思いをつなぐ バスケをつなぐ

思いをつなぐ バスケをつなぐ
暗闇に包まれた街。変わり果てたふるさとの姿。
無力さを感じながらも、自分にできることは何か考え続けた。
あの日から10年。ユニフォームを脱ぎ、経営者となった今も、彼は考え続けている。
(スポーツニュース部 記者 橋本剛)

“バスケはもうできない”

2011年3月11日。遠征先の新潟にバスで向かう途中だった。
「かなり強くて、バスが倒れるかなというくらいの揺れを感じました。バスのテレビで見たのは、仙台の空港が津波にどんどんのまれていくところとか、そういうニュースがあって自分たちの街にかなり被害が出ていると…」
10時間かかって戻った仙台。停電で街は暗闇に包まれていた。
鳴り止まないサイレンの音、時おり漂う火災の臭い。
道路にはいたるところに亀裂があった。
バスケットボール、Bリーグ2部の仙台89ERSの社長、志村雄彦。現在社長として経営のかじ取りを担う志村は、当時チームの中心選手だった。
仙台出身で、仙台高校から慶応大学に進み、高校、大学ともに全国制覇を成し遂げた。実業団チームを経て、地元の仙台89ERSに加入。身長は1m60cmと小柄ながら、司令塔として闘志あふれるプレーでチームを引っ張っていた。
「昨晩、遠征先の長岡から帰ってきて見た光景は信じられないものでした。
テレビで報道される内容はあくまでも氷山の一角でしかないので、現実を目の当たりにしてショックが大きすぎて言葉になりませんでした。
明かりのない街は不気味なほど静かでときおり鳴り響くサイレンの音、まだなお続く余震、道路には亀裂、東の空は赤く染まり・・・
1日で全ての景色が変わってしまいました・・・」
(志村さんの当時のブログより)
試合で使っていた県内各地の体育館は、避難所や遺体安置所となり、クラブの事務所も被害を受けた。
数日後、志村は当時の社長からこう告げられた。

「ホームゲームはもうできない。チームは解散する」
志村雄彦さん
「仙台では二度とプレーできない。バスケットができる所まで戻すのはもう無理なんじゃないか。当時の被災地はそれぐらい衝撃的な光景だった。自分も1週間ほどはどうやってご飯を食べるのか、水が出るのか、生きていけるのかという状況で、バスケットを考えることすらなかった」
「こんな状況では、選手に価値はない」とまで思った。
追い立てられるように支援物資の荷受けや避難所の訪問を始めた。
津波で大きな被害を受けた名取市の避難所を訪れた時、子どもたちと一緒にバスケットボールをすることになった。
「最初は遠慮気味だった子らも気づいたらどんどん白熱してやってくれてて、終わった後にはみんなの笑顔が見られたのでとても嬉しかったなぁー
バスケットの力を感じさせる1日でした」
(志村さんの当時のブログより)
そして、みずからにできることは何か、改めて考えた。
「このぬいぐるみを見つけた時は言葉を失ってしまいました・・・

簡単に前を向いていこう!と言えるような状態ではありませんでした。

しかし人々は生きようとしています。必死になって生きています。

僕も力を出さなければいけませんね・・・」
(志村さんの当時のブログより)

“最善の方法”

震災から2週間後、志村は大きな決断をする。
リーグの救済措置による沖縄の琉球ゴールデンキングスへのレンタル移籍だった。
ブログには仙台を離れることを決めた当時の心境をつづった。
「仙台を離れて自分はバスケットボールを続けるべきなのか?

仙台に残ってやることはあるのではないか?

志村雄彦はこの愛すべき故郷の未曽有の危機にどのように向き合っていくべきなのか?

自問自答する日々でした。

バスケットボール選手として、プレーし続けることで仙台・宮城のみんなに夢と希望を与えることが僕に出来る最善の方法であると思い今回の決断にいたりました」
(志村さんの当時のブログより)
悩み、葛藤した末、行き着いた思いだった。
被災地に少しでも活気を取り戻したいという願いから、沖縄では「89ERS」にちなんだ背番号「89」をつけてプレーした。
沖縄時代のユニフォームはいまも志村の手元にある。
ユニフォームには震災で亡くなった人たちを追悼するため左胸につけた黒い喪章、そして沖縄のチームメイトのサインが記されている。
その後、仙台ではクラブの存続を求める2万人以上の署名が集まり、被災した中でもスポンサーを継続した企業や金融機関の後押しを受けて、半年後に活動を再開。
沖縄でそのシーズンのリーグ準優勝を果たした志村には、複数の強豪からオファーがあったが志村は「これも運命かもしれない」と仙台に復帰。
2017-18年シーズンで引退するまで、仙台一筋を貫いた。

震災を伝えていく

毎年3月11日に志村が訪れてきた場所がある。
震災遺構として整備された仙台市立荒浜小学校。高校までを仙台で過ごした志村にとって、学校近くの海水浴場は何度も訪れた思い出の場所だ。
かつて松林があった海辺はすべてが津波で流され、一望できるようになっている。
志村は若い選手やスタッフとここで黙とうし、今も仙台でプレーできることの意味を伝えている。
志村雄彦さん
「ふだんの生活で震災を思い出す瞬間は年々少なくなってきているが、仙台という被災した土地のクラブだということを忘れないでほしい。バスケを見たくても見られなかった人、仙台でプレーしたくてもできなかった選手がいたことを知ってほしい」

被災地にバスケを届ける

現役を引退した志村はクラブのゼネラルマネージャーを経て去年、社長に就任した。就任と同時に打ち出したのが、県内各地での試合開催だ。

Bリーグの規定では、ホームゲームの多くを仙台で行うよう定められているが、今シーズンは新型コロナの影響に配慮して規定が緩和された。
志村はこの10年間の地域への感謝を示そうと、南三陸町や名取市など津波の被災地を含む県内7市町で開催することを決めたのだ。

クラブのスタッフは志村を入れても15人という小所帯にとって、宮城県内を回るのは楽ではない。12月下旬に内陸の町で開催したときには、スタッフ総出で会場の雪かきに追われた。それでも志村は“バスケを届ける”ことにこだわった。

県内各地での開催に手応えを感じる出来事があった。
イベントで使う花を宮城県角田市に受け取りに行ったとき、農家の女性からこんな言葉をかけられた。
「ミニバスケットボールをやっている娘が、コロナ禍で試合ができずにいたので、一緒に見に行きました。私の方が興奮したくらい、久々に楽しい気持ちになりました」
選手がバスケに汗を流し、見る人が熱中する「日常」を作ることが一番の恩返しではないか。震災を経験し、選手から社長となった今、志村はその思いを強くしている。
志村雄彦さん
「(震災当時)避難所を訪問した時に子どもたちがバスケットをしたことで、笑顔になったり楽しそうにしてくれたり、そういうのを届けるのが僕の仕事だなと思ったので、(バスケを)続けようと決意しました。選手から社長になって立場は変わりましたけど、そういう場を作って、しっかり試合をしていくことで1人でも多くのお客様に喜んでもらって楽しい時間を過ごしてもらう。
震災と新型コロナで状況は違いますけど、ゴールが見えない点では似ているところがある。試合を見る、その一瞬だけでも不安な気持ちを払拭(ふっしょく)できるものをお見せしたい」

仙台の可能性を信じる

1月下旬、志村は37度9分の高熱に見舞われた。検査の結果、新型コロナの陽性が判明。軽症だったものの、味覚や嗅覚が薄れて食事が満足にとれず、熱がひいた後も、けん怠感が2週間続いたという。
その翌週にはチームのヘッドコーチも陽性となり、2試合が中止となった。

さらに2月13日、宮城県で震度6強の揺れを観測する地震が発生し、翌日の試合が中止された。

1部昇格に目指すクラブは地区の4位(3月7日時点)。東と西の2つの地区から昇格できるのは計2チームで、昇格を決めるプレーオフへの出場圏内にはいるが、勢いに乗り切れない厳しい状況が続いている。

それでも志村は10年前の苦境を乗り越えたクラブの、そして仙台という地の可能性を信じている。
志村雄彦さん
「あのとき、10年後に仙台でバスケットができるとは思っていませんでしたが、多くの方の支援だったり助けによってこの10年、また宮城・仙台でも試合ができる環境を作っていただいた。
僕たちがそれをつないで文化に根付かせて、必ず日本一強いクラブになっていくというのが目標です」