75年前、初めて投票した女性たちに聞いてみた

75年前、初めて投票した女性たちに聞いてみた
「各国の議会で女性議員が占める割合、日本は世界で166位」
この春、報じられた残念な調査結果を聞きながら考えました。日本の女性が参政権を獲得し、初めて選挙で投票してからことしで75年。当時と今。何が変わり、何が変わっていないのか。75年前に1票を投じた女性たちに話を聞いてみることにしました。(ラジオセンター 瀬古久美子/社会部記者 松田伸子)

「もう、ことばにはだまされない」もろさわ ようこさん(96)

「実はあまり覚えていないのよ」

初めての投票はさぞ感慨深かっただろうと思いきや、意外な答えが返ってきました。

もろさわ ようこさん、96歳。
昭和21年4月10日、戦後初の総選挙で投票した女性の1人です。

75年前に投票したということは一番若くても今は95歳。
すでに亡くなったり体調を崩したりしている人が少なくない中、過去の地方紙を検索したところ、もろさわさんのインタビュー記事を見つけました。

肩書きは「女性史研究家」とあります。
連絡をとった私たちにもろさわさんは、穏やかながらはっきりとした口調で当時のことを語ってくれました。

「何でも話すから聞いてちょうだい」

初めて投票したときの投票所はどんな様子でしたか?
最初の質問に返ってきたのが冒頭の答えでした。
「その日、仕事を探すために上京することになっていて、お米をリュックいっぱいに詰めて投票所に行きました。当時はお金よりもお米が重宝したので、バスに乗って無事に東京まで行けるかどうかを考えていたのね。投票よりそちらが記憶に残っています」
一方で、投票先を決めるまでの記憶はとても鮮明でした。

自分も戦場で戦いたいと思っていたほどの軍国少女だったというもろさわさん。
終戦後、心に決めていたことがありました。
「『戦争は東洋平和のため』ということばにだまされたのだから、戦後はどんなにことばが素晴らしくても信じないようにしようと決めました。ことばの中身はどうなのか、私にとってどういうものなのか。自分の責任においてどう生きるかというのが、私の戦後の課題になりました。だから村に来る候補者の演説はすべて直接聞いて最初の一票を使ったのです。皆さん立派なことをおっしゃるけれども、どういう生き方をしてきたのかを検証しないと投票できないと思いました。一番印象深かったのは、戦時中は獄中にいて拷問で足が曲がらない方がいらっしゃった。自分の目で見て直に聞いて、この人なら入れようと思いました」
女性が参政権を得て、こんな変化もあったと言います。
「それまでは『おんな子どもは』とか『女のくせに』と言っていた候補者が選挙の時だけは『ご婦人』になるんです。『ご婦人のみなさま方、清き1票を私に』って男性が演説するんです。おもしろいですよね。女性の意見が積極的に反映されるようになったとまではいかないけれど、無視できなくなったのではないでしょうか」
昭和21年4月10日の戦後初の総選挙。
1300万人を超える女性たちが1票を投じました。

当時のニュースでは、もんぺや着物姿の女性たちが各地の投票所に列をなしている様子が伝えられています。

参政権は、明治22年に一定以上の納税をした男性に限って認められ、大正14年に納税額による制限が撤廃されて男性については普通選挙が実現しました。
しかし、女性については大正時代に市川房枝や平塚らいてうを中心に新婦人協会が創立され、参政権を求める運動が進められますが、なかなか認められませんでした。

女性がようやく参政権を得たのは終戦後。
男性の普通選挙実現から20年たっていました。
東京で働き始めたもろさわさんにはその後、思いがけない展開が待っていました。

友人の誘いで市川房枝の自宅を訪ねるようになり、市川が主宰する団体で機関誌の編集者として働くことになったのです。

当時は女性の地位向上の取り組みに特別、思いを持っていたわけではなかったということですが、市川房枝や平塚らいてうなどと交流し、勉強を重ねるうちに女性史研究家として活動するようになりました。
今も書籍の執筆などを行っています。
「母からは『女学校くらい行かないといいところに嫁に行けない』と言われ、お嫁に行くことが女の幸せと言われていたけれど、母親や周りの女性を見ていても全く幸せそうではなかった。精神が輝かない人生は嫌だと思っていました。参政権は先輩たちが苦労して要求して得たものです。世の中は差別だらけですが1票だけは平等なんです。男も女も、総理大臣も私も1票。もったいないですよね、この貴重なものを棄権なんかしたら」

「人生の大きな変換期だった」松谷天星丸さん(98)

女性が初めて投票した昭和21年の総選挙では、女性初の国会議員が39人誕生しました。

この39人は全員亡くなっていますが、8年前、その1人を取材したことがありました。

平和運動に力を尽くした園田天光光(てんこうこう)さんです。
着物を着て凛とした園田さんを前に、緊張したことを覚えています。

園田さんは平成27年に96歳で亡くなりましたが、3歳年下の妹がいたことを思い出しました。

現在98歳の松谷天星丸(てんほしまる)さんです。
小柄な方ですが、姉の園田さんの晩年には2人で暮らし、自分より体格がよかった姉を介護していたと聞いて驚きました。

75年前、松谷さんは23歳。
参政権が認められたとき何を感じていたのでしょうか。
「参政権を得て、女性も男性と同じように権利があるんだと、誇りと、ある種の喜びみたいな気持ちでした。まさに人生の中で大きな変換期、そういう感じがしました」
お姉さんに投票したのか聞くと「もう昔のことで忘れてしまいました」と笑いながら答えました。

もう一つ気になったのが2人の個性的な名前。
名付けたのは両親で、父親は戦前から「男女に差はない」という考えを持っていたそうです。

では女性初の国会議員だった姉、園田天光光さんは、どのような人だったのか。
「私は姉が大好きで尊敬していました。政治家という、当時としては斬新な仕事をする姉に一種の憧憬に近いものがありました。姉が愚痴や人の悪口を言っているのは聞いたことがありません。とても心が強い人だったんです。家では静かで『お姉さまは外でしゃべるから家ではしゃべらないのね』と妹たちとよく話していました」
国会議員になったのはNHKのラジオがきっかけだと言います。
終戦後、ラジオでは多くの人が食糧難で餓死していると伝えられていました。

園田さんは自分の目で確かめたいと上野駅に赴き、その惨状を目にしました。
なんとかしたいと父親に伝えたところ、上野で見てきたことや自分の思いをみんなに話すよう勧められたそうです。
「その当時、街頭演説はまだなかったんですが、姉は新宿駅の西口で演説を始めました。感心して聞いている人、女が何言ってるんだっていう感じの人、とにかくたくさん集まってきました。『顔が見えないから箱の上に乗れ』と言って箱を持って来てくれた人もいました。演説をやるたびに人が増えていったんですよ。そうして餓死防衛同盟という団体ができて、国会にも陳情に行っていました。そうした活動をするうちに周りから強く推されて、姉は衆議院議員選挙に立候補しました。演説中の姉はかなり燃えている感じで力強く発声していました。私たちも一緒に燃えてきて、家族ぐるみで姉を支えていたんです」
松谷さんの話から当時の女性に対する期待感が伝わってきました。

しかし、政治の世界の男女格差は75年前とほぼ変わっていないのが現状です。
衆議院の女性議員は、75年前は39人、全体に占める割合は8.4%でしたが、現在は46人、9.9%です。

世界各国の議員たちでつくるIPU=列国議会同盟によると、各国の議会では女性議員が占める割合が全体で25%を超え過去最高となっている中で、日本の衆議院の女性の比率は193か国中166位となっています。

この現状を松谷さんは、どう見るのか。
「女性にもっと政治に関心を持ってほしいと思います。政治というのは、ただ政治という名前の一本の道があるわけではなく、あらゆる分野から集まってきたものが政治の道につながっています。だから世の中がどんな仕組みになっているかをふだんの生活から認識することが大切ですよね。自分の生活に不満や不安があるのであれば、それをどうしたら是正できるんだろうかと考えれば、自然と政治の道につながっていくのではないでしょうか」
松谷さんの姉の園田さんは憲政史上初めて妊娠、出産した女性国会議員でもあります。

当時、若手議員だった園田直 元外務大臣との恋愛が明らかになり、いわゆる「白亜の恋」として話題にもなりました。

園田さんの後に出産した国会議員はなんと50年後の2000年、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の橋本聖子参議院議員です。
その際に初めて国会議員の産休についても議論されました。

いまも現役の女性国会議員からは妊娠、出産や育児と両立することの難しさを指摘する声があがっています。
国会議員となった姉をサポートしていた松谷さん自身の人生にも転機が訪れます。

10代から20代にかけて病気のため療養生活を余儀なくされていたという松谷さん。
姉が結婚して家を出てから新たな道を探り始めました。

幼いころ母親に読んでもらい心に残っていた「キュリー夫人」のようになりたい、自分も悩まされた病気について学びたいと一念発起して30歳のときに大学の医学部に入学したのです。
「同い年の男性教授のもとで助手として生理学の研究をしていたときは実験に明け暮れ、研究室に寝泊まりしたり終電に乗り遅れてタクシーで帰宅したりすることもありました。研究室の中で一番私の家が遠かったので同僚の医師が同情して『天星丸さんは生理の紅一点。今夜も終電車に乗り遅れ、聖徳太子と泣き別れ。涙でかすむ夜の星』という歌を作ってくれました」
その後、松谷さんは、藤田保健衛生大学の発達生理学部門の教授などを歴任しました。

大学の医学部をめぐっては、3年前、複数の大学が女性や浪人生が不利となる得点操作をするなど不適切な対応をしていたことが明らかになりました。

男女格差をなくし、女性が活躍するためにはどうすればよいのか。
松谷さんは、男性の協力が不可欠だと話します。
「私も長年働いてきましたが、同じ能力があっても男性の方が先に昇格していました。まだまだ男性中心の社会であるように感じます。女性が活躍するためには男性が後押しすることが大事です。男性も目覚めてくれないといけないですよね」

女性たちへのエール

女性史研究家のもろさわさんにも同じ質問を投げかけました。

もろさわさんは男性も役割を押しつけられてきたと指摘します。
「戦時中、女性は男性を戦場に送り出すために働きました。女性が家庭を守っていれば、男性は心おきなく戦場に行けるでしょう。男女差別は男性を戦場に送り込む役割もあったのではないかと思います」
同じような構図は今もあるのではないかと、もろさわさんは続けました。
「資本主義は利潤を追求します。女性は妊娠、出産でフル回転できないときがあります。だから男性をフル回転させるために女性を男性に仕えさせる仕組みがあると私は思います。男女はいくら法的に平等だと言っても生活実態の中では平等でないわけです。働く女性も増えたけれども非正規雇用が多いですよね。女性が妊娠、出産しても平等に働き続けられるようにバックアップする社会を作ることが不可欠だと思います」
こうした中でも、性差別をなくそうと声を上げたり女性の政治参画を進めようと取り組んだりする人も目立つようになっています。

もろさわさんは、最後に今の若い女性たちに向けて、こう話しました。
「男女格差というのは、おんなたちが自分に着せかけられている矛盾を取り払っていくことが必要です。1人では困難だけれども、連帯すると大きなうねりになりますでしょ。今の女性たちの動きに本当に感謝しています。ありがとうって伝えたい」
今回、お話をうかがった2人は75年間、1度も投票を棄権したことがないそうです。

私たちは当たり前のこととして参政権を享受していますが、改めてこの権利の重みについて考えさせられました。

そして、男女格差や差別が残る現状をどうすれば変えていけるのか、私たちも2人からのエールを受け止めて取材を続けたいと思います。
ラジオセンター
瀬古久美子
2005年入局
ジェンダーやマイノリティーを取材
松谷さんの竹のようなしなやかな強さに感銘を受ける
家事は夫と公平に分担

社会部記者
松田伸子
2008年入局
ジェンダーや気候変動問題が主な取材テーマ
もろさわさんに出会い一票がいかに貴重なものか再認識