「第五福竜丸」元乗組員 “死の灰”で被ばく 大石又七さん死去

昭和29年、アメリカの水爆実験に巻き込まれ太平洋のビキニ環礁で被ばくした「第五福竜丸」の元乗組員で、核兵器や被ばくの恐ろしさを訴え続けてきた大石又七さんが3月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。87歳でした。

大石又七さんは昭和29年3月1日、20歳の時に静岡県の焼津港に所属していたマグロ漁船の「第五福竜丸」の乗組員として太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で操業中、アメリカの水爆実験に巻き込まれて22人の仲間の乗組員とともに放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」を浴びました。

この被ばくから半年後、病院で治療を受けていた無線長の久保山愛吉さんが亡くなったほか、大石さんも脱毛や水ぶくれなどの症状が出て1年2か月入院し、放射線の影響におびえる生活を強いられました。

これをきっかけに全国に原水爆禁止運動が広がって日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の設立にもつながりました。

大石さんはみずからの体験を著書にまとめたり、各地で講演を行ったりして核兵器や被ばくの恐ろしさを世の中に訴え続けるとともに、原子力発電所の危険性についても警鐘を鳴らしていました。

大石さんは平成24年4月、脳出血で倒れて一時入院しましたが、その後もリハビリを続けながら証言活動を行っていました。

また、おととし6月からは神奈川県三浦市の高齢者施設で暮らしていましたが3月7日、誤えん性肺炎のため市内の病院で亡くなりました。

第五福竜丸平和協会コメント

「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区にある「第五福竜丸展示館」で保存・公開されています。

展示館を管理・運営する公益財団法人、「第五福竜丸平和協会」は、大石さんが亡くなったことを受けてコメントを出しました。

この中では、大石さんが昭和58年から証言者として活動し始め、これまでに合わせておよそ700回、第五福竜丸の前だけで、およそ500回もの講話を行ってきたことを紹介しています。

そのうえで、「大石さんはみずからの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別をはじめ社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも、社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました」としています。

そして、「大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界に向けて第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました」と結んでいます。

「第五福竜丸」の歴史

「第五福竜丸」は昭和22年に建造され、戦後の食糧難の時代、カツオやマグロを取るための船として使われました。

そして、昭和29年3月1日、日本からおよそ4500キロ離れた太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁周辺で操業中にアメリカの水爆実験に巻き込まれ、大石さんなど23人の乗組員全員が被ばくしました。

これをきっかけに日本では原水爆禁止運動が高まり、広島と長崎に投下された原爆の被爆者の全国組織、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の結成につながりました。

一方、「第五福竜丸」は政府が買い上げ、放射線量が低下したあと、当時の東京水産大学の練習船として使用されました。

そして昭和42年に廃船になり、東京・江東区のごみの埋め立て処分場に放置されていましたが、原水爆禁止運動のシンボルとして保存を求める声があがり、昭和51年、東京都が展示館を整備して保存・公開しています。
昭和60年には、腐食が進んだ木材を取り替えるなどの大規模な改修が行われましたが、基本的な構造は建造当時のままです。
骨組みには、黒ずんだり、傷んだりした被ばく当時の木材が残されていて悲惨な歴史をいまに伝えています。

当時の西洋型の木造船の姿を伝える意味でも、貴重な船となっていて、国内に現存する唯一の西洋型の木造船として去年、日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されました。

日本被団協 田中代表委員 「仲間が亡くなり残念」

日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳代表委員(88)は「第五福竜丸の被ばくによって、より多くの人に被ばく者の苦しみが知られることになり、みずからの経験を伝え、核廃絶を実現しようという日本被団協の活動につながっていった」としたうえで、「大石さんはふだんは口かずは少なかったですが、証言活動の時には、人の心を打つ語りをしていたのがとても印象的で、大きな病気をされたあとも講演活動を続けていたので、頑張っておられるなと思っていました。一緒に行動してきた仲間が亡くなったのはとても残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。