ワクチン接種 なぜ日本は遅い?【前編】

ワクチン接種 なぜ日本は遅い?【前編】
各国で進む新型コロナウイルスのワクチン接種。人口の半数が接種した国もある一方、日本はまだ全人口の数%です。「日本はどうして遅いの?」誰もが思うこの疑問。接種が進んでいるイギリスの状況と比較しながら日本の現状について取材しました。(取材班)

“自治体任せで混乱”の批判も

一般の高齢者向けのワクチン接種が5月11日から始まった京都市。かかりつけのクリニックに電話などで予約して接種を受ける方式です。

ところが、クリニックには電話が殺到。深夜2時まで電話が鳴る日も。予約のために直接訪れる人も多く、診療開始時間の前に高齢者100人ほどが列をなしたケースもありました。
実は、京都市のホームページに載っている接種可能なクリニックは全体のごく一部。まだワクチンの供給量が少ないことから、かかりつけの患者を優先するクリニックも多く、ホームページへの掲載を断っています。その結果、掲載された一部のクリニックに問い合わせが殺到してしまったのです。

国は去年12月、予防接種法の枠組みでワクチン接種は市区町村が主体となって行うことを決めました。このため自治体ごとに接種の進め方や予約の取り方などは異なっていて、各自治体が手探りで進めているのが現状です。
医師や看護師の確保も課題で、“自治体任せ”との批判も聞かれます。

東京・世田谷区の区長は5月、国に対して、看護師の資格がなくても一定の研修を受けた人は接種を行えるようにするなど規制緩和をしてほしいと呼びかけました。

さらに自治体にとってはワクチンが「いつ」「どのくらい」届くのか、明確な情報が無かったことも悩みの種となってきました。自治体が予約枠を用意しようとしても、こうした情報がないと具体的な準備に取りかかれないのです。

多くの自治体に共通するこうした悩み。
都内のある区の担当者はこう本音を語ります。
東京都内の区の担当者
「高齢者の接種だけでもこの混乱ぶりです。今後、一般接種が始まって対象者がケタ違いに多くなったらいったいどうなるんでしょうか。早い者勝ちで一斉に予約を受けるのではなく、接種券番号の末尾で区切ったり、何らかの対応が必要だと思っています。ただ、きめ細かく対応するとどうしても接種の進みは遅くなります。そのバランスが難しいんです」

“平等”への疑問も

自治体の担当者に同情する声も聞かれました。
複数の専門家がこうした問題が起こる背景として指摘したのは、国による自治体へのワクチンの配布方法です。

政府は、原則として全国の都道府県に平等に配布する方針を決めました。不公平にならず、国民の理解を得やすいようにも思えます。しかし、この考えがデメリットを生んだ面もあると言います。
北里大学 中山哲夫 特任教授
「平等に配布したことで、ひとつの自治体に届くワクチンは少量ずつになりました。手元にワクチンがわずかしかない状況で、自治体は接種業務を進めなければならなくなったのです。これは自治体にとって初めての経験です。ワクチンがいつどれだけ入荷するのか分からないと、医療従事者の確保をはじめ接種体制を整えることが難しくなります」
感染状況が地域によって異なる中、リスクの高い地域を優先すべきだったという意見は他の専門家からも寄せられました。一部の地域を優先すれば平等には反しますが、そのほうが効率的に接種を進められたのではないかという指摘です。

一元的な記録・管理システムがない

さらに別の専門家が強調するのは、自治体任せにならないようにするための、国のシステムが無いことです。

海外では、国が一元的に国民のワクチン接種の記録・管理をするシステムが導入されている国もありますが、日本にはありません。
日本では、自治体が住民票をもとに対象者にクーポンを郵送し、ワクチン接種を希望する人は電話やインターネットを通じて予約をしたうえで接種場所にクーポンを持って出向くという仕組みが取られています。

アメリカでの研究生活が長く現地でワクチン接種に携わったこともある新潟大学の齋藤昭彦教授は、自治体にこうした業務を任せていることが一番の問題だと指摘します。
新潟大学 齋藤昭彦教授
「緊急事態なのに、従来から行われていた風疹の追加接種などとまったく同じことをやっています。国が主導してマイナンバーを使って簡略化するなど工夫をしなければいけなかったのに何も準備できていません」
海外でも国民の接種記録をデジタル化したシステムで管理している国は動き出しが早かったと言われています。こうしたシステムの必要性を訴える声はこれまでも専門家から上がってきましたが、整備は進んでいませんでした。

世界各国の接種状況は

海外とのワクチン接種の進み具合の比較です。

イギリス・オックスフォード大学などのグループが運営しているデータによると、5月11日時点で人口に占める1回目の接種を終えた人の割合は、イスラエルで63%、イギリスで52%、アメリカで46%。
日本は2.91%でした。

このデータが対象としている国・地域のうち131番目となっています。

接種が進んでいる国の一つがイギリスです。イギリスはどのように接種体制を整えたのでしょうか。ロンドン支局の向井支局長が取材しました。

イギリスは去年春から準備

イギリスでは、去年12月からワクチンの接種が始まりました。
ただ、去年春にはすでにワクチンを一部確保するなど準備はすでに始まっていました。そして予想される混乱を避ける取り組みも行われてきました。

まず、イギリスには大規模な接種を進めるのに柱となる組織、体制があります。NHSと呼ばれる公的な医療制度とその組織、そしてかかりつけ医の存在です。

NHSは、国によって運営され、無料で医療を受けられる制度です。組織として医師や看護師など130万人のスタッフを雇用していて、地域にあるかかりつけ医や病院は基本的にはNHSによって運営されています。イギリスに住む人はNHSのもとで、誰もが基本的に、地域のかかりつけ医に登録しています。

今回、ワクチンの確保は国が進める一方、接種の体制作りは主にNHSが担いました。NHSは地域の行政当局や、医師会とも協力して接種会場や人員の確保にあたっています。

去年夏から会場選び

まず接種会場です。

イギリス各地の接種会場は5月6日現在、2800か所以上。
地域の診療所や病院だけでなく、教会や博物館、競馬場やクリケット場まで大小さまざまな施設に設置されています。ウェストミンスター寺院も接種会場になっています。

その接種会場の確保にイギリス政府が動き出したのは去年の夏です。会場の確保に向けて、各地の施設との協議を進めてきたとしています。

地域のかかりつけ医も、地元のネットワークを駆使して動きました。みずから交渉して、地域の人たちに利便性のよい教会や公民館といった場所を確保したケースもあります。

私が取材した教会の接種会場もそのひとつで、教会の担当者は、「ぜひ使ってほしいと思った。地域の人たちが接種を進めるために、少しでも何かしたいと考えた」と話していました。

要員確保へ去年夏から法改正進める

さらにイギリス政府は、接種会場の設置や運営をする要員、そして接種を行う人の確保に向けても早くに動き出していました。

イギリスでは、接種計画を立てる中で、すべての人々に接種を行うには、現在働いている医師や看護師だけでは人材が全く足りなくなると考えました。

このため、要員の確保に向けて去年の夏から法律の改正に取りかかりました。そして10月には、通常であれば接種を行う資格のない人も、一定のトレーニングを受ければ接種を行うことができるようにしたのです。

これによって、医学生や理学療法士、言語療法士、さらには医療に携わった経験のない人まで、ワクチン接種を行えることになったのです。

また、すでに退職した医師や看護師に対し、現場への復帰を呼びかけました。こうした取り組みによって、要員は拡充されました。

医療従事者以外が接種することに対しては、一部に慎重論もありましたが、大きな反対はありませんでした。

ボランティアの存在

接種計画を支えているのが、ボランティアの存在です。
NHSなどの募集に対して、20万人を超える人が応募したということです。

いくつかの接種会場を取材しましたが、どの会場でも、ボランティアの姿が目につきました。若者から高齢者まで、会場案内だけでなく、医療データの入力や医師の監督のもと接種後の見守りまで担当していました。
取材した日は、接種を行うボランティアの女性が、慣れた様子で次々とこなしていました。週に1回か2回、来ているということで「もう数十人は接種した。トレーニングも受けたし、不安はない」と話していました。

現場にいた医師は「ボランティアがいなかったら、この計画を進めるのは無理だ。われわれ医療従事者だけではどうしようもない」と強調します。

大量のボランティアが、「史上最大規模のワクチン接種」と言われる大オペレーションの現場を支えていました。

予約の混乱を回避

会場や要員の確保に向けた早期の準備だけではありません。
イギリスでは予約が殺到することによる混乱をあらかじめ予想し、それを回避する取り組みも行われました。

その一つは接種対象者の細かいグループ分けです。
まず、高齢者や医療従事者を最優先の接種対象とし、初期の段階では、対象となる人を5歳ごとに区切りました。
さらに去年12月の接種開始当初は、かかりつけ医が、対象者に電話やテキスト、メールなどで連絡をとり、直接予約を受け付けました。予約が殺到しないよう、かかりつけ医から連絡があるまで、自分から連絡しないよう呼びかけていました。

その後、接種体制が構築されたこともあって、現在では、対象の年齢であれば、政府の予約サイトで、簡単に予約できるようになっています。
こうしたイギリスの周到な準備。

一方で、こちらで取材をしていると「日本は、どうして接種を進めるのに時間がかかっているのか」という質問をよく受けます。

NHSの存在などそもそも日本とイギリスでは制度が違う部分もあり、多くの場合、説明しても不思議そうな反応を示されます。

日本の半数程度の人口のイギリスで、これまでの感染者は440万人以上、亡くなった人は12万7000人を超えています。身近な人をウイルスの感染で亡くした人も少なくありません。

イギリスにもワクチンの副反応に対する警戒感がないわけではありませんが、現場の医師は「ふだんはインフルエンザのワクチン接種を受けない人も、今回は受ける人が多い」と話していました。

「非常事態だ」という強い危機感がイギリス政府、そして国民のワクチン接種を進める原動力となっています。

日英の開始時期の差は

日本に目を移してみます。

イギリスでは去年12月にファイザー製のワクチンの接種が始まりましたが、日本は遅れること2か月あまり。この差はどこから生じたのでしょうか。

ファイザーが日本での承認申請を行ったのは去年12月。患者などに接種して有効性などを確認する臨床試験は、海外で実施済みでしたが、日本では改めて国内で160人を対象にした追加の臨床試験を行いました。日本人のデータを見極めるためです。この追加の臨床試験の結果がまとまるのを待つ必要があったのです。
厚生労働省の官僚からは必要な手続きだったという声が出ています。
ワクチンに関わる厚生労働省の職員
「国内での臨床試験を省略すれば、もっと早くワクチン接種は進んでいたでしょう。臨床試験をした分だけ、遅れたという面はあります。しかし、当時は世界を広く見ても副反応の情報はまだ十分にわかっていませんでした。急いで承認して接種を始めても、深刻な副反応が予期せぬレベルで相次いでしまったら、元も子もなくなります。国会の議論の結果もありました。少し遅れたとしても国内で臨床試験を行って、世界の様子も見極めたことは正しかったと思います」
ワクチンは健康な人に接種するもの。一般的に承認はとくに慎重に進める必要があります。単純に『海外で認められたワクチンだから、日本でもすぐに承認すべきだ』とはいきません。

一方で、海外の臨床試験にアジア人のデータが十分含まれているのなら、国内の臨床試験を簡素化することも検討すべきではないかという意見もあります。

慎重さと迅速さ。
非常事態の際に、その兼ね合いをどう判断すべきかの議論です。

政府は…

政府は「当初、ワクチンの供給量が限られる中で接種を開始したが、5月以降は供給量の問題は解決しつつあり、今後の接種に向けても大きな懸念はない」としたうえで「各自治体で円滑に接種できるかが課題となっているので国として順調に接種できるよう自治体を支援していきたい」としています。

最大の課題とは…

承認から配布、そして接種まで。
それぞれの段階に課題や背景があることがわかりました。一方、さらに時間をさかのぼって検証すると、もっと大きな課題が見えてきます。

日本のワクチンはなぜ遅れているのか。
後編でもその疑問により深く答えていきます。
科学文化部記者
三谷維摩
2009年入局
徳島局、大阪局などを経て現職
医療分野を担当
社会部記者
黒川あゆみ
2009年入局
熊本局、福岡局を経て現職
主に医療・社会保障分野を取材
社会部記者
高橋歩唯
2014年入局
松山局を経て現職
主に医療・社会保障分野を担当
社会部記者
小林さやか
2007年入局
北九州局、福岡局を経て現職
厚生労働省担当
京都局記者
松原圭佑
2011年入局
富山局、大阪局を経て現職
医療・学術を担当
ロンドン支局長
向井麻里
1998年入局
国際部やシドニー支局を経て現在は英政治や社会問題など担当