聖火は再び東京にともるのか 1964年の記憶

聖火は再び東京にともるのか 1964年の記憶
東京オリンピックの聖火リレーが、日本国内を回り始めました。新型コロナウイルスの感染収束が見通せない中、東京大会、そして聖火リレーにも賛否の声が上がっています。

1964年にアジアで初めて開かれた、前回の東京大会。ギリシャのオリンピアで採火された聖火は、実は海外の12都市を経由して日本に運ばれました。
第2次世界大戦から19年。これらの多くの都市は、激動のさなかにありました。日本につないだ「聖火」は、どのような意味を持っていたのか。かつてのランナーたちが、当時の記憶をきのうのことのように鮮やかに語ってくれました。
(ニューデリー支局・森下晶、国際放送局・古俣モシェ、香港支局・若槻真知、国際部・高田和加子)

インドにもたらした「希望」

1964年の聖火を2回、間近で見たのはインドのトリロック・シンさん(87)。1回目は8月のニューデリーで、そして2回目は10月の東京でした。
軍人だったシンさんは、多くのスポーツ競技で好成績を残し、体操のインド代表として東京大会への出場が決定。

ただ、その道のりは平たんではありませんでした。原因は、貧困と近隣国との紛争です。

インドは1947年にイギリスから独立しましたが、深刻な貧困と食料不足が続き、スポーツに振り分ける予算が限られていました。

シンさんは東京大会の4年前、1960年ローマ大会の体操競技に出場する予定でしたが、政府が派遣費用を削減したため、かないませんでした。

31歳となる東京大会は、何としても出場する。そんなシンさんの決意をくじいたのが、1962年に起きた中国との国境紛争でした。激しい戦闘で、2000人以上が命を失いました。
シンさん
「紛争の間、本当に心配でした。何が起きてもおかしくない状況で、希望が全然見えなかった」
紛争は1か月ほどで落ち着きましたが、国境では緊張が続きました。ついに東京大会への出場が決まったとき、シンさんの喜びはひとしおでした。
シンさん
「すばらしい気分で、本当にうれしかった」
そして、1964年8月。あふれんばかりの人と鳴りやまない拍手の中、50人以上のランナーが聖火を手にニューデリーの街を駆け抜けました。その1人に、シンさんも選ばれたのです。
沿道の大観衆の声援を受けながら、シンさんは「今度こそ、オリンピックに出場できるんだ」と実感したと言います。
シンさん
「トーチを見たときは圧倒された。聖火を東京まで届ける力になることができ、とてもうれしかった。東京で再びこの聖火を見られると思うと、興奮した」
東京大会で、シンさんは8種目に出場。メダル獲得はなりませんでしたが、その後コーチとして次の世代にみずからの経験を伝えてきました。

フィリピンでは「和解」のきっかけに

聖火は各都市で歓迎されましたが、フィリピンでは様子が異なりました。

太平洋戦争末期、首都マニラでは日本と連合国軍による市街戦が繰り広げられ、1か月間で10万人以上の市民が犠牲になったとされています。
市内にはまだ破壊の跡が残り、多くの人が厳しい対日感情を抱く中、聖火リレーの開催は一般にほとんど知らされませんでした。

通訳として日本の聖火空輸派遣団に参加した久野明子さん(81)は、現地の独特な空気を感じたと言います。
久野さん
「それまで行く先々、アジアで初めてオリンピックが開かれるということにすごい熱気を感じたが、フィリピンだけは違和感があった。沿道の人がすごく少なくて、暗黙の抵抗のように思えた」
当時、大学の陸上選手だったアントニオ・クエッケンさん(76)は、18人のランナーの1人でした。
事前のリハーサルなどはなく、どこを走るのかも直前まで知らされませんでした。

当日は空港とスタジアムを結ぶ大通りで車を下ろされ、不安な気持ちで前のランナーを待っていたと振り返ります。
クエッケンさん
「人々は、トーチを持って1人で座っている私をじろじろと見て『何をしているのだろう』と、不思議そうだった」
しばらくすると、サイレンが聞こえ、車列に囲まれた聖火ランナーが見えてきました。
クエッケンさん
「興奮し、少し緊張しました。ただ、聖火を受け取ったら頭が真っ白になった。とにかく走り抜き、次のランナーに渡す。それだけを考えて走りました」
1キロを3分で走る任務を全うしたクエッケンさん。このとき着た、日の丸が胸に入ったユニフォームを、その後も大学の練習などで身に着けましたが、周りからとがめられることはなかったと言います。
広く話題に上ることはなかったものの、両国の関係を癒やすきっかけとなった聖火リレーに参加できたことを、いまでも誇りに感じています。
クエッケンさん
「日本に苦しめられた国々との和解を促したという意味で、アジアでの聖火リレーはその目的を達成したと思う。平和の実現に向け、日本の準備ができたことを示すものだった」

「自然の脅威」に立ち向かった香港

聖火は続いて、イギリスの植民地だった香港に到着。

聖火を乗せた船がビクトリア湾を横切ると、たくさんの漁船があとを追いました。

去年、取材に応じてくれたウィリアム・ヒルさんは、陸上短距離の香港代表として、東京大会への出場が決まっていた高校生でした。15人のランナーたちは、念入りに準備をしたと言います。
ヒルさん
「トーチの代わりに棒を使って、聖火を受け渡す練習をした」
しかし、自然の脅威が迫っていました。台風17号(アジア名「ルビー」)です。

リレー当日、聖火を受け取ったヒルさんは、走りながら風がどんどん強くなるのを感じました。
ヒルさん
「心臓がどきどきした。最後まで走りきれないのではないか、とても心配した」
「次のランナーに聖火を引き継いだときはほっとした。香港の聖火ランナーたちは皆、最高のリレーをするために全力を出し切った」
香港ではこの台風の直撃で、38人が死亡。次の目的地に聖火を運ぶ飛行機も損傷し、出発が1日遅れる事態となりました。

地元の新聞によると、聖火をともした器がオークションにかけられ、売り上げが犠牲者の支援にあてられました。

香港では、2008年の北京大会に先立って聖火リレーが再び行われました。
しかし、中国の人権問題への抗議活動を警戒し、3000人の警察官が配置されるなど、ランナーたちはものものしい雰囲気の中で走りました。

ヒルさんは、延期された今回の東京大会を見届けることなく去年7月、75歳で亡くなりました。生前、私たちの取材に、こんなことばを残してくれました。
ヒルさん
「1964年は、人々が純粋にその光景を楽しむ、最高のリレーでした。東京大会は模範となるような大会で、忘れられない思い出です」
「次の東京大会も、前回と同じぐらいすばらしいものになることを願っています」

「存在を世界にアピール」した台湾

聖火が沖縄に渡る前、最後の中継地点は台湾でした。

かつて中国共産党との内戦に敗れた国民党政権が統治する台湾では、聖火リレーは台湾の存在を世界にアピールする絶好の機会だと捉えられていました。

大学生などのアスリートから、背格好の良い26人が選抜。その1人、韓継綏(かん・けいすい)さん(80)は、誇らしげに話します。
韓さん
「リレーは世界中で放送される予定だった。トーチを適当につかむと、見栄えが悪くなる。疲れていると、怠けているように見える。手と腕を一定の角度に保ち、しっかりと握らなければならなかった。ほかのオリンピックの聖火リレーを見たが、私たちほど一生懸命練習した人はいなかったと思う」
リレー当日。沿道はまさに「人の海」で、至る所で爆竹の音が響き渡っていたと、韓さんは振り返ります。
韓さん
「あんな熱狂、見たことがない。聖火がどんなものか、みんな見たがっていて、ほとんど前に進めなかった。それでも自然で格好よく見えるよう、姿勢を保った」
その後、教員になった韓さん。多くの人たちの期待に応え、聖火ランナーを務め上げた経験が、人生の力の源になってきたと語ります。
韓さん
「生徒たちの手本になる上で、かつて聖火ランナーとして一生懸命走り、責任を全うしたことが、前向きなエネルギーを与えてくれた」
1970年代以降、世界の多くの国が中国と国交を結び、台湾とは外交関係を断ちました。

こうした状況が続くかぎり、聖火が台湾を再び通る可能性は低いと話す韓さん。

当時の思い出は、ユニフォームやトーチとともに、心に大切に抱いています。
韓さん
「しっかり走らなければ、祖先、家族、友人の名声を踏みにじることになっていた。私たちは自分のためではなく、台湾のために走ったんです」

聖火は再びともるのか

アジアの人たちがさまざまな思いでつないだ聖火リレーから、57年。

東京大会に向けて再び回り始めた聖火を、いまどのような思いで見ているのか。今回、取材に応じてくれたかつてのランナーたちに聞きました。
「安全に実施できると、日本が自信を持つことが大事だ」

「世界が1つになれる貴重な機会だから、希望は捨てないでほしい」

「57年前に走った私たちと比べるのが楽しみです。称賛に値する走りを見せてくれると確信しています」
7月23日、新国立競技場での開会式で、東京に聖火は再びともるのか。

その熱さや重さを、誰よりも近くで感じたかつてのランナーたちは、熱い視線を送っています。
ニューデリー支局
カメラマン
森下晶
国際放送局ディレクター
古俣モシェ
香港支局長
若槻真知
国際部記者
高田和加子