“孤独の檻”にいた僕は…

“孤独の檻”にいた僕は…
「どうせ自分なんて邪魔者なんだ、と思っていたのかもしれません」

中学時代から長年、ひきこもり生活を続けてきた青年のことばです。

さぼろうとしていたわけでも学校が嫌いなわけでもなく、ただ“檻”の中で1人、もがいていたんです。心に孤独を抱えて。

(盛岡放送局記者 市毛裕史)

甘えん坊

「ひきこもりの声を聞いてほしいんです」

浅田太一さん(19)は笑顔がとてもさわやかな青年でした。
ひきこもりだったとは聞いていたけれど、いったいどんな人なんだろう。

彼の生い立ちから尋ねることにしました。
シングルマザーとして保険会社で働いていた母の千賀子さんと姉、妹2人の女性4人に囲まれ、甘えん坊として育った太一さん。
特に千賀子さんにはべったりだったといいます。

誕生日には好きなアニメのキャラクターのケーキを手作りしてくれる優しいお母さんだったそうです。
浅田太一さん
「僕はいつもお母さんにくっついて、親戚からは太一はマザコンだって言われてました」

あの日…

2011年3月11日。岩手県大槌町。

小学3年生の太一さんは感じたことのない揺れのあと、高台の高校に逃げました。
体育館で避難生活を送りながら大好きなお母さんが迎えに来るのを、ずっとずっと待っていました。

「落ち着くまでは会えないのかなって。さすがに生きてると思っていて、悪いことは一切考えていなかった」
しかし、その願いはかないませんでした。

1か月後、千賀子さんが遺体で見つかったと知らされたのです。

毎日、一緒にいるのが当たり前だったのに、死んでしまったなんて。

最初は信じられなかったといいます。

遺体安置所で再会できたのは、いつものあったかいお母さんではありませんでした。
太一さん
「母の顔を見て大泣きしました。どこか母の死を信じることができず、隣に座って、顔を触り、冷たかったことを覚えています」
お母さんの死を受け止めきれず、葬儀が行われるまで毎日のように遺体安置所に通いました。

お母さんのきれいな顔を見つめて、声を出しながら泣いていたことは覚えていますが、当時のつらい記憶はあまり思い出せないといいます。

心にぽっかり空いた穴

太一さんたちきょうだいは祖父母に引き取られ、気持ちを整理できないまま、新しい家族の暮らしが慌ただしく始まりました。

ふと気が付くと思い出すのは、大好きなお母さんと過ごした日々のことでした。
当たり前にいて安心感を与えてくれたお母さんがいなくなったことを嫌でも考えてしまい、心の中にはぽっかりと穴が空いたように感じたといいます。

学校には行ったけれど…

小学校は再開し、日常を取り戻し始めましたが、太一さんはある異変を感じていました。

学校に行っても、どういうわけか気力がわかず、保健室で寝ていることが多くなりました。
太一さん
「多くの人が大切な人を亡くして悲しんでいる中で、自分だけが母を亡くした悲しみを口にできなかったし、幼かったので表現することもできませんでした」
胸の内を誰にも打ち明けられないまま、次第に日常生活を送ることもつらくなっていったといいます。

自分のことを理解してもらえない。

心の中には自分と外の世界とを仕切る柵のようなものが育っていきました。

中学1年生の後半になると週に1回は学校を休むようになりました。

休みは週に2回、3回と増え、孤独でできた柵は次第に越えられなくなっていきました。
そしてついには完全な不登校に。

学校に行かなくてはいけないと頭ではわかっていても、体は言うことを聞いてくれません。

“孤独の檻”の中にいたんだと思います

太一さんは孤独を抱え、柵に囲まれた檻の中で過ごしていたと当時の心の内を振り返りました。
太一さん
「気がついたらスタミナが切れて。当時はそれに気づかず、なんで休んでいるかも分からずに淡々と日々を過ごしていました」

“孤独の檻”の中での生活

望んだわけではないけれど、出ることもできない部屋の中での生活。

母と過ごした日々とはまったく異なる誰かに甘えたくても甘えられない空間でした。

心に空いた穴を埋めるように、ひたすらのめり込んだのがゲームでした。
朝までゲームしたあと、日中は寝て、夜から再び朝までゲーム。プレイ時間は1日12時間以上に及ぶこともざらでした。

ゲームをしているときは震災のこと、母を失ったこと、周囲が自分のことを理解してくれない不安を考えなくてよく、心が落ち着いたそうです。

食事やトイレ以外は部屋から出ない日も多く、1か月以上まったく外出しないこともありました。

部屋の外で祖父母や親戚に会うと「なぜ、学校に行かないのか」と叱られ、逆に「がんばれ」と励まされても期待に応えられない自分が情けなく、悔しくて落ち込んだといいます。

「どうせオレなんか誰からも認めてもらえない、邪魔者なんだ」

1人でいることだけが安心していられる。

心の中の“孤独の檻”は、どんどん高く、強固になっていったといいます。
太一さん
「リビングで過ごしていても、祖父母からよく怒られていたので、自分の部屋に逃げていました。ひとりでいると震災のことを考えてしまうんです。ゲームに熱中していたときは悲しい現実から離れることができました」

ちょうどいい距離の大人

檻の中にひきこもる太一さんを外からずっと気にかけてくれた人がいました。

スクールソーシャルワーカーのナム・キョンウォン(南・景元)さんです。

ナムさんは、震災直後の小学4年生ごろから足繁く訪ねてくれていました。
スクールソーシャルワーカー ナムさん
「訪ねても寝ていることが多くて大変でした。引きこもっている人にとって自分の部屋は最後の“城”ですよね。そこを壊したら敵になってしまいます。太一くんのことを尊重したかったので、『次にまた来るよ』と伝えて、通い続けました」
檻から無理やり連れ出そうともしないし、壊そうともしないナムさん。

ゲームや好きなラーメンの話など、他愛のない会話をするだけ。何の会話もないまま、1日が過ぎていったこともあったといいます。

この人は、自分の置かれた状況を理解しようとしてくれているのではないか。

適度な距離を保って接してくれるナムさん。

太一さんは少しずつ心を開くことができるようになり、外との数少ないつながりができていきました。
太一さん
「大事な話を聞くって言うよりかは”何気ない会話”ができる。それが嬉しかったんです。家族ではなく、学校の担任でもない、ちょうどいい距離の大人。何気ない会話をゲーム以外でするのはナムさんくらいだった」

優しく見守ってくれたおばあちゃん

檻の中でのゲーム生活は定時制高校に入ったあとも続きました。
3年生のとき、出席日数が足らず卒業が危うくなり、祖母・幸子さんと担任との3者面談を行うことになりました。

担任は登校しない原因はゲームにあると、幸子さんに取り上げるよう提案しました。

「あー、終わった。おばあちゃんはきっと受け入れてしまう」

檻の中で唯一、自分らしくいられたゲームを取り上げられたら人生が真っ暗になる気がしたという太一さん。

しかし、幸子さんの答えは意外なものでした。
幸子さん
「太一からゲームを取り上げたとしても、現状から良くなるようには思えない」
これまでは自分の好きなものを否定することもあった幸子さんは自分を理解しようと変わろうとしてくれていたのです。
そのことを知り、“孤独の檻”が少しずつ開いていくのを感じたといいます。

「引きこもっていた当時は、家族にもへだたりを感じ、特に支えてくれてるありがたみを感じずに過ごしてきたが、今は心境が変化し、だんだんと恩返しがしたいと思うようになった」

幸子さんは、去年5月には太一さんが外出しやすくなるよう、町の中心部への引っ越しを計画してくれました。
太一さん
「おばあちゃんが理解してくれようと努力してくれたんだなと気づきました。こっちも応えなきゃいけないなと思った」

“孤独の檻”からようやく出られた

母を失ったことがきっかけで自分の中に作り上げていた“孤独の檻”。

幸子さんたち周りの人の優しさに気付いたとき、その思いに応えたいと、外へ一歩踏み出せる気がしたといいます。
そして、大好きだった母のためにも自分を変えたいと感じるようになりました。

自分を取り囲っていた“檻”は少しずつ消え、ゲームに依存していた生活から外に目を向けられるようになっていきました。

問題はそこにない

「シンポジウムで話してくれないか」

去年9月末、地元で子どもの育ちについて考える勉強会でひきこもりの経験を発表してほしいと依頼したのはナムさんでした。

つらい現実から逃げるように引きこもっていた自分なんかが、人前で話せるのか。

そんな不安を打ち消して勇気を出すことにしたのは、自分と同じように助けを求めている子どもたちの存在でした。

太一さんはオンラインゲームを通じて悩みを抱えている子どもたちが多くいることに気付いたといいます。
大好きな母を失った苦しみ。

誰にも話せない孤独。

自分を責めた日々や信じて理解しようとしてくれた人たち。

大勢の人たちの前で太一さんはあるがままの自分を語り、訴えました。
太一さん
「今ゲームに熱中している子どもがいたら、問題はゲームにあるのではなくその裏には心の問題があるのかもしれません。本当は思いを聞いてほしいのかもしれません。子どもの小さな小さな声を聞いてほしい」
発表が終わった瞬間に沸き起こった拍手は孤独だったときには感じたことのない、大きな自信となるものでした。

今なら母に報告できる

去年12月の月命日。

母・千賀子さんのお墓に、初めてひとりで手を合わせる太一さんの姿がありました。

子どもたちの悩みに寄り添う社会福祉士になるため、念願だった大学合格を伝えるためでした。
太一さん
「引きこもっていたときは情けなくてひとりでは来られなかったけど、スタート地点に立てた今なら報告できると思って来たいと思いました。墓参りに来るたびに、今よりもっと頑張れている自分を、胸張って報告したいです」

子どもの思いを聞ける社会を

太一さんのように東日本大震災で孤児となったのは、東北の被災3県で240人あまり。

その多くが親族や里親に育てられ、新しい家族の中で暮らしています。

太一さんの10年間の話を聞いて、傷ついた子どもたちを支えるにはスクールソーシャルワーカーや理解してくれる家族の存在がとても大きいと感じました。

檻の中で苦しんでいる子どもたちの声に社会の誰もが耳を傾けてほしい。そう感じます。