あの時の私へ ~前を向くことばの裏に~

あの時の私へ ~前を向くことばの裏に~
「幸せに生きてる」「よく頑張ったね」「前向きに生きていきたい」・・・かけがえのない人を失って10年。“10年前の自分”に向けて書かれたメッセージには前向きなことばがいくつも記されていた。私はこれまでの取材で、亡くした人への悲しみや後悔の念を聞くことがほとんどだった。深い悲しみにあるはずの人たちが、なぜそのような言葉を書くのだろうか。どうしても直接会って話を聞きたい。聞かなければならないと思った。(社会部記者・山口健)

“13歳からずっと一緒でした”

菅野佳代子さん
「13歳からずっと一緒だったので、仲間みたいな感じもあるし、きょうだいに近いっていうか、常に隣にいて助けてくれる人でした」
菅野佳代子さん(60)。
「お父さん」と呼んでいる夫の誠さんは、中学の同級生。1年生の時は同じクラスですぐ後ろの席でした。「うるさい人だな」というのが最初の印象。同じテニス部に入った2人はその後交際をスタートし、10年後に結婚。3人の子どもが生まれました。
結婚から27年。子どもたちは進学や就職で家を出ました。2人で庭先の植木を楽しみ、家の中で話す時間も増えてきたやさき、誠さんは帰らぬ人となりました。
菅野さん
「どうして?なんで私を置いていくの?ってずっと泣いていました。ずっと頼りにして生きてきたので、どうやって生きていけばいいか先が見えない、どうしていいか分からない状態」

絶望の中に見いだした“支え”

そんな菅野さんが10年前の自分にあてたメッセージが
「お父さんが助けてくれるから大丈夫」
その理由を尋ねる私に、常に自分を見守ってくれる誠さんの存在を感じてきたからだ、と答えてくれました。

行方不明になって4日後、自宅もなくなり、絶望の中にあった菅野さんのもとに近所の人が訪ねてきました。
「これは誠くんのものではないですか」

手渡されたのは汚れていない一枚の図面でした。
流された自宅の設計図。
まめな性格だった誠さんは、自宅を建てる際に「こんな家にしたい」と手書きで間取りなどを設計図にまとめていました。がれきの中に突き刺さるように、残されていた図面。見つかった場所を聞いて訪ねると、がれきの中から年金など生きていく上で必要な書類、そして誠さんの写真が見つかったといいます。
菅野さん
「きっと私は頼りないし、お父さんは『自分がここでいなくなる訳にいかない』と絶対に思ったと思うので。それできっと、せめてもって感じで力を出して残してくれたのではないかと、私はそう勝手に思っているんです」
4年後、高台に再建した自宅は、設計図を参考にして以前とほぼ同じ間取りにしました。
誠さんの部屋もつくり、思い出の品々を並べました。庭には以前の自宅の敷地から抜いて育ててきた“ききょう”やジャーマンアイリスも。
「お父さんが見守ってくれている」
そう感じる出来事が続きます。
去年、長女の愛海(まなみ)さん(34)が初孫の漣君を出産しました。
10月21日。菅野さんにとって特別な、誠さんとの結婚記念日だったのです。

“ずっと引っかかりがあるんです”

夫であり、仲間であり、そして友でもあった誠さんを失って10年。誠さんの存在を感じ、面影を感じられる家や品々に囲まれ、安らぎを感じることもあるといいます。しかし10年のメッセージとは裏腹に、決して区切りがついたわけでも、悲しみに折り合いがついたわけでもないのだということも痛感しました。
菅野さん
「中にはね、割り切ってでも前を向いてとかいうのはあるけど、ずっと引っかかりがあるんです。自分だけ娘の結婚を見たり、かわいい孫を見たりして、申し訳ないなというか、見せたかったなと」
常に寂しさや後悔の思いは消えないという菅野さん。左手の薬指には、2つの指輪がはめられていました。
自分と、誠さんの結婚指輪です。

遺体安置所から誠さんを連れ帰ったあと、指から抜き取りました。
体には傷がほとんどなく、眠るようだったといいます。誠さんは岩手県陸前高田市の職員として、津波が押し寄せる中、市民を誘導しているところを目撃されていました。

10年前の自分へのメッセージは、生きる気力を失う中でも支えになってきた誠さんへの感謝の気持ちと、今を生きる菅野さん自身を後押しする“ことば”にもなっている、と思いました。

あの日から10年 “自分へのメッセージ”

私たちは、あの日の2週間後から東北の方々にアンケートを続けてきました。回答を寄せてくださったのはのべ1万6千人。ことしは初めて「震災直後の自分へのメッセージ」という項目を設けました。

10年の歩みの中でそれぞれの方が感じた最も大切なことこそ、被災直後の自分に語りかけるのではないだろうかと考えたからです。この方は、“命を守る”ことの責任というものに向き合い続けていました。

失われた命と新しくつながった命

「新しい命がつながったよ」

こう書いたのは、岩手県陸前高田市の佐藤健(けん)さん(55)。
市街地全体が高い津波に襲われ、佐藤さんの自宅は全壊。
当時自宅に1人でいた長女の夏実さんは、近所の人と一緒に市役所へ避難しました。
一部4階建ての庁舎のほとんどが水につかる中、屋上にのぼり、九死に一生を得ました。
夏実さんはその後、結婚。おととし10月には初孫の朋季くんが生まれました。メッセージは、この奇跡的な命への感謝を込めたものでした。
しかし、佐藤さんにはこの10年間、片ときも頭から離れない出来事があります。陸前高田市の沿岸にある小友中学校に勤めていた佐藤さん。あの日、佐藤さんと生徒たちは高台に避難しましたが、1・2年生あわせて8人が亡くなったのです。
卒業生を送る会の準備などのため、学校の外にいた子どもたちです。自分の母校でもあり、全校生徒60人ほどの小規模な学校。保護者も顔見知りで、家族のように接していたそうです。

「身の守り方をもっと教えられたのではないか」
何度も頭をよぎったといいます。
佐藤さん
「助けられた命だったのではないかと、ずっと考えています」
さらに、初孫を産んだ長女の夏実さんをめぐっても。
自宅にいた夏実さんは近所の人に呼びかけられて市役所に避難。津波が迫る中、市の職員が屋上へとつながる階段に誘導してくれました。しかし、夏実さんが階段を上がりながら振り返ると、その職員の姿は見えなくなっていました。

あとで亡くなったと聞きました。
生かされた命と、新しくつながった命。そして失われた命。

自分にできることは何か、考え続けてきた佐藤さん。3年後、釜石市の中学校での勤務が転機になりました。

赴任したのは釜石東中学校。子どもたちがみずからの判断で高台へと避難したことで知られています。日頃からの防災教育を目の当たりにして「もっとやりようはあったのでないか」と痛感した佐藤さんは、防災士の資格を取りました。
今は内陸の一関市の小学校で校長を務めていますが、どうやったら自然災害から命を守れるか、具体的な例をもとに子どもたちに語っているといいます。
佐藤さん
「亡くなった彼らの思い、悔しい思い、そういった思いを忘れないで、同じような思いをすることがないように、自分自身で命を守る行動が出来るように伝えたり、おこがましいけど、教えたり、そういったことが自分に課せられた一つの使命なんじゃないかと思っています」

“誰にも言ったことがなかった”

自宅や公園で話を聞いた日の夜。佐藤さんからメールが送られてきました。そこには、「日中には話せなかった」と断ったうえで、告白ともとれる本音がつづられていました。
『教え子たちの遺体が発見されてから、亡くなった子の家にお伺いして、ほとんどの子の遺体と対面しました。みんな、まるで、今にも「せんせー」って言ってきそうな穏やかな顔をしていました。死が迫る恐怖でたまらなかったはずなのに・・・。(中略)。自分は家族が助かり、孫まで生まれて幸せな生活を送っている今、また、もしも防災の教育をしっかりやっていれば助けられた命かと考えてしまう。私が防災教育を進めるのは一種の贖罪かもしれません。それも、自己満足の。でもそうせざるを得ないのが私の正直な心情です』(佐藤さんからのメール)
「命がつながったよ」ということばは、これまで誰にも言ったことがなかったそうです。それは、奇跡への感謝と、消えることのない心のわだかまりを抱えた佐藤さんの、10年をきっかけに踏み出した、決意のようにも感じられました。

「“ばあ”の夢をかなえることができてるよ」

毎年のようにアンケートに答えてくれている女性も、回答を寄せてくれました。

「楽な道のりではないけど、結婚して2人の子どもを産んで“ばあ”の夢を叶えることができてるよ。小さな家だけど幸せに生きてる」
「幸せに生きてる」この言葉の意味を尋ねるため、福島県いわき市に向かいました。

「誰にも話せなかった」

高村早苗さん(34)です。夫と2人の子どもと暮らしています。いっしょに暮らしていた“じい”と“ばあ”祖父の鈴木久太郎さん(当時69)と、祖母の洋子さん(当時70)を失いました。
自宅から避難する途中、津波に巻き込まれたとみられています。洋子さんは今も行方不明のままです。
あの日から12日後に撮影された映像。がれきの中から2人を必死に探す高村さんの姿が残されていました。高村さんにとって2人は共働きで忙しかった両親に代わって、親代わりのような存在でした。
高村さん
「親から“流された、ダメだ”と聞き、そのひと言で、どうしていいかわからなくなりました。私にとっては親が2人ずついるようなもの。自分の気持ちはわかってもらえないから、誰にも2人のことは話さなかったです」

「温かいお湯は使えません」

2年後のアンケートには、見つからない祖母への強い思いが、記されていました。


「祖母はまだ冷たい海の中。それを考えると皿洗い等は温かいお湯は使えません」(2013年の記述)
3年間毎日、冷たい水で家事をしていたという高村さん。生きる希望さえも失いかけた中、支えになったのは、2人からの“ことば”だったといいます。
高村さん
「“仕事だけはちゃんとやれ”って言われていたので、それだけはちゃんとやろうと思っていたから、平常心を保ってやってこられた。それがなかったら、たぶん私はおかしくなっていました。『行方不明の“ばあ”がどう思うかな、心配ばかりしちゃうんじゃないのかな』って」
そして、高村さんは“ばあ”との最後の日の夜に交わしたことばが、忘れられないといいます。

“幸せな家庭を持って欲しい”。
“早苗の結婚がじいとばあの夢だから。結婚相手には一生懸命働く人を選びなさい”

2年後、幼なじみで仕事熱心な紀輝さんと結婚しました。
翌年には長男・絆夢(しゅうと)くんを、そのさらに4年後には長女・椛夢(くれあ)ちゃんを出産。幸せを感じる時間が増えました。それでも時々2人のことが頭に浮かび、悲しみやつらさがよみがえってくることがありました。親になったことでかえって、“じい”と“ばあ”の存在を感じることもあったといいます。

7年目のアンケートには、こう記されています。

「7年たとうが、10年たとうが、心の復興はないと思います」
(2018年の記述)
高村さん
「子どもを山とか海に連れて行っているじゃないですか、そうするとどうしても頭に“じい”と“ばあ”が出てきちゃうんです。必ず”こういう匂いあったな”とか、見るものすべて、2人の思い出が多すぎて、つらいなって」
どうすることもできない喪失感。しかし10年たった今回、「幸せに生きてる」と書いた高村さん。

“懐かしく感じられるように”

変化はこの1,2年だそうです。

成長する子どもの楽しそうな表情を見るうち、“じい”と“ばあ”2人と積み重ねてきた記憶が懐かしさを持って思い出されるようになってきたそうです。
「楽しそうにしている子どもたちに『ママも“じい”とそうだったんだよ』って。『“ばあ”と笑いながらこの料理作ったな』とか、今は楽しくしゃべる事ができる。嫌な思い出、思い出したくなかったことが、『思い出したい』に変わった」
おととし8月、かさ上げなどが行われた沿岸部に再び自宅を建てました。ことしは庭に、キンモクセイを植えました。“ばあ”が親戚の家を訪ねると、いつも『いい香り』と喜んでいた木です。

これまでは“ばあ”を思い出してしまうからと、香りはおろか、見ることさえ避けてきました。
取材の最後に、高村さんはことしつづったメッセージの意味を、こう話してくれました。
高村さん
「10年前の自分に幸せな人生をちゃんと送っているからと自信を持って伝えたい。“じい”と“ばあ”の分まで、しっかりと生きていく、心配しないような人生を送っていくことできっと2人も安心してくれると思う」
前を向く覚悟をメッセージに記した高村さん。取材中も常に明るく接してくれました。区切りを感じつつあるのかな、と私は感じました。

ただ、“じい”と“ばあ”の写真を前にした時だけ、様子が違いました。2人の顔を見つめると、自然に涙があふれでるのだといいます。実家の仏壇でも、写真がみられない、といいます。

取材を終えたその日の夜、高村さんから私の携帯にメッセージが送られてきました。
『人に震災の事を口に出すのはやはり色々と今までの事を鮮明に思い出しちゃいますね・・・けど受け入れられているから笑顔で話せることもあり、きょう話してみて確信しました!大丈夫!これからも思い出と共に生きていけると!』
あのメッセージには自分を奮い立たせる意味も含まれているのだと感じました。

あの日の夜に届いたメール

そして、ことしの3月11日の夜。再び、メッセージが届きました。
『10年の節目に思いっきり泣きました。たくさん泣きました!また、10年いい報告をたくさんばあとじいに出来るようがんばります!』
私は、何度も読み返し、なかなか返信できずにいました。

あなたがいない10年

10年を区切りとして前を向く人たち。
悲しみに立ちすくむ人たち。
2つの感情は決して割り切れるものではありません。
まだ、ことばに表すことすらできない、という人もいます。

大切な人を失った喪失感を抱えながら生きていくとはどういうことなのか。
前向きなことばを通して、むしろその難しさを感じました。

これからも私たちは、そのことばに隠された心の声に、耳を傾け続けなければならない。
強く思いました。
社会部記者
山口健
2006年入局
沖縄局勤務などを経て
2013年から社会部
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