日本初のワクチン輸送 舞台裏に迫る

日本初のワクチン輸送 舞台裏に迫る
「こんな仕事ができるというのは会社人生の中で、貨物マン人生の中でないです」
現在、ファイザー社の新型コロナウイルスワクチンの日本への輸送を一手に担う、社長の言葉だ。
どこの国の空港を出て、国内のどの空港に着くのか、それがいつなのか、当初、明らかになっていなかった極秘の輸送プロジェクト。
取材をしていた私たちは、ことし2月、ある情報をキャッチし、日本中の多くの人が期待するワクチンの到着を伝えることができた。
初便の到着からおよそ2か月、これまで口を閉ざしていた関係者への取材で輸送の舞台裏が見えてきた。
(社会部記者 山田沙耶花、千葉放送局成田支局記者 山下哲平)
冒頭の言葉を述べたのは、全日空グループで貨物輸送を担うANA Cargoの社長、外山俊明さん(60歳)。外山社長は大手物流会社から転職して30年、主に貨物畑を歩んできた。

先日、私たちに日本初の新型コロナウイルスワクチンの輸送の舞台裏を明かした。
外山社長
「そもそも前例のない輸送です。当初は、どの国の製薬会社がワクチンの開発をするのかまったくわからないし、日本政府が購入することすらわかっていなかった。誰が輸送を発注するのか、何もかもわからないなかで情報収集を始めました」

影も形もないワクチンの情報収集

外山社長がワクチン輸送の受注に向けて動いたのは、今から1年近く前の去年5月。

今後の航空貨物の成長分野として、医薬品や医療物品に注目していて、マーケティングチームにひそかに指示を出したというのだ。

当時、海外では都市封鎖(ロックダウン)、国内では最初の緊急事態宣言が出され、空港、特に国際線のターミナルから人の姿が消えた。

かつてない需要の落ち込みに見舞われた航空業界は、社員の一時帰休や夏の一時金減額など、厳しい状況に追い込まれていく。
世界のワクチン開発は始まったばかりで、指示を受けたマーケティングチームの今岡和哉さん(35歳)は、どこの国の製薬会社が、いつどんなワクチンを開発するか全く見えない中、雲をつかむような営業活動に挑むことになった。
今岡さん
「当時はマスクの輸入のように国が主導するのかと思い、厚労省に聞いたら、輸入の手段に国は関与しないと言われました。ワクチンが国産になるのか輸入されるのかも全くわからないし、ワクチンの量がどのくらいになるのか、必要な人の分だけなのか、日本にいる人全員の分なのかもわからない。輸送に飛行機でなく船を使うのかもしれない。何もかもがわからないづくしのなかで、スタートしました」
今岡さんたちは、インフルエンザのワクチンなど一般的なワクチンがどこの国からどれだけの量が来ているのか、財務省の貿易統計などで調べる作業から始めることにした。

次第に、多くのワクチンが海外から輸入され、主にベルギーに製造拠点が集まっているということ、2℃から8℃前後の温度帯で輸送されていることがわかってきたという。

手探りで情報収集をはじめてから4か月が過ぎた去年9月、今岡さんたちは、ついにファイザー社が開発している新型コロナウイルスワクチンの輸送契約の条件を聞き出すことができた。
当時の今岡さんのノートには条件の一つ、輸送の温度帯が記されている。

それはマイナス70度。下調べで知ったこれまでのワクチンの輸送温度とはかけ離れた温度だった。

さらにそれを実現するためのドライアイスの量も知ることができた。

9月の段階で情報を得ることができたことが、その後生きることになった。

これまでのルールにとらわれるな

ドライアイスの量は大量だった。実は、航空機にドライアイスを搭載できる量は各社とも社内規定で厳しく制限している。

ドライアイスは、二酸化炭素を固めたもので、溶けると体積が750倍にふくらみ、密閉すると破裂するおそれがあるほか、二酸化炭素中毒を引き起こすおそれがあるからだ。
今岡さん
「はじめはこれまでの社内規定で考えたので、一回に運べるのは少しだけになります。ですから日本中にワクチンを届けるということを思うと、いったい何機必要なんだろう。とにかくたくさんの量の機材が必要になると思いました」
国は、ファイザー社が開発に成功した場合6000万人分の供給を受けることで合意していた。規定に基づいて計算したら、ワクチン輸送に必要な便数は800便前後にもなった。

多くの人がワクチンを待ち望み、一刻も早く届けなければならない状況で、これでは時間もコストもかかり現実的ではない。この課題をクリアしなければ受注できる見込みも立たない。

今岡さんたちは、ただちにドライアイスの搭載量を制限する社内規定の例外を作るために動きだした。

安全に関わる規定を緩和する方向で調整することは異例のことだ。規定を変えるには、国土交通省への届け出が必要となる。

メーカー、海外の航空会社の情報を集め、本社の安全や運航の部門との協議を重ね、シミュレーションをして、3か月かけて規定に追記した。

テスト輸送を行って、ドライアイスの入った箱の重さを測定して、二酸化炭素がどれだけ溶けたかを導き出し、問題ないことを確認したのは12月。受注契約は12月に結ばれたのでまさにぎりぎり間に合った形だ。

復便とダイヤの変更 そのねらいは

ドライアイスの社内規定の例外作りを進めるのと同時並行で、今岡さんたちは受注のため別の手も打った。

コロナで旅客が激減し、運休していたベルギーのブリュッセル空港と成田空港を結ぶ便の復便を本社に掛け合い、10月に再開させたのだ。

ワクチンが運び出されると予想される空港で、航空機の誘導や整備、貨物の積み込みなどを行う地上スタッフが稼働していることは、信用につながり、受注に結びつくと考えたからだ。
外山社長
「ワクチンの製造拠点がある国の空港をピックアップして、その路線を比較的早めに復便させていく方針にしました。定期便があれば、輸送に関わる業者との連携が深まります。そうすることで不測の事態にも対処できるようになり、お客様の信頼を得られます。きっとここからワクチンが出るはずという一種の賭けですが、こういうような伏線も張っていたということです」
さらに日本への到着時間を午後4時15分から午前10時25分にダイヤを変更することにした。

ダイヤの変更は複数の便に影響が出るたいへんな調整だが、到着した当日にワクチンをより遠くに運べるようにするためだった。

今岡さんたちは、いち早い情報入手と、これまでのルールにとらわれない柔軟な発想で、なんとかファイザー社の輸送代理店と契約に至った。
今岡さん
「今、旅客部門などで多くの社員が一時帰休を取り、厳しい状況が続いています。先がなかなか見えない中、転職していった、働き盛りの同僚もいました。彼らのためにもこの輸送をしっかりやり遂げたい。自分たちの手で運んだワクチンが、コロナ以前の生活を取り戻し、航空業界を救う救世主になってほしいと思います」

さらなる時間短縮の要望

契約を取り付けたあとも超低温のワクチン輸送に向けてさらなる要望が突きつけられた。

空港に到着して、国内の輸送を担当する業者に引き渡すまでの時間を通常の120分から40分にしてほしいという要望だった。

80分の短縮に挑んだのは、地上で貨物の搬送などを行うグランドハンドリング、通称“グラハン”をとりまとめる南埜直樹さん(40歳)だ。

南埜さんは、世界的な美術品など特殊な貨物を取り扱ってきた経験豊富な“匠”と呼ばれるグラハンと、ワクチンを最短時間で運ぶための検討を行った。

異例のスポット変更

匠のアドバイスでまず行ったのは、スポットと呼ばれる駐機する場所の変更だ。

駐機場では、多くの航空機やけん引車両などが行き交うため、そのたびに停車することを考慮すると、倉庫までの移動時間はスポットの場所によって大きく変わる。

新型コロナウイルスワクチンということで、スポットを管理する空港会社にかけあい、倉庫に最も近いスポットに調整できた。

割り当てられたスポットを変更するのは異例のことだったが、調整を進めたことでまず20分短縮できた。
南埜さん
「絶対に失敗できない輸送においてこの20分が大きな課題だった。多くの人が待ち望むワクチンですし、時間短縮がどれほど大切なことかという点を関係各所に説明してこれまでにない対応を進めました」

スペシャルチームの編成

さらに荷物の運び方も変えた。

荷物をすべて下ろしてまとめて運ぶ通常の運び方ではなく、ワクチンだけ先に運び出すことにしたのだ。

そのためにスペシャルチームを編成、メンバーは匠たちだ。

振動を極力避ける速度で最短距離を移動し、倉庫内ではすばやく荷ほどきをして、トラックへ移す。

夏場の駐機場の路面温度が50度を超えることもあり、移動の途中のトラブルで動けなくなれば、ワクチンを期待する多くの人に届かなくなるおそれがある。

ワクチンの代わりに生理食塩水とドライアイスを入れた仮想の貨物で、テスト輸送も行った。
南埜さんのノートにはテスト輸送の様子が記されている。テストはクリスマスに行われていた。

ノートには、貨物室のドアが開くまでが1分、搬送開始までが9分、倉庫で貨物の荷解きが終わるまでが20分などと、航空機の到着からそれぞれの作業が完了するまでの時間が分単位で記録されている。

短縮できる部分がないか検証し、検討を重ねた結果、さらに60分短縮し、要望どおり通常の120分から3分の1の40分にすることができた。
南埜さん
「実際の航空機でテストして、通常の貨物ならば120分かかるところを40分に短縮できるめどがたった。自信をもってワクチンの輸送当日を迎えることができました。航空会社としてもお客様に乗っていただけない未曽有の事態が続いています。仕事に影響が出ている仲間たちのためにも頑張りたいという思いがありました」

初便、そして今

ことし2月、私たちがキャッチしたのは、ブリュッセル便が倉庫近くのスポットにとまるという情報だ。日本初のワクチンがいよいよやってくると確信した瞬間だった。

その後、便を重ね、輸送されるワクチンの量も少しずつ増え、ようやく「高齢者への優先接種」が始まろうとしている。

先行きが見通せない中で、黙々と行われているワクチン輸送。外山社長は、厳しい状況だからこそ、挑戦し続けなければならないと強調する。
外山社長
「私たちにはサプライチェーンを守るという社会的使命があります。当然のことながら全員がそれを理解しています。それは日本のワクチンは日本の航空会社が責任を持って運ぶということです。過去にも東日本大震災やその前のSARSのときなどさまざまな災害や危機的な状況があり、こういうときは、実は航空会社の出番で、人を運ぶより先に救援物資を運んできました。そのたびごとに、さまざまな困難があり、挑戦してきました。このプロジェクトにかかる通常じゃないパワーのかけ方までを計算すると、そんなに大きい利益じゃないかもしれないですけど、得るものは大きいと思います」
私たちは新型コロナ以前は、インバウンド需要の増加などで右肩上がりだった航空業界の取材を続けてきた。

前年を上回り続ける繁忙期の予約動向、グラハンの人手不足、世界最大級の旅客機のハワイ路線への投入。しかし、その航空需要が突如、新型コロナウイルスで蒸発するのを目の当たりにした。

感染拡大後、ウイルス検査を行う空港の検疫所や利用客の姿がまばらな閑散としたロビーや、休業を余儀なくされ、職を失った航空業界の人たちの取材をする機会が増えた。

以前からは想像もつかない、苦しむ人や苦境に立たされた業界についての記事を何本も書いた。

そんな中で聞いた、新型コロナウイルスのワクチンを自分たちの手で運び、日本の状況を少しでも変えたいと挑んでいる思い。

航空業界にとって大きな転換点を航空担当記者としてこれからも記録していきたい。
社会部記者
山田沙耶花
平成22年入局
国土交通省や羽田空港で
航空問題を取材
千葉放送局記者
山下哲平
平成25年入局
初任地は北九州局
現在は成田支局で
空港などを取材