「残留孤児」だった おばあちゃん

「残留孤児」だった おばあちゃん
祖母が「残留孤児」だったと聞いたことはありました。ただ、祖母がなぜそう呼ばれているのか、深く考えたことはありませんでした。でも、祖母が初めて話してくれたその生い立ちは、想像をはるかに超えるものでした。(国際部記者 栄久庵耕児)

深く考えてこなかった「残留孤児」

「祖母のことは中国人だと思っていました」

こう話すのは都内に住む佐藤昇さん(31歳)です。昇さんの祖母は中国語しか話せません。子どものころ、祖母が「残留孤児」だったと聞いたことはありましたが、そのことばがどういう意味なのか、考えたことはなかったといいます。だから昇さんは、祖母のことを“中国人”だと思ってきました。
成長するにつれ、祖母が「日本人」だということが理解できるようになると、昇さんは次第に、自身のルーツについても強い関心を持つようになったといいます。そして、中国語を学び、20歳をすぎたころのある日、思い切って祖母に日本に来た理由を聞きました。

祖母は少し驚いたような顔をしていましたが、ゆっくりと自分の生い立ちを話し始めました。その話は、いつも明るく笑顔の絶えない祖母からは想像できないほど、過酷なものでした。そして自分のルーツには日本と中国との間で起きた戦争が深く関係していたこともわかりました。

中国に取り残された少女

祖母・美和子さんは、日中戦争のさなかの1943年、旧満州・現在の中国東北部で日本軍の軍人だった父親と日本人の母親の間に生まれました。
しかし、美和子さんが1歳の時、日本は敗戦。美和子さんの家族を含む大勢の日本人が、船で帰国しようと沿岸部を目指しました。しかし、そこまでの道のりは1000キロ以上。途中、多くの人たちが飢え、寒さ、病気で衰弱。旧ソビエト軍や中国人に殺される人もいました。
美和子さんの母親は、1歳の娘を連れて行くことを断念。美和子さんを中国人の養父母に預けたのち帰国を目指しましたが、栄養失調で命を落としたといいます。こうして美和子さんは1歳で、家族と離ればなれになりました。

ひた隠しにした「日本人」

幼少期、美和子さんは養父母が本当の両親だということを疑ったことはありませんでした。愛情を一身に受けて育ててもらっていたからです。自分は中国人。そのことに何の疑問も持っていませんでした。ところが小学生のころ、近所の子どもに言われたといいます。

「あなたは、日本人なんでしょ」

美和子さんは、言っている意味が理解できませんでした。でも、養母に確認すると、日本人であることが明かされました。当時、中国では戦争相手国だった日本は敵視され、日本人であるというだけでいじめを受けたり、当局に目を付けられたりする恐れがありました。だから美和子さんは、日本人であることを必死で隠したといいます。

でも、どこで知られるのか、突然「日本鬼子」と差別的なことばを投げつけられることもありました。美和子さんと家族は、周囲に広まることを恐れて、引っ越しや転校をしなければなりませんでした。

募る祖国への思い

その後、美和子さんは中国人男性と結婚。4人の子どもにも恵まれ「中国人として」貧しいながらもささやかな幸せを感じることができました。
一方で、自分が「日本人である」ことを知った時から、美和子さんの中に「本当の親は日本にいる。会いたい、日本に帰りたい」という思いが芽生え、徐々に大きくなっていきました。

しかし、日本と中国の間に国交はなく、反日感情が根強く残っている中で、本当の気持ちを口に出すことはできませんでした。

「自分は日本人」
そう言いたくても、子どもたちにさえ話せなかったといいます。

そして、日本へ

戦後30年近くがたったころ、事態が少しずつ動き出します。1972年、日本と中国の国交正常化が実現。その後、美和子さんと同じ境遇の人たちが、生き別れた肉親を探す活動を盛んに行うようになり、こうした人たちの存在は「中国残留孤児」として知られるようになりました。
活動を知った美和子さんは祖国への思いが抑えきれず、日本の大使館に自分の写真や境遇を説明する手紙を出しました。そして、ほどなくして美和子さんの情報が載った新聞記事を父親が見つけてくれたとの知らせが届きます。

1983年12月。美和子さんは祖国の地に初めて降り立ちました。目の前には、もう会えないと半ば諦めていた父親ときょうだいの姿がありました。一目見て血のつながった家族だと確信。美和子さんは子どものように泣きじゃくりながらいつまでも抱きしめていました。
美和子さん
「お父さんの顔を見た時、自分と似ていてとてもうれしかった。血のつながった家族に、本当に会えた。その時の気持ちは、ことばに言い表せないほどよ」

伝えてほしい

美和子さんは帰国後、ことばの壁で苦労しながらも日本で働き、仕事で忙しい長女夫婦に代わって、孫の昇さんの成長も見守ってきました。

そして、その昇さんが、中国語で美和子さんの生い立ちを聞いてきてくれた時も、ことばに言い表せないほどのうれしさがこみ上げてきたといいます。孫の世代に残留孤児たちの経験を伝えてもらえると感じたからです。
美和子さん
「戦争のせいで日本人なのに日本語が話せない。それは、ほかの残留孤児も同じです。孫とコミュニケーションができない孤児がほとんどです。こうしたことも含めて伝えてほしい」

伝えていける

一方の昇さんは祖母の話を聞き、自分自身が「中国残留孤児3世」と呼ばれる存在だと、初めて強く認識しました。

昇さんは子どものころ、祖母が中国語を話し友だちにギョーザをふるまうのを、「恥ずかしい」と思ったことがありました。当時は、「周りと違うルーツ」は、誇れるものではなく、劣等感すら覚えるものでした。
だから、長い間「自分は日本人なのか、中国人なのか」という疑問を抱き続けてきましたが、祖母の話は自分の疑問に答えてくれているような気がしたといいます。

そして昇さんは去年、祖母や自分の体験をもとに残留孤児3世をテーマにした小説を出版。その過程で、昇さんは、これまでに確認された中国残留孤児が2818人いる一方で、半数以上の人たちが今も肉親を探し出せずにいることを知りました。

また、一緒に帰国し、ことばの壁にぶつかった残留孤児2世や、日本で育ちルーツを隠して暮らす残留孤児3世の存在も知りました。戦争に翻弄されたルーツをめぐり、今も悩みを抱えている人たちがいることを、一人でも多くの人に知ってもらいたい。昇さんは、今そう強く思っています。
昇さん
「あと20年、30年で戦争の体験者はいなくなってしまいます。そうなったら誰がそのことを語っていくのでしょうか。祖母たちが経験したことを、僕たちが紡いでいかないといけないと思います」

語り継いでいける

中国に取り残された残留孤児たちが、肉親を探すための訪日調査が始まってから、ことし3月でちょうど40年。日本に帰国したものの、今も肉親を探し続けている人もいます。しかし、残留孤児たちの中には日本語が十分に話せないままの人も多く、加えて高齢化も進んでいて、直接、こうした話を聞くことができる機会も少なくなってきています。

一方で、日本と中国の間に起きた戦争に翻弄された残留孤児たちの経験、記憶は、昇さんのような若い世代に引き継いでいくことはできます。そして、彼らが語り継いでいくことができれば、その経験や記憶は決して風化することはないのだと思います。
国際部記者
栄久庵 耕児
2009年入局
松山局・盛岡局・横浜局を経て現所属
中国の取材を担当