WEB特集

今も昔も、感染リスクの最前線に 引き揚げ港で倒れた看護師

長崎県佐世保市にあるハウステンボスはオランダの町並みに四季折々の花が咲く華やかなテーマパークです。
ことし2月、ここから4キロ離れた静かな港のほとりに74年前に亡くなった女性看護師を弔う慰霊碑が建てられました。なぜ今、建てられたのでしょうか。
(長崎放送局佐世保支局記者 上原聡太)

テーマパークがある場所 70年以上前は

現在のハウステンボス(長崎 佐世保)
終戦直後の引き揚げ者の宿舎
上の写真は現在のハウステンボスの様子で、下は終戦直後、70年以上前の同じ場所です。
旧厚生省佐世保引揚援護局が置かれ海外からの引き揚げ者を受け入れる宿舎だったのです。
浦頭港の引き揚げの様子
引き揚げ者は宿舎にたどりつくのに先立って北西に4キロ離れた浦頭港で祖国の地を踏みました。

浦頭港の引き揚げ者は1945年から5年間に139万人にのぼります。
日本の引き揚げ者全体629万人の22%です。
この中には旧満州で生まれた歌手の加藤登紀子さんや漫画家の故赤塚不二夫さん、俳優の故森繁久弥さんもいます。

22歳で亡くなった看護師

浦頭港のほとりにことし2月、真新しい慰霊碑が建てられました。
慰霊碑には22歳で亡くなった看護師、井手八重子さんの名前が刻まれています。
八重子さんが亡くなったのは74年前、引き揚げ者が押し寄せていた昭和22年です。
翌3月に営まれた法要には八重子さんの弟の井手栄三さん(79)が涙ながらに語る姿がありました。
井手八重子さんの弟の井手栄三さん
井手さん
「八重子姉さん、本当に申し訳ありません。早く訪れるべきでしたが、今まで遅れてしまいました。これからは慰霊碑を姉だと思って寄り添っていきます」

きっかけは

看護師時代の井手八重子さん(左)
なぜ没後74年たって慰霊碑は建てられたのでしょうか。
きっかけは去年6月のことでした。
栄三さんが長崎市の自宅を整理していたところ、ナースキャップをかぶった姉の八重子さんの写真を見つけたのです。
栄三さんは9人兄弟の7番目、八重子さんは1番年上の長女でした。
自分が5歳のとき、まだ22歳だった姉はなぜ亡くなったのか、栄三さんは親や兄弟から一切話を聞いたことはありません。
姉の写真を発見し、強い疑問が湧いたと言います。
井手栄三さん
「姉がどういう人柄だったのか、どこで亡くなったのかが全く分かりませんでした。少しでも姉の実像を知りたいという気持ちになりました」
栄三さんが問い合わせた先は日本赤十字社長崎県支部でした。
写真で八重子さんがかぶっていたナースキャップが赤十字のものだったからです。
すると日本赤十字社長崎県支部の資料室からは栄三さんが驚くような資料が次々に見つかりました。
「昭和二十年十二月十三日 臨時救護班要員トシテ(佐世保市浦頭)日赤長崎支部臨時救護所ヘ派遣ス」
八重子さんに関する保管資料
終戦直後の名簿は八重子さんが終戦の年の暮れに引き揚げ者が押し寄せていた浦頭港に設置された検疫所の救護班に派遣されていたと記録していました。
「救護看護婦 井手八重子 昭和二十一年十一月二十一日腸チブスニテ入院加療ノ効ナク 昭和二十二年一月一二日遂ニ死亡ス」
八重子さんが所属していた救護班の業務報告書
八重子さんが所属していた「救護班」の業務報告書は八重子さんが検疫所で働き始めておよそ1年後、感染症の腸チフスにかかり、感染からおよそ2か月後に亡くなったとつづられていました。
八重子さんの弟 井手栄三さん
井手栄三さん
「まさか浦頭で感染症で亡くなっていたとは予想もしていなかったので驚きました。亡くなったことが新聞に載らず人知れずに死んでいき、姉はさぞかし無念だったと思います」

引き揚げ者とともに押し寄せた感染症

当時の検疫所や引き揚げの状況はどのようなものだったのでしょうか。

まず八重子さんがいた浦頭は、昭和21年の1年間に93万人の引き揚げ者を受け入れ対応に追われていました。
引き揚げ者の受け入れ増加とともにコレラ、チフス、マラリア、天然痘の感染症が相次いで流行したことが郷土史などに記録されています。
当時の検疫の様子
八重子さんが浦頭に来た半年後にはコレラ患者が続出し「コレラ対策本部」も設置されています。
最もひどい時期は1か月にコレラで148人が死亡しました。
感染症流行の一因は東南アジア、中国南方で不衛生な収容所などで集団生活を強いられた引き揚げ者がいたためと指摘されています。
検疫所で使われていた検便棒(ガラス製)
これに対し日本を占領統治していたGHQ=連合国軍総司令部は感染症の国内流入を水際で防ぐため、厳格な検疫を実施するよう日本政府に厳命していました。
GHQの公衆衛生福祉局長だった軍医のクロフォード・F・サムス氏は回想録で引き揚げ者と感染症の関係を語っています。
クロフォード・F・サムス氏
「世界中から日本に戻ってきた人は港に上陸し、国内に分散していった。田舎へ疎開していた人は都会の家に戻ろうとした。焼けつくされた都市に残った人は食物を求めて田舎へ出かけた。このような状況下では伝染病が野火のように広がることが予想された。懸念された伝染病は実際に発生し、1945年8月にわれわれが到着したときにはすでに急速に広がりつつあった」

検疫所の過酷な環境

戦後の混乱期に、GHQに厳命された引き揚げ港での検疫強化。
当時の医療従事者は過酷な勤務を強いられていました。

八重子さんのいた浦頭検疫所は「1日に1万9000人の引き揚げ者の検疫を行った」とか「コレラ検疫で多忙を極めた」という記録が残されています。
そして発見された感染者の患者対応などにあたっていたのが八重子さんの所属した救護班の仕事です。

八重子さんの救護班の厳しい環境は次のように記されています。
八重子さんが所属していた救護班の業務報告書
「常時食糧事情 最モ悪ク加フルニ 勤務モ加重ニシテ空腹ヲ訴ヘ 班全員栄養失調症状トナリタル」
(=いつも食糧事情が最悪な状況で、激務を強いられ空腹を訴えるなか、救護班の看護師たち全員は栄養失調の状態だった)
「看護婦ノ現勤務ハ実ニ不眠不休寸時ノ休息モ與ヘル能ハズ 健康状態ヲ憂慮ス」(=看護婦の勤務は不眠不休で、わずかの休みを与えることができず、健康状態が憂慮されていた)
感染症史に詳しい長崎大学熱帯医学研究所の山本太郎教授は戦後の混乱のなか、設置された検疫所は薬や医療機器が欠乏し、感染者を隔離する程度の対応しかできなかっただろうと指摘します。
長崎大学 山本太郎教授
山本教授
「終戦後の日本の人口の1割近い人が世界各地から引き揚げるのは世界史に類を見ない規模で引き揚げ港の公衆衛生対策は大規模なオペレーションだったと思います。また、引き揚げ用の船内は『3密』で感染が広がっていたと思います。当時は抗生物質がなかったので患者は隔離するしかなく、医療従事者はみずからの感染リスクも背負いながらの献身的な仕事だったと思います」

「本当に優しい看護師でした」

井手栄三さんは去年6月、日本赤十字社長崎県支部の保管資料を通じてかつて姉の身に何が起きたのかを知りその後も、生前の姉を知る人がいないか、探し続けていました。
その結果、ことし3月、八重子さんの同僚女性にめぐり会うことができました。
八重子さんの同僚だった米倉百合子さん(左)と井手栄三さん
長崎市の米倉百合子さん、96歳です。
八重子さんの2歳年上で高校時代からの友人で同じ大阪の看護学校を卒業し、浦頭で同じ救護班に配属されていました。
八重子さんがどんな人柄でどのように腸チフスに感染したのか。
米倉さんは当時の記憶をたどり、考えを聞かせてくれました。
米倉百合子さん
米倉さん
「検疫所のお昼の休憩時間に八重子さんと一緒に座っていたことを一番思い出します。八重子さんはキャキャと笑っていました。本当に優しい看護師でした。一生懸命、丁寧に看病し、人一倍、患者に接していたので感染してしまったのだと思います」
井手栄三さん
「姉は人のために少しでも働きたい、助けてあげたいという気持ちを持っていたのだと思いました。生前のエピソードを聞き、姉の優しい性格を知り、安心しました」

いつの時代も一生懸命な医療従事者

八重子さんは引き揚げ検疫所で感染症と闘った末に亡くなりました。
八重子さんが描いた理想の看護師像
それから74年後の今、新型コロナウイルスが全国に再拡大し、医療従事者は厳しい勤務を強いられ、感染リスクの最前線にいます。
八重子さんの弟 井手栄三さん
井手さん
「新型コロナウイルスに医療従事者の方々は本当に一生懸命に取り組んでいると思います。そして自分の姉も、昔、全く同じ使命感を持って取り組んでいたことを知ってもらいたいです」
山本教授
「八重子さんという1人の医療従事者の物語は歴史の見方を大きく変えることがあり、名も無き人の献身的な行為は意義深いことです。歴史上にあった献身的な医療行為を1つずつ見つけ出して記憶することは、現代社会にとって極めて重要です」
ニュースでは第4波の感染拡大で感染者数や死者数が連日、大きく伝えられています。
どうしても日々の「数字」に目を奪われがちです。
しかし、いつの時代にも感染症の最前線で命懸けで奮闘してくれている医療従事者がいることも決して忘れてはいけない、もっと想像力を働かせねばならないという思いを取材を通じて強くしました。
長崎放送局
佐世保支局記者
上原 聡太
平成30年入局
長崎局で警察担当を経て
現所属

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