古賀稔彦さん死去 各地から驚きや悲しみの声

柔道の金メダリストの古賀稔彦さんが24日、亡くなりました。
古賀さんが生まれ育った福岡県や佐賀県をはじめ各界などから突然の訃報に驚きや悲しみの声が聞かれました。

古賀さんが生まれた福岡では惜しむ声

古賀さんが生まれた福岡県では53歳という若さでの死去に惜しむ声が聞かれました。

福岡市の30代の女性は「小学校の時に講演に来てくれたことがあり、練習の厳しさや大切さを教えてくれました。ああいう人になりたいと思っていたので残念です」と話していました。

また福岡市の50代の男性は「オリンピックで金メダルを取りバンザイをした時の姿をよく覚えています。同世代の1人としてエネルギーをもらっていたので寂しいです」と話していました。

福岡市の70代の男性は「びっくりしました。とてもさびしく思います。力任せではなく背負い投げのきれいな柔道が印象に残っています」と話しました。

古賀さんが育った佐賀では驚きと悲しみの声

古賀さんが育った佐賀県でも、死去の知らせに驚きと悲しみの声が聞かれました。

佐賀市で聞きました。

50代の男性は「古賀さんの講演を聞いたことがあり、金メダルを取った強い精神力に感銘を受けました。亡くなったと聞いて本当にびっくりしました。東京オリンピックも控えていただけに残念です」と話していました。

また50代の女性と20代の女性の親子は「地元のスポーツ選手でとても有名な方です。まだまだ若く、これから日本の柔道を引っ張っていく方だと思っていました」と話していました。

80代の男性は「金メダリストということでこれからも指導を担うと思っていました。佐賀県のためにももっともっと活躍してほしかったです」と話していました。

全柔連 北田理事「骨の髄まで柔道家だった」

古賀さんが中学時代から柔道を磨いた私塾の「講道学舎」で一緒に学んだ全日本柔道連盟の北田典子常務理事は「古賀さんの生き方はすばらしかった。強くてやさしくて何事にも一生懸命で、本当に骨の髄まで柔道家だったと思う」と話しました。

北田さんが3週間ほど前、電話をした際に古賀さんは「やせてしまったが必ず元気になるから。頑張る」と話していたということです。

ソウルオリンピック柔道女子61キロ級、銅メダリストの北田さんは古賀さんより1つ年上で、講道学舎の当時を振り返り「一緒に金メダルを取ろうと互いに励まし合った。古賀さんはそのころから小さな傷でも必ず消毒をするなど体調管理に気をつける人だった。柔道着もいつも真っ白で真摯(しんし)に柔道に向き合っていた」と話していました。

古賀さんが小学生のころ指導の男性「礼儀作法もしっかり」

古賀さんが小学生のころ福岡県久留米市の柔道場で指導した塚本征支郎さんは「古賀さんは素直な性格で、積極的に皆ととけ合って練習していたのを覚えています。子どもながら礼儀作法もしっかりしていて、柔道の強さだけでなく、非常にしっかりした人物だったと思います」と誠実な人柄をしのびました。

そのうえで「オリンピックに出た後も久留米に講習に来てくれるなど、地域に貢献された方でした。古賀さんの立派の姿は地元の誇りだったし、そのおかげで今も久留米で柔道が盛り上がっていると思います。立派な人を亡くして今は信じられないです。残念でたまりません」と話していました。

バルセロナ五輪の上村監督「誰が見ても“ミスター柔道”」

古賀稔彦さんが金メダルを獲得したバルセロナオリンピックで、柔道の日本代表、男子の監督を務めた上村春樹さんがNHKの取材に応じ「誰が見ても“平成の三四郎”、“ミスター柔道”と呼べる存在だ。バルセロナ大会の優勝は、神様がついているとしか言いようがなかった。柔道界の大きな人材をなくし、本当に残念でならない」としのびました。

バルセロナ大会の直前、古賀さんが吉田さんとの稽古中に左ひざのじん帯損傷の大けがをしながら、金メダルを獲得したことについて当時、男子の監督を務めていた上村さんは「足を畳で滑らせてバキッと音がして、動けなくなっていた。大変なことが起きたと思った。けがをしてから試合までほとんど体が動かせず、一度も柔道着を着られなかったが、本人は“痛いけどやります”と弱音をはかなかった。試合に出たらいきなりともえ投げを決めた。今でも何であのような状態で試合ができて勝てたんだろうかと思う。これまでも含めてあのような状態で戦う選手は初めて見た。私は敗因と勝因を分析してノートに書くが、優勝したあとには“神様がついていたとしか言いようがない”と書くしかなかった」と振り返りました。

上村さんは、金メダルを獲得して帰国した当時の古賀さんの状態について明かし「病院で検査を受けたときに、実は胃潰瘍になっていた。ものすごいプレッシャーと戦っていたのだと思うが、周囲にはそれをみじんもみせなかった。並の精神ではない」と話しました。

現在、講道館の館長を務める上村さんは24日朝、出勤途中に古賀さんが亡くなったことを聞いたということで「一本背負いの豪快な技、“平成の三四郎”と呼ばれる積極的で攻撃的な柔道は、誰が見ても“ミスター柔道”と呼べる存在だ。引退後も道場を作って子どもたちを指導するなど、これからさまざまな力を発揮するところだった。柔道界の大きな人材をなくし、本当に残念でならない」と話していました。

谷亮子さん「最も尊敬する柔道家」

柔道女子48キロ級のオリンピック金メダリスト、谷亮子さんは「突然の訃報に接し、もうお会いできないと思うと悲しすぎます。最も尊敬する柔道家であり、常に柔道界に新しい風を吹かせてくれた方です。古賀先輩との思い出は数え切れないほどありますが、私が中学生の頃からバルセロナオリンピック等の大会に一緒に出場し、いつも「亮子、亮子」と言ってかわいがって下さった姿が忘れられません。ご冥福をお祈りいたします」などと、コメントしています。

吉田秀彦「私から人生の金メダルを贈らせて」

古賀さんの後輩で柔道の私塾「講道学舎」で切さたく磨してきたバルセロナオリンピック金メダリストの吉田秀彦さんは「今の私があるのは古賀先輩のおかげと言っても過言ではありません。練習はもちろんのこと私生活でも常に行動をともにしていただいたことで、技術的にも精神的にも強くなれました。現役引退後、柔道界の発展に尽くされた古賀先輩に私から人生の金メダルを贈らせていただきます。ご冥福を心よりお祈りいたします」とコメントを発表しました。

また、バルセロナオリンピックの大会直前、古賀さんが吉田さんとの稽古中に左ひざのじん帯損傷の大けがをしながら金メダルを獲得したことについて「柔道ができる状態ではなかった古賀先輩が優勝した瞬間、私が金メダルを取ったとき以上の喜びを感じました。2人で勝ち取ったバルセロナオリンピックの金メダルは一生の宝です」と振り返りました。

五輪・パラ組織委 橋本会長「気持ちの強い人だと思った」

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の橋本会長は、自転車競技の選手としてソウル、バルセロナ、アトランタの夏のオリンピック3大会に古賀さんと一緒に出場しました。

橋本会長は「先ほど訃報を聞いて体が震えた。特にバルセロナ大会で古賀さんがけがをして金メダルを取った瞬間はいまだ忘れられないし、気持ちの強い人だと思ったのが 印象的だった。現役時代からすごい選手だったが、後進の指導でも大変情熱的な姿を見て、こういう方々が次の世代にスポーツ界を引っ張っていただけるとずっと思っていたので、本当に残念でならない。心からご冥福をお祈り申し上げたい」と話していました。

加藤官房長官「本当に若く 全く残念」

加藤官房長官は、午前の記者会見で「53歳という若さで亡くなられ大変、驚いた。1992年のバルセロナオリンピックで、日本選手団の主将を務め、ひざを痛められた中にもかかわらず、痛み止めを打ち、最終的に金メダルを獲得した。大変、印象的に覚えている。『平成の三四郎』と言われていたが、柔道で『柔よく剛を制する』とよく言われるが、そうしたことばをまさに具現化された方だった。本当に若く、全く残念で、ご冥福をお祈り申し上げる」と述べました。

柔道男子日本代表 井上康生監督「スターであり憧れの選手」

柔道男子日本代表の井上康生監督は「古賀さんは私にとってのスターであり、憧れの選手でした。私が中学生の時、宮崎の道場で直接、稽古をつけてもらった経験は、その後の私の柔道人生に大きな影響をもたらしました」と思い出をコメントしました。

そして「お亡くなりになられたことは非常に残念であり、柔道界にとって大きな損失です。しかし、古賀さんが残された功績をわれわれがしっかりと受け継いで頑張っていかなければと思っております」とコメントしています。

全日本柔道連盟 山下会長「柔道界にとって貴重な存在を失った」

全日本柔道連盟の山下泰裕会長は「けさ、お亡くなりになったと報が入り最初は全く信じられませんでした。大変、大きなショックを受けております。柔道界にとって貴重な存在を失いました。彼自身も柔道界でもっともっとやりたかったことがあったのではないかと思います」とコメントしました。

また、全日本選手権での戦いやバルセロナオリンピックでの金メダル獲得の活躍にふれ「軽量級の身体で重量級の選手とも正々堂々、真っ向から戦う姿勢は、忘れられません。体重無差別の全日本選手権で決勝まで勝ち上がり小川直也さんと戦った姿をはじめ、バルセロナオリンピックの直前において、ひざのけがをし克服して優勝した姿を見て、私は現地で『これは奇跡が起きた』と思いました。心技体のすべてにおいて突出しておりましたが、その中でも心が非常に大きな選手でした。心からご冥福をお祈り申し上げます」と話しています。