“答えのない教科書” のぞいてみませんか?

“答えのない教科書” のぞいてみませんか?
「1人が犠牲になって、複数の人の命が助かるなら、支持しますか?」
正解が一つとは限らない。正解があるのかも分からない、そんな問題にあなたなら、どう答えますか?AIが人間の仕事を担い、フェイクニュースが出回り、そして未知の感染症が流行する。先が見えない時代を生きていくための新しい教科書ができました。今どのような力が求められているのか、少しのぞいてみませんか。
(社会部記者 能州さやか 田畑佑典 伊津見総一郎)

○×で採点はできません

さて早速ですが問題です。
「AIによる自動運転車が事故をおこしたら誰が責任を負うべきか」

関連してもう1問。
「対向車と衝突事故を回避しようとすると歩行者をはねることになる。AIはどう判断すべきか」

次のような問題も。
「あなたが裁判員になったら、死刑の判断を下すことができるか」
これらの問いは、3月末に検定に合格したばかりの、来年春から全国の高校で使われる新しい教科書に記載されているものです。いずれも“正解”は書かれておらず、生徒たちに考えるよう促す内容になっています。

今回の教科書は、高校の「学習指導要領」の改訂に伴い、大幅に科目が再編され内容も大きく変化しています。高校教育で課題とされてきた“知識偏重”を脱却し、生徒がみずから考え、周囲との対話を通じて学びを深める内容が特徴です。

どれだけ知識を暗記するかではなく、知識をいかに活用し、現実の課題について思考し、解決につなげられるか、そんな力を養おうとしています。

みんなの幸福のために誰かを犠牲にしてもよい?

冒頭で紹介した問題を詳しくみていきます。
「厳正な抽選であなたは臓器提供者に決まりました。1人の命で5人が助かります」という知らせに困惑する男性のイラスト。

添えられた文章には。

「もし1人の健康な人から、複数の臓器を取り出して移植することで、多数の命を救えるとすれば、それが正しいといえるか」

一瞬ぎょっとする質問ですが、哲学者が考案した『臓器くじ』と言われる思考実験の1つを踏まえたものだそうです。

判断の例も記されています。

「どの人にも等しい価値があるから1つの命よりも、5人の命が助かるので『正しい』」

「どの1人の命にも『かけがえのなさ』という価値があるから、本人の意思に反して奪われてはならないので『正しくない』」

新たな必修科目「公共」の「義務論と公正の原理」を学ぶページに記載されています。
この問いは極端に感じるかもしれませんが、項目全体では、アフリカの採石場で働く子どもの写真とともに、私たちがよい商品を安く買える背景に、過酷な労働や不当な低賃金で犠牲になっている人がいないか考えさせ、「みんなの幸福のためなら誰かを犠牲にしてもよい?」と投げかけています。

この問題を教科書に盛り込んだ担当者は。
東京書籍高校社会第一編集長 三光穣さん
「公共の前身となる40年続いた『現代社会』の教科書では取り上げてこなかった、自分自身で考える『思考実験』を取り上げました。一人一人の生徒が考える場面が多くなるので、知識を学ぶとともに思考し、具体的な課題に関して自分の考えを育んでほしいと考えました」

幅広い教科に実際の社会と絡めた“問い”

答えがない問いではないですが、数学からはこんな問題も。

「厚さ0.1mmの紙を何回切って重ねたら東京スカイツリーの高さ634mを超えるか」

ほかにも社会で解決されていないさまざまな課題が提示されています。

「男女平等は法で実現できるか?」

「核兵器の脅威を経験していない私たちが、それをどのように語り継ぐことができるだろうか」

全体を通じ、実際の社会と絡めて生徒に問いかける工夫がされ、受験のための勉強ではなく、社会とつながる学びが意識されています。

探究という“知的な冒険”

しかし、こうした難問にどのように立ち向かっていけばいいのでしょうか。そこは教科書。みずから課題を設定して自分なりの考えを導きだす、探究的な学習の方法も幅広い科目で掲載されています。

「現代の国語」の教科書です。

「探究学習では、自分の設定した課題を出発点にする」

「問いに対する答えは、1つに定まらない場合や、そもそも正解が存在しない場合がある」

「学習を進めることで新たな問いが生まれ、そこから新たな探究が始まることもある。探究学習は、知的刺激に満ちた冒険なのである」

みずから立てた問いにも答えはないかもしれない。

それでも、自分の気になることを出発点に、考察を深めて、みずからの見解や主張を導くことを投げかけています。

“答えのない問い”と向き合う情報収集力も

さらに多くの教科書では、問いと向き合うには必要な情報を収集する力が求められるとして、直接インタビューして生の情報を集めることや、インターネットや図書館を活用し資料を集めることなど、アプローチのしかたが示されています。

集めた情報の読み取り方についても。

「日本史A」や「世界史A」が再編され、日本と世界の近現代史を中心に学ぶことになった新たな必修科目「歴史総合」では▼資料の種類や、読み取り方、▼また1つの資料から複数の解釈が生まれる可能性があることも伝えています。

また、私たちが日々記録しているノートや日記から政府が作成している公文書まで、保存することは歴史を振り返る資料として大きな意味を持つとしています。

“新たな学び”を生きる力に

みずから問いを立て、学びを深めることを促す今回の教科書。子どもたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

子どもや若者の支援を行うNPO「カタリバ」の代表理事で文部科学省の中央教育審議会の委員も務める、今村久美さんは。
NPO「カタリバ」代表理事 今村久美さん
「これまで学びと自分との距離感というのは、誰かにお題を設定されて『やらなきゃいけない』から学習するというものだったかもしれませんが、これからは『こんなことを知りたい』『もっと深く知りたい』と、興味をどんどん開発していけるようになっていくのではないか」
そのうえで、どんな環境にあっても、社会を生きぬく力を身につけてほしいと話しています。
NPO「カタリバ」代表理事 今村久美さん
「教育の格差が広がっているが、経済的に資産、リソースのある子どもたちのためだけに学びがあるのではない。勉強が苦手だったり経済的に困難な状況にいたりする生徒にとっても、学びを社会と接続する機会に位置づけ直せたらと感じている。途中で勉強を諦めてしまう子どもたちが多くいるが、自分で楽しみを見つけて興味を開発していく力をつけてほしい」

“答えのない問い”と実際の政治

実際の社会の課題と向き合う教科書となっている一方、政治的に論争になっているテーマを扱うことに学校や教員がなれていない現状もあります。

国は学生運動が盛んだった1969年に、高校の授業では政治的な内容を取り扱うことを慎重にするよう求め、長年、学校で政治的な論争を正面から取り扱う機会はありませんでした。しかし今は、2015年に選挙権年齢の引き下げが決まり、積極的に政治的な問題も扱うように文部科学省から通知が出ています。

政治と教育に詳しい、東京大学大学院教育学研究科の小玉重夫教授は。
東京大学大学院教育学研究科 小玉重夫教授
「いまもまだ政治を取り上げないことが政治的中立性だと考える向きもありますが、むしろ世の中には対立がありそれを認識することが本当の意味での政治的中立性です。高校の先生は萎縮せず、これを機に世の中で起きている論争的な問題や政治的な課題も生徒に示し、議論していくことが重要で、教育の自由を広げていくきっかけとなればいい」

“答えのない教科書”が教える“答え”は

来年春から使われる、答えのない問いを投げかけてくる教科書。もう1つ、気になる記載がありました。

「20世紀を通じて東アジアで歴史教科書をめぐる問題が発生しているのはなぜだろうか」

歴史教科書がみずから歴史教科書をめぐる問題を問いかけています。

今回の教科書検定では、学習指導要領の改訂を受け領土に関する記述がより厳密に求められるようにもなりました。この教科書では、国や地域によって描かれる歴史は異なり、認識の相違が現在も国際関係における問題となっているとして、実際の社会で起きている問題の解決の難しさも教えています。

そして今回、新しい教科書を取材する中で感じたのは、実際にこれをどう教えるか、という課題です。ある教科書会社の編集者は「新しい必修科目が増え、専門外の教員が教えることも増えるだろう。少しでも教えやすくなるよう資料を多くするなど工夫はしているが大変だと思う」と話していました。

情報を的確に集め、真正面から見つめてみる。

自分はどう捉えたらいいのか、どうアプローチしていけばいいのかを考えてみる。新しい教科書で学ぶ力は、高校生だけでなく“答えのない時代”を生きる私たちにも求められていると感じました。
社会部記者
能州 さやか
社会部記者
田畑 佑典
社会部記者
伊津見 総一郎