を装着することになりました。
自分たちに何かできないかと、陽子さんたちは毎日のようにビデオ通話で意識のない父親に声をかけ続けました。
「もしもしパパ」
「聞こえてないの?おーい」
「頑張って」
入院から30日目、父親は危篤状態に。

陽子さんは、病院から「最期を直接看取りたいか」と聞かれますが、悩んだ末に断りました。
陽子さん
「会いたいって気持ちはあったんですけど、いろいろなチューブをつけてたり、点滴を打ってたりという姿を見たことがないので、会いたい気持ちよりも怖い気持ちのほうが強かった」
せめてできることはないか。陽子さんは、父親が気に入っていた青いシャツと、家族の写真を病室に届けました。

しかし、入院から36日目。父親は息を引き取りました。

“今までどおりの私が知っている父だった”

知らせを受けた陽子さん。母親や姉の一家と病院に来ていました。

父親と最期の対面をしたいという思いからです。
陽子さん
「いま会っておかないと本当に父には会えないと思って、“やっぱり最期もう一度会いたいんですけど”って病院に言ったら承諾してくれた」
陽子さんたち家族は、防護服を身につけ、父親の病室に初めて入りました。

亡くなった後ではありますが、この病院での家族による看取りの最初のケースです。

陽子さんたちは、手袋越しに、父親の顔や手に直接触れます。
母親「あらあら むくんじゃったわね。よく頑張って」
陽子さん「お疲れさん。お母さんとお姉ちゃんは私に任せて」
この時、父親が身につけていたのは、陽子さんが送った青いシャツでした。
陽子さんの日誌
「3ヶ月ぶりくらいに会った父、お気に入りのシャツを着て、髪型もばっちりきまっていた。何より、人生、やりきった顔だった」
陽子さんは、最期に父親を直接看取ることができたことで、死を受け入れることができたといいます。
陽子さん
「すごくきれいにしていただいて今までどおりの私が知っている父だったのと、父も苦しみから解放されたし、これで全部終わったんだというのはありました」
先日、陽子さんから「晴れやかな気持ちで納骨を終えました」と連絡がありました。

最期に直接、父に会えたことが家族にとって、どれほど大きな意味を持つことだったのかと改めて看取りの大切さを実感しました。

感染対策やマンパワーの問題など課題も多く、こうした取り組みはまだ少ないのが現状です。

しかし、病院で長期取材を続ける中、最近では、変異ウイルスで30代や40代の患者が重症化する現実を目の当たりにするようになりました。

コロナによる死は決してひと事ではありません。コロナ患者の看取りについて真剣に議論すべき時が来ていると感じています。
社会番組部ディレクター
松井大倫
1993年入局
去年4月から聖マリアンナ医科大学病院コロナ重症者病棟の取材を続けている
社会番組部ディレクター
津田恵香
2005年入局
去年4月から新型コロナの医療の最前線や後遺症などを取材
社会番組部ディレクター
平瀬梨里子
2015年入局
新型コロナの重症者や後遺症、コロナ犯罪などを取材