あのとき、私は悲しんでよかったんだ

あのとき、私は悲しんでよかったんだ
「私が語ってもいいのかな…」

自分の中に閉じ込めてきた東日本大震災の記憶は、これまで誰にも話さずにいました。
あれから10年。
思い切ってことばにしたとき「私は悲しんでよかったんだ」と、ようやく、そう思えるようになったんです。
(ネットワーク報道部記者 野田綾 玉木香代子)

笑顔あふれる写真だったはずなのに

2月、ツイッターに投稿されたある漫画が話題になりました。

主人公の「私」は10年前、宮城県気仙沼市の写真スタジオでアシスタント兼デザイナーとして働いていました。

漫画は、主人公のこのことばで始まります。
来月で東日本大震災から10年という事でこの場を借りて私の経験した事を描いていこうと思います
働き始めて約1年後、21歳の時に東日本大震災が発生。

自宅や職場に被害はなく事態を実感できない「私」に、上司が告げます。
これから信じられないくらい忙しくなるからな。遺影写真の作成依頼が来るんだよ
多くの人が亡くなり、葬儀屋などを通じて頼まれた遺影の制作。

最初の依頼は若い男性の写真でした。

「若いのに気の毒だな…」とは感じたものの、特に何も思わず写真を遺影に整えました。

それからしばらくして、入学記念のスタジオ撮影の依頼がありました。

訪れたのは女の子とお母さん。
手に抱えていたのは「私」が初めて携わった、あの若い男性の遺影です。

本来なら、3人の笑顔があふれるはずだった写真。

女の子は最後まで笑った顔を見せることはありませんでした。

「私」は自分の考えの甘さを痛感します。

スタジオにはその後も数え切れないほどの遺影の依頼が来ました。

津波で亡くなった母親と2人の子どもの姿を1枚の写真にまとめたものや、成人式の晴れ姿を元にした遺影。

息子の死を受け入れられず何度も作り直すよう頼まれることもありました。
最もつらかったのは、スタジオで七五三の写真を撮った女の子の遺影を作ったときのことでした。

一緒に楽しく撮影した日の笑顔を、思い出さずにはいられなかったからです。

10年がたった今でも、涙があふれてしまう。

そんな「私」は、漫画をこう結びました。
図々しくはありますが、被災地に住む人間からひとつお願いがあります。ご面倒ではありますが、3月11日だけは1分でもいいのでご家族大切なパートナーと防災について考え話してみてください

自分の苦しみを表に出してはいけない

漫画を描いた、あいしまさんに話を聞くことができました。

遺影の制作は感情を押し殺さなければできなかったそうです。

スタジオには震災で家族や大切な人を失い、途方もない悲しみを抱えた人がたくさんやってきました。

親を亡くした子どもや遺体を運ぶ手伝いをした高校生など、たくさんの子どもたちがつらい思いをしている現実も知るようになりました。

「みんなどれだけつらかったろう」と思う一方、何もできない自分の無力さを感じ、胸の中で苦しさが大きくなっていきました。

そのつらさに耐えきれず、震災から2年ほどして仕事を辞めました。

結婚して1児の母となったあいしまさん。

当時のつらい記憶は薄れるどころか時がたつにつれて蓄積し、思い出すことが増えていきました。

入学記念の写真を撮った親子と自分を重ね合わせたり、息子の安らかな寝顔を見ては亡くなった子どもたちを思い出したりして、途方もない不安に襲われることもあったといいます。

ふだんの悩みなどは人に話して解消するというあいしまさんですが、震災についてだけは誰にも話すことはしませんでした。

家族の死に直面した人の大きな悲しみを、自分の中に特別な感情として抱えていたからです。
あいしまさん
「このつらい気持ちは私のものではなく、遺族の悲しみなんだ。だから、自分の経験や苦しみを表に出したり、誰かに言ったりしてはいけないんだと感じていました。もしも自分が話していることを遺族が知ったら、悲しみをぶり返してしまうことになるのではと怖かったんです」

「私はあのとき、悲しんでもよかったんだ」

今も気仙沼で暮らしているあいしまさん。

「もう10年」や「区切り」などということばを見聞きするようになりました。

被災地の私たちは今も変わらず悲しみが続いているのに、社会では震災の記憶が日常に埋もれ「一昔のこと」になろうとしているのではないか。

悲しみを抱えた人たちを見てきたからこそ、災害について考えてもらいたいという気持ちが芽生えたそうです。

生まれ育った街や人々のことを知ってほしいという強い思いに突き動かされるように、一気に漫画を描き上げました。

しかし、こんな思いもよぎります。

「私が震災を語ってもいいのかな。みんなにどう受け止められるだろうか」

不安の中で投稿した漫画。

「生きていることが幸せなんだ」
「震災大国だからこそ、それぞれの記憶を忘れちゃダメなんだよね」などと、共感の声がたくさん寄せられました。

伝えたかったメッセージが多くの人に届き、一歩を踏み出してよかったと感じたそうです。
あいしまさん
「10年間しまい込んでいた悲しみを共有することで、私はあのとき悲しんでもよかったんだと再認識できました。たくさんの人に防災について考えてもらえたことをうれしく思います」

一瞬で変わってしまった日常

被災したふるさとから離れたことで、長く心に葛藤を抱えた若者もいます。

岩手県釜石市で生まれ育った狐鼻若菜さん(25)。
10年前のあの日、卒業式を間近に控えた中学3年生でした。

経験したことのない揺れに襲われ、先生や同級生と一緒に高台へ走って避難しました。

逃げる途中に聞こえた、防災無線のサイレン。

さっきまで通っていた通学路や街が、海に沈んでいく恐怖。

「家族が流された」と泣き叫び、過呼吸になる同級生の姿。

若菜さんの家族は無事でしたが自宅が被害を受け、水や電気の無い避難所で過ごしました。

空腹の中、おにぎりを半分ずつ分け合い、梅干しの入ったほうをそっとくれた、友人の優しさを感じながらも、気持ちは常に張り詰めていました。

変わり果てた日常に現実味がわかず、受け入れられない時間がしばらく続きました。
卒業式を終えると、若菜さんは慌ただしく母の実家がある福岡県へ引っ越しました。

気持ちを閉じ込めようとしていた

ふるさとから1000キロ以上離れた九州での生活は、水道や電気が不自由なく使え、余震におびえることもありませんでした。

新たな暮らしに慣れたころ、若菜さんは次第に心に葛藤を抱え、苦しむようになります。

「卒業式のあとカラオケに行って、震災のことはあとで知った」

福岡の友人が何気なく言ったひと言です。

恐怖の中で過ごした3月11日。

あの日に起きたことを知ってほしくて、釜石のニュースがあるから見てねとさりげなく伝えたときも「親が違うテレビを見てるから」との答えが返ってきました。

自分の人生を変えた出来事なのに、受け止め方がこんなにも違うのかという驚きと悲しさが生まれました。

家族も震災の話はあまりせず、テレビで津波の映像が映ると、母親が心配してチャンネルを変えることがありました。

友達に話しても受け流されたり、誰かに気を遣わせたりするくらいなら「震災のことを人に話さないほうがいいいのかな」という気持ちになっていったといいます。

一方、釜石が大変なときに自分だけ逃げ出したような後ろめたさや、ふるさとに残る友人のことを思って弱音を吐いてはいけないと、苦しさを心の中にしまい込むようにもなっていきました。
若菜さん
「釜石は涙が出るほど恋しくてもさみしくても帰れない『遠い存在』でした。グレーがかった空や通学路、友達と遊ぶ姿を夢に見ては朝、目覚めて孤独に駆られていました。あのときは気持ちを閉じ込めようとしていたと思います」

つらいって言ってもいいんだ

若菜さんが釜石や自分の気持ちと向き合いはじめたきっかけは、大学生の夏休みでした。

ふるさとで語り部をしていた友人に誘われ、関西の学生との交流会に参加しました。

数年ぶりに釜石に戻った若菜さん。

地元の学生たちが、自分の体験を涙を流しながら語り、それに真剣に耳を傾ける人の姿に衝撃を受けました。

誰かに話したら気を遣わせる、分かってもらえないと、避けてきた震災の話。

若菜さんは、福岡で感じた温度差や、釜石に引け目を感じてきたことなど自分の正直な気持ちについて初めて振り返り、交流会の場でみんなに打ち明けました。

そうする中で、自分の中の「語りたい」という感情があふれ出しそうになるのを自覚したといいます。
若菜さん
「『つらいって言ってもいいんだ』と気づかされた時間でした。真剣になって話をすれば、しっかり受け止めてくれる人がいて、自分にも救える命があるのかもしれないと」

私にも何か出来る 友人のことばが後押しに

その後、九州に戻った若菜さんは、各地で語り部の活動をするようになりました。

震災の被災地を代表しているかのように思われ、自分のことばがすべてと受け止められはしないだろうか。

大切な人を亡くし、いまだに話すことができない友人は、自分の活動で嫌な気持ちにならないか。

そうした葛藤を打ち消し「私にもきっと何か出来る」と背中を押してくれたのは、ふるさとで暮らす友人の言葉でした。
若菜さん
「釜石で語り部の発表をしたとき、聞きにきてくれた友人が『若菜らしかった』と言ってくれました。そのひと言で自分が受け入れられた、やっていることに自信を持っていいんだと、孤独だった気持ちがほぐれた気がしました」

つながりの中で孤独が薄れて

現在、横浜で塾講師を務めるかたわら、好きな絵を書き続けている若菜さん。

去年9月、釜石の仲間から依頼され、久しぶりに帰郷して絵を描きました。
グレーがかった水色の澄んだ寒空。

高校時代、恋しくて何度も夢で見た景色を重ねました。

あんなに遠く感じた釜石に、新たなつながりや帰る場所ができたいま、若菜さんは近い将来、ふるさとで子どもたちの学びのサポートがしたいという夢を持っています。

(もし10年前の自分に言葉をかけるとしたら…)

問いかけに若菜さんはこう答えました。
若菜さん
「つらかったし悲しかったけど、その経験がいま自分が自分らしく生きていくためのヒントになってるから、しっかり悩んで大丈夫だよ。って言いたいです」
震災の体験や向き合い方は人それぞれ違います。

つらい経験を勇気を持って言葉にしてくれる人。

言葉に出せず胸に秘めている人もいるはずです。

こうした人たちの言葉や思いをどう受け止めるか。
これからもずっと考えていきたいと思います。