不安や苦しみの全貌は、いまだに誰も知らない

不安や苦しみの全貌は、いまだに誰も知らない
「情けないというか、悲しい」
いくつもの命を救ってきたベテラン救急医の口ぶりには、悔しさがにじんでいた。
世界でも類を見ない化学テロ、地下鉄サリン事件。
多くの市民に猛毒のサリンがまかれた。しかし、誰がどう被害に遭い、どんな治療を受けたのか。その後、どのような不安や後遺症を抱えながら過ごしているのか。被害者の視点に立った記録の保存や検証はいまだに行われていない。
なぜそうなったのか。26年前のあの日からひもといてみたい。
(ネットワーク報道部記者 馬渕安代 解説委員 山形晶)

そこは野戦病院と化した

静かな朝だった。
1995年3月20日、東京・中央区の聖路加国際病院の救急センター。その日、現場を任されていた石松伸一医師は、患者のいない救急外来で仕事を始めようとしていた。

消防からの電話が鳴った。受話器を取った看護師の向こう側に見えた時計は、午前8時16分を指していた。

「地下鉄日比谷線の茅場町駅で爆発火災が発生したらしい」

まもなく救急外来には目の痛みや息苦しさを訴える患者が次々に訪れはじめた。救急車も到着。隊員は「駅の外に大勢の人が倒れている」と話し、すぐに現場へ引き返した。
そして心肺停止の患者が次々に搬送されてきた。異常なことが起きている。

通常の診療は中止し、院内放送で救急センターへの応援を要請した。やがて病院は自力で助けを求めにきた人や搬送されてきた患者であふれかえった。
その数は600人を超えた。

救急外来だけでなく、各科の外来の長いすには患者が横たわり、医師や看護師が点滴などの応急処置を行っていった。処置を受けた人たちに療養してもらう場所を確保するため、病院の礼拝堂も開け放った。その様子は、野戦病院そのものだった。

“何が起きている?”

患者たちにけがはない。焦げた臭いもしない。爆発事故ではなさそうだということはわかった。ただ、患者はみんな、目の瞳孔が縮んでいた。
石松医師は有機リン系の農薬中毒を疑った。しかし、地下鉄で複数の乗客が同時に農薬を飲むことはありえない。原因がわからないまま、応急処置を続けるしかなかった。

自衛隊から派遣された医師が到着した。持参した資料にはサリンの治療法も書かれていた。サリンは、同じ有機リン系の化合物だ。

…サリンなのか?
それはナチス・ドイツで開発された化学兵器だ。もし正しければ迷っている暇はない。

資料には「PAM」という解毒剤が効くと書かれていた。しかし有機リン系でも農薬中毒の患者にPAMを投与すると、一時的に症状が悪化することがある。

石松医師は迷っていた。

“闇夜に一筋の光”

ちょうど同じ頃、聖路加国際病院に1本の電話が入った。長野県松本市にある、信州大学医学部附属病院からだった。
信州大学はその前年(1994年)、松本サリン事件で被害者の治療を行った経験があった。

当時の病院長は、地下鉄サリン事件の被害者の様子をテレビで見て、再びサリンが使われたことを確信した。医師に指示して、患者が搬送されたとみられる東京の病院に片っ端から電話をかけ「サリンだと思います」と伝えた。

手元にはちょうど刷り上がったばかりの松本サリン事件の報告書のゲラがあった。サリンを吸った被害者の症状や治療法、その後の経過をまとめた部分を抜き出し、FAXで東京の病院に次々と送った。
その数はおよそ30か所にのぼった。
東京の聖路加国際病院にも、サリンだという情報が伝わった。自衛隊の資料と、信州大学からの情報。石松医師は、態勢が整っているICU=集中治療室でPAMを使うことを決断した。

すると担当医が叫んだ。
「けいれんが止まりました。PAM、効きましたよ!」
判断は間違っていなかった。

石松医師はこう振り返る。
石松伸一医師
「信州大学からの情報がなかったら、PAMを投与すると判断できたか不安なところはありますね。『闇夜に一筋の光』というか。後ろから支えてくれる人たちがいるというのは気持ちの支えになりました」

“忘れられた”被害者たち

後になって、地下鉄にサリンをまいたのは、麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚が率いるオウム真理教だったことがわかる。死者14人、被害者は6300人にのぼった。
国家の首都がねらわれた、世界でも類を見ない無差別テロ事件。松本元死刑囚らオウム真理教の元幹部は、その後、死刑が確定し、2018年に執行された。

公開の法廷で「加害者」に関してはさまざまなことが明らかになった。テロ対策や救護体制も見直された。しかし「被害者」の視点に立った事件の検証は行われていない。事件当時、どこで誰がどのような被害に遭い、その後どう過ごしているのか、全体像はいまだにわかっていない。

まずは被害者のカルテ。消防の搬送記録や健康状態の変化。
そうした記録をまとめたり分析したりする公的な動きは何もないまま、20年以上の時が流れた。冒頭の石松医師のことばは、その状況を嘆いたものだ。
石松伸一医師
「ほかの病院も含めて、全体で何人患者がいて、何%の人がどんな症状だったのか。乗っていた電車が違うと症状も違ったのか。今どう過ごしているのか、誰も知らない」

“同じ被害を防ぐ” 松本市では

対照的なのは、松本サリン事件だ。8人が死亡、140人以上が被害を受けた。同じように無差別にまかれたサリンによる被害だが、事件が起きた直後から医療機関が連携し、カルテなど治療に関する記録を集め、報告書の形にまで仕上げていた。
報告書には、具体的な症例も記されている。それぞれの被害者が、どんな場所で被害に遭ったのか。どのような治療を受け、いつ亡くなったのか、あるいは回復したのか。東京の病院に速やかに情報をもたらすことができたのは、その報告書が手元にあったからだ。

なぜそれができたのか。
私たちは当時の信州大学の関係者に取材した。

その1人で、救急の担当者だった奥寺敬医師によると、事件発生の直後から、医師たちは異常な事態に直面した者として、記録を残し、次に同じことが起きた時に役立てる必要があると考えたという。
松本市という限られたエリアだったため、大学と地元の医師会、行政の担当者が「顔の見える関係」で、すぐに松本市が費用の負担など支援の方針を打ち出してくれたのも大きかった。松本市ではその後もアンケート調査や健康診断が行われ、被害者のサポートが続けられた。

さらに、奥寺医師には、一個人として「同じ被害を繰り返したくない」という、より強い動機もあった。知り合いの製薬会社の社員と、大学病院で実習を受け持っていた教え子の大学生の2人が、松本サリン事件で命を落としたのだ。

偶然にも、地下鉄サリン事件が起きた3月20日は、亡くなった学生が大学での勉強を終え、医師として第一歩を踏み出すはずの卒業式の日だった。奥寺医師は、今でもそのことが強く印象に残っている。

仲間を失った医師たちの「同じ被害を防ぐ」という決意は、はからずも、東京の数々の救命の現場で実を結ぶことになった。
奥寺敬医師
「医師の良識として報告書を作るべきだというのはありましたが、やはり身近な人を失ったのでさらに強い動機が加わって、何がなんでも作ろうよ、という話になりました」

どこも動かない 東京の現実

東京では、なぜ松本市のように治療に関する記録をまとめ、被害者それぞれの状況を把握することができなかったのだろうか。私たちが関係者に取材を重ねたところ、見方が一致していたのは、事件の規模の違いだ。

患者が搬送された病院は、主なところだけでも公立・民間合わせて40近く。松本市の7倍だ。カルテだけでも膨大になるが、どこで誰がどのように被害を受けたのかを確認するには、消防や自衛隊の活動記録や警察への被害届、地下鉄の運行記録など、複数の機関にまたがる資料を収集・分析しなければならない。

事件の発生後、早い段階でどこかが音頭を取っていれば、できたかもしれない。しかし、現実には、どの公的機関も動くことはなかった。記録はそれぞれの組織に分散し、活用されることもないままだ。

失われる記録、広がる影響

被害の記録。東京でも、民間の取り組みは行われている。石松医師も関わっているNPO「リカバリー・サポート・センター」が、一部の被害者を対象に、年に1回、健康診断を行っている。

しかし、連絡先がわかるのは1000人余り。中には、後遺症に苦しむ人もいる。ある60代の男性は、今も目の痛みや視界の異常を感じている。季節の変わり目や疲れがたまったときは特に症状が強くなるという。こうした不調は珍しいものではないが、連絡先のわからない人の状況を把握することはできない。

カルテも失われている。
法律で義務付けられた保存期間は5年。すでに廃棄した医療機関もある。私たちの取材に答えた東京のある総合病院は、その期間を超えて保管し続けていたが、建物の建て替えに伴って数年前にすべて廃棄したという。

担当者は「もし行政などから残すよう指導があれば、残すことも検討した」と話している。

やはり国が動くべきではなかったか。
石松伸一医師
「被害者の人たちは世の中から忘れ去られていって、救われる方法がない。それが今、つらいと思うことです」

“ラストチャンス”

このままでは記録は完全に散逸してしまう。しかし、ここに来てようやく、残された記録を保存しようとする動きが出てきた。

超党派の国会議員が作る「オウム真理教対策議員連盟」。
ある日、被害者とともにその会合に出席した石松医師は、強い危機感を訴えた。実態を知った議連は、2019年7月、被害者のカルテのほか、関係機関がそれぞれ保有している記録を総合的に保存すべきだと決議し、政府に要望した。
これを受けて厚生労働省は、昨年度、研究班を立ち上げ、当時の記録を保存・活用するための調査・研究を始めた。中心となったのは、当時、聖路加国際病院に勤務していた奥村徹医師。あの日、石松医師に「PAM、効きましたよ!」と叫んだ人物だ。
どこに、どのような記録が残されているのか。調べ始めると、聖路加国際病院など6つの医療機関にはカルテが残されていることがわかった。さらに消防や警察など、初動にあたった関係機関の記録も一部が残っていることも分かった。

一方で、課題も明らかになってきた。
将来、何らかの形でカルテの情報を活用するとなると、本人や家族に承諾を取らなければならない。それには時間も人手もかかる。

また、救急の搬送記録など関係機関が保存している記録の中には情報公開法で「非開示」の扱いとなるものが多く、法的な問題もあるという。

それでも、今動かなければ、記録はさらに散逸し、事件を知る関係者の記憶はさらに薄まっていく。奥村医師は、関係機関にまたがる記録を収集・保存するための方法について研究を進めることにしている。まさに今が「ラストチャンス」だ。

いずれ技術革新が進んだ時に、地下鉄サリン事件のデータを活用できるようにして、被害が広がるのを防ぐ体制づくりにつなげたい。次の世代への使命感ともいえるものが、奥村医師を突き動かしている。
奥村徹医師
「失ったものは戻りませんが、せめて記録や教訓を残しておくことが次の世代への責務だと思います。被害者や当時を知る人が高齢化し、事件を知らない若い世代も増えてきています。後世に未曽有の大事件を伝えるためにも、関係者がどう対応したのかを残すのが極めて重要です」

“将来の社会のために”

地下鉄サリン事件の被害者を見守り続け、記録を保存する重要性を訴えてきた石松医師。被害者のことを多くの人たちに伝えていくことが大切だと考えている。
石松伸一医師
「被害を受けた人が苦しむ要因の1つが無関心。被害の実情を知らないからそうなるのだと思います。こんな被害を受けた人がいるという現実は何らかの形で伝え続ける必要があります。遅すぎる部分はありますが、それでも国が動き出すのは第一歩です。あと1年か2年たてばさらに手遅れになるので、ここで、ぐっと進めてほしい」
事件を風化させてはならない。

私たちがよく使うフレーズだが、その究極の目的は「二度と繰り返させない」ということに尽きる。そのためには、事件のことを伝え、記録を残し、活用することの大切さが、広く理解されなければならない。

そして今度こそ国が主体的に動き、二度と被害者が取り残されないように、記録を収集・保存する新たな仕組みや体制を整えてもらいたい。
ネットワーク報道部記者
馬渕安代
2005年入局
社会部で司法担当などを経て
2020年から現職
解説委員
山形晶
1998年入局
社会部司法担当などを経て
2020年から現職