地下鉄サリン事件 捜査秘話 元死刑囚との間で“化学式の対話”

「オウムの科学を解明せよ」。無差別テロ、地下鉄サリン事件の捜査で、こう命じられた元科学捜査官が、事件から26年となる中、捜査の秘話を明かしました。サリンの生成に関わった元死刑囚との間で“化学式の対話”が行われ、捜査が進められていたことが分かりました。

取材に応じたのは、元・警視庁科学捜査官で、医学博士の服藤恵三さんです。

平成7年3月20日に起きた地下鉄サリン事件では、14人が死亡、およそ6300人が被害に遭いました。

当日の朝、服藤さんは、地下鉄にまかれた液体をサリンと鑑定しますが、その後、押収された実験ノートを分析したことで事件捜査に関わるようになりました。

ノートには、サリンを示すとみられる「サッチャン」という表記や、物質の沸点や融点、凝固点の測定値が記されていました。

数値は文献に記されたものとほぼ一致し、サリンを作っていることをうかがわせるものでした。
「オウムの科学を解明せよ」。

こう命じられた服藤さんは、麻原彰晃、本名、松本智津夫元死刑囚のもとでサリンの生成に関わった土谷正実元死刑囚と対面することになります。

黙秘を続ける土谷元死刑囚との対面で、服藤さんはある試みを行ったといいます。

化学式を黙々と書いて示すことでした。

この中の1つは、土谷元死刑囚がみずから考案したサリンの生成方法で、実験ノートの分析から解明したものでした。

自分で考えた生成方法を示され、困惑した様子だったという、土谷元死刑囚。

数日後、自供を始めたということです。

土谷元死刑囚は「自分で考えた生成方法をなぜ知っていたのか、そこまで解明しているなら黙っていてもしかたがないと思った」と話したということです。

服藤さんは「高度な知識のある若者が社会のために尽くせばとても貢献できたはずで、どうして闇に引きずり込まれたのか、今も知りたい」と話しています。

「なぜなんだという気持ちが錯そう」

平成7年3月20日、日本の中枢が狙われたオウム真理教による無差別テロ、地下鉄サリン事件が起きました。

元・警視庁の科学捜査官で、医学博士の服藤恵三さんは、当時、科学捜査研究所にいました。

当日の朝、サイレンの音が次々に鳴り響き、複数の地下鉄の駅で多くの人が倒れているという情報が届き、異変を感じたといいます。

そして、午前9時5分ごろ、捜査員が地下鉄の車両から拭き取った液体を持って、研究所に飛び込んできました。

「捜査員が“築地駅構内の車両から液体を採取した”と、袋に入った脱脂綿を提げていた。現場で多くの人がうずくまり、せき込み、目やのどが痛いと訴えている。骨格筋がけいれんし、意識がなくて泡を吹いている人もいると。みんな暗いと言っていると。捜査員の目も瞳孔が小さくなりピクリとも動かない。縮瞳が起こっていた。有機リン系の毒物だと感じた」

そして、鑑定に取りかかり、午前9時34分、猛毒のサリンと鑑定します。

「ガスクロマトグラフ質量分析装置にかけると、画面上に“サリン”と表示された。それを見た瞬間、やっぱりと、なぜ?という気持ちが同時にわいた。サリンは自然界には存在しない物質で、人為的に作らないとできない。犯行を行ったグループにサリンを作れる人がいて、不特定多数の場所で同時に起こっているので、複数のグループが関与し、サリンを都心でまくことに参加したということになる。なぜなんだという気持ちが錯そうした」

実験ノートを独自分析

地下鉄でまかれた液体はサリンだと鑑定した、服藤さん。

地下鉄サリン事件の捜査に深く関わるようになるのは、捜査本部で押収されたある実験ノートを独自に分析したことからでした。

それは、「ウパヴァーナ」という信者のホーリーネームが表紙に書かれたノートでした。

「ノートの表紙には、『ウパヴァーナ』と書かれていて、のちにサリン生成プラントの責任者の信者のホーリーネームだと分かった。ノートには反応式がいろいろと書かれていて、サリンのことを『サッチャン』と書いていると読み取れる部分があった。物質名は書いていないが沸点や融点などの数字が並んでいて、その中にサリンと一致する数字があった。間違いなく作っていると思った」

事件から6日目の3月26日、服藤さんは実験ノートの分析結果をまとめ、報告します。

ノートには、5つの行程を経てサリンを生成していることが読み取れること。

ガス化した物質が使われている特徴があることなどを報告したところ、捜査幹部から「オウムの科学を解明せよ」と命を受けたといいます。

「刑事部長から、“オウムの科学を解明してくれ”と言われ、それから毎日のように資料を読み込んだ。本気でサリンを作ろうとしていて、なおかつ、すでに作ってもう持っているというのがはじめの印象だった。非常に怖い感じがした」

「第7サティアン」で「反応釜」など分析

「オウムの科学を解明せよ」と命じられた、服藤さん。山梨県にあった教団施設「第7サティアン」では、サリンの生成を行う「反応釜」などを分析しました。

「オウム真理教はプラントも反応釜も自家製で全部作っていた。配管から何から何まですごく精密な図面があった。ハッチドアを開け、シャワールームを介して階段をずっと降りていくと、最終第5工程のサリンを生成するためのタンクにたどりついた」

さらに2つの実験棟にも入りました。

1つは土谷正実元死刑囚のホーリーネームがついた化学実験棟「クシティガルバ棟」です。

「ガランとしていて何もない雰囲気だが、奥の壁をよく見ると隠し扉があり、その奥に化学実験室があった。危険なものを扱うときに使う装置や、薬品などが実験台の上に置かれ、非常に高価な分析装置も置かれていた。器具もたくさんあり、相当使い込んでいる感じで繰り返し有機合成をしていると感じ取られた」。

もう1つは遠藤誠一元死刑囚の実験棟「ジーヴァカ棟」でした。

「いちばん気になったのはオートクレーブという機械、細菌や病原菌をプレパレーションしたものを滅菌、死滅させるための機械だ。そういうものを扱っているということで、非常に気持ち悪かった。ジーヴァカ棟には化学実験室もあり、地下鉄サリンが作られて証拠隠滅のために実験のドラフトを焼いていたようだ。建物はガスが出てくるところが黒く変色して、すすがついた状態になっていた。ここからはサリンの第1次分解物が検出されている」

白い紙に黙々と化学式を

服藤さんは、サリンの生成に関わった土谷元死刑囚と逮捕の2日後、対面することになります。

「捜査一課長から、完全黙秘になって何もしゃべらない。科学の話でもしてきてくださいと言われた」。

築地警察署の取調室で対面した土谷元死刑囚はずっと目をつむっていましたが、捜査員らに部屋を出てもらい、2人だけになり、大学での研究内容に触れると少し話し始めたといいます。

「大学院時代は目標が見えず、悩んでいたと。頑張れば教授になれたんじゃないかと聞いたら、“教授なんて無理です。大学院にも進んだが挫折しかかっていた”と。オウムはどうだったと聞くと“最高だった”“何でも好きなことをやらしてくれた”と」。

しかし、捜査員が部屋に戻ってくると話さなくなり、そこで、服藤さんはある試みを行うことにします。

白い紙に黙々と化学式を書いていくことでした。

「解析していたサリンの生成方法をゆっくりと書いていった。すると土谷元死刑囚は目を開けて作業を見るようになった。その中である反応工程を書き始めた時、身を乗り出してじっと見つめ、天を仰ぐように目をつむった。最後は目をつむったまま体を前後左右に揺らし、手も小刻みに震えていた。動揺していると思った」。

服藤さんが示した化学式。

この中の1つは、実は土谷元死刑囚がみずから考案したサリンの生成方法を記したものでした。

自分が考えた、知られるはずのない生成方法を化学式で示され、土谷元死刑囚は困惑した様子だったということです。

そして、数日後、自供を始めました。

「捜査一課長から“土谷が落ちた”と。“警視庁にはすごい人がいる。私がやっていることがすべて分かっているんだったら黙っていてもしょうがない”と言って話し始めたと言われた。“自分が考えたほかにない(反応)式だし、それをなぜ知っているのか、そこまで解明しているのかと思った”と、調べ官を介して教えてもらった」。

服藤さんには今も聞きたいことがあるといいます。

「その後の自供もすべて記憶だけで反応式や図面もすべて書いていった。これだけ優秀な頭がある若者が社会のために尽くしていたらものすごく貢献できたと。それがどうして闇に引きずり込まれたのか、聞いてみたかった」

そして今思うこと

無差別テロ、地下鉄サリン事件から26年。

服藤さんは、現実社会で悩みや挫折感を抱える土谷元死刑囚などの若い世代が、闇に取り込まれていったあやうさは、今も存在するとしています。

「(事件を起こした人たちは)優秀な人が多かったが、実は現実の社会の中でナンバーワンになれなかった、自分の居場所を見つけられず、自己実現ができず、悩みを抱えていたと思う。それがオウムと出会って引きずり込まれていったと。今も自己実現できない、何か認められたいという若い人たちは多くいて、SNSの中に居場所を見つけているように感じる」。

そのうえで服藤さんは、今、SNS上での悩みをさまざまな専門家集団が解析するなど、何らかの方法を見いだせないかと考えています。

「SNSの中で悩んでいる人たちがどのような形でどのような気持ちでいるのか。その根本的なところはどこに行き着くのか、そういうものを解析し、傾向などが見いだせればいいかなと思う。そのためにも精神医学や心理学、ITやAIの専門家など、SNSの解析にたけた人たちも集まって支援していく。そういう形を作っていかなければいけないと思う」。