妻を呼び続ける夫 息子にメールを送る父 行方不明者家族の10年

妻を呼び続ける夫 息子にメールを送る父 行方不明者家族の10年
なんの前触れもなく、最愛の家族と離ればなれになり、10年が経過しても、どこにいるのかさえ分からない。
東日本大震災で、行方が分からなくなっている人たちの家族や知人が置かれている現状です。
「会いたい」
10年間、待ち続けている人たちの声です。
(仙台放送局カメラマン 上田大介、静岡放送局カメラマン 福原健太郎)

妻を探し続ける男性

「おっかー」

ことし2月11日。

宮城県石巻市のまもなく開園する復興祈念公園に向かって、こう呼びかける男性がいました。

石巻市の災害公営住宅に1人で暮らす荻原哲郎さん(82)です。

10年前の東日本大震災が発生してから、毎月、月命日にあたる11日に必ず自宅の跡地を訪れています。

自宅があった場所は工事が進んでいて近づくことができないため自宅があった場所が見える場所を探しながら呼びかけを続けてきました。
なぜこの場所に通い続けているのか。

荻原さんは震災当時72歳だった妻の友子さんと2人暮らしでした。
震災が起きたあの日、荻原さんは、持病の検査のため1人で病院に行っていました。

自宅には友子さんが1人で留守番をしていました。

そして大きな揺れとともに津波が自宅に押し寄せました。

荻原さんは必死に友子さんを探しましたが、見つけることはできませんでした。

手がかりも見つかっていません。

忘れられない後悔

代々続く電気工事の会社を経営していた荻原さん。

2人のこどもを育てあげ会社を切り盛りすることができたのは友子さんのおかげだったと感じています。
そんな友子さんは実は足が不自由で、1人で歩くことも難しかったといいます。

それでも周囲に心配をかけたくないと、ひとりでは歩けないことを子どもたちや近所の人には知らせていませんでした。

哲郎さんにもかたく口止めしていました。

震災が起きた日、2人は一緒に病院へ行こうと話をしていました。

それでも短時間で戻るからと結局、哲郎さんひとりで病院へ行くことになりました。
友子さんと一緒に病院へ行っていれば、離ればなれになることはなかった、せめて近所の人たちに友子さんの足が不自由だったことを伝えておけば、救助してもらえたかも知れない。

荻原さんは行方が分からないのは自分の責任だといまも強く感じています。

「後悔」と「会いたい」という気持ち。

自宅のあった場所に通い、「おっかー」と呼び続けている理由でした。
荻原哲郎さん
「あのとき自分も一緒に津波で流されていれば、生きていても死んでいても後悔はなかった」

語りかける思いに変化

荻原さんは「出てきてくれ」、「ごめん」と思いながら友子さんに呼びかけてきたといいます。

それでもここ数年、日々の出来事や何気ない日常についても友子さんに語りかけることができるようになりました。

その理由は全国各地から訪れるボランティアの人たちとの出会いでした。
これまで妻と離ればなれになった喪失感に飲み込まれそうになる時期もあったといいます。

それでも多くの人の支えがあって自分は生きていることができる、妻を忘れないでいられると実感したといいます。

だからこそ、その思いを妻にも伝えたいと考えることができるようになりました。

変わらない「会いたい」気持ち

そしてことしの2月11日。

震災発生から9年11か月の月命日です。

災害公営住宅に1人で暮らす荻原さんは、友子さんの写真に「行ってきます」と声を掛けて元の自宅のあった場所に向かいました。
そして自宅があった場所を見ることができる場所を見つけました。

その場所は海からの強い風が吹きつけていました。

「おっかー」
荻原哲郎さん
「まずありがとうっていうのが一番だね、こうやっていまの自分がいられるのもおまえのおかげだよって、おまえがいなくなってから、俺もなんとかやってきたんだよって伝えました」
「会いたい」。荻原さんはこれからもこの場所に通い、呼びかけ続けます。
警察庁と復興庁によりますと去年12月10日現在、▼東日本大震災で亡くなった人は、これまでに全国で1万5899人、また、▼いわゆる震災関連死は3739人。そして▼行方不明者は2527人となっています。

メールを打ち続けること

「どこに居ますか?教えて」
「ごめんなさい」

宮城県登米市に住む佐藤宏行さん(64)が震災当時、16歳だった長男の久佳さんの携帯電話に送ったメールの文面です。

久佳さんが10年前の東日本大震災で行方が分からなくなったあと、佐藤さんはずっと久佳さんにメールを送り続けています。
10年前、佐藤さんは妻の恵美さん(59)と佐藤さんの両親、それに長男の久佳さんと5人で宮城県南三陸町で暮らしていました。

そして震災の発生。

佐藤さんの自宅も津波に巻き込まれました。

当時、佐藤さんと恵美さんは留守にしていて、佐藤さんの父親は近所に、自宅には佐藤さんの母親と、当時高校生で試験休みだった久佳さんがいたとみられています。

その後、佐藤さんの父親は遺体で見つかりましたが、母親と久佳さんはいまも行方不明のままです。

メール打ち続ける理由

震災直後、佐藤さんは久佳さんを探し、同時に久佳さんの携帯電話に電話とメールを送り続けたといいます。
「あと10分で津波到着予定だそうです」
「今はどの辺に居たの?高い所に避難してるか?」

しかし、行方が分からず、手がかりさえいまも見つかっていません。

「自分が一緒にいれば助かったのではないか」、「どこかに久佳はいるはずだ」。

助けることができなかった後悔と生きていて欲しいという願いから久佳さんの携帯電話を解約せず、毎月11日や思い立ったときにいまもメールを打ち続けているのです。

忘れることなんてできるわけがない

久佳さんは料理が得意で、休日には家族の食事を作ってくれることもあったといいます。
口癖は「将来、両親を楽させてあげる」。

家族を大切にする子どもでした。

家族思いの久佳さんが、体が不自由なおばあちゃんを助けようとしていたはずだと考えるといまも苦しい思いがこみ上げてくるといいます。

「忘れることなんてできるわけがない」

佐藤さんが、私たちに繰り返しもらした言葉です。

10年で分かったこと

2年前に、定年で仕事を退職した佐藤さんは、いまも、元の自宅のあった南三陸町のガソリンスタンドでアルバイトを続けています。

久佳さんがいつか帰ってくるかもしれないという思いからです。
震災から2年後くらいに先祖の墓を建てなおしました。

アルバイトのあとは墓に立ち寄っています。

墓碑銘に久佳さんの名前を入れるかどうかとても悩んだといいます。

亡くなったとは思いたくないという佐藤さんですが、誰かが来て手を合わせてもらえる場所が必要だと考え、名前を入れました。

この10年で新たな発見があったといいます。

墓を建ててから、久佳さんの同級生が来てくれたことがありました。

そこで、久佳さんが同級生をいじめから救ってくれたことがあったと聞きました。

両親が知らなかった話でした。
佐藤宏行さん
「その人の中にも久佳が生きているんだなって。生きててくれる。友だちの中にも1人1人の中に生きてて、生きているんだなあって」
そして、ことし2月10日。

ある人が佐藤さん夫妻を訪ねてきました。
遠藤水華里さんです。

4歳から震災が起きるまで久佳さんにピアノを教えていた先生です。
メールで久佳さんから恋愛相談を受けたり、お互いの悩みなどを打ち明けたりしていたこともあり遠藤さんにとって久佳さんは友達のような存在だったといいます。

遠藤さんのピアノ教室も被害を受けました。再開しましたが、教え子で唯一行方が分からないのが久佳さんでした。

「戻ってきて欲しい」

遠藤さんも久佳さんにメールを送り続けていましたが、数年前から送信できなくなりました。
遠藤水華里さん
「帰ってきてもらいたいっていう気持ちで、一生懸命、「出て」っていう気持ちでやってました。だんだんそれが、返事が返ってこないとか、電話に出ないっていうことが、辛くなってきて、あ、いないんだって思い知らされるっていうか、そう思ったら今度は逆に、だんだんできなくなった」
遠藤さんは佐藤さんとこれまで街中で顔を合わすことはありましたが、今回はひさしぶりに自宅を訪ねました。

会うことで佐藤さんたちを傷つけてしまうのではないか。

そんな不安を抱えながらの訪問でした。

遠藤さんは久佳さんが好きな子に告白したときのことや卒業旅行などのエピソードを伝えました。

いずれも両親が知らない話でした。
佐藤宏行さん
「なんで、もっと話いろいろしなかったんだろう」
遠藤水華里さん
「時々、突然、どうしようもなく久佳に会いたくなって、1人で、泣いたりもしてるし。なんだろう、それは、伝えたからといって、お2人のなぐさめになるかっていえば、そこはわからないけど、それでも、勝手に、ヒサのことを思って、時間が経てば経つほど、大事だなぁ、って。思います」
「もう一つだけ言いたいのはね、久佳を、産んでくれてありがとうって私思う。なんか、それだけは私2人にきょうは、言いたいと思った。一生久佳を思ってもいいでしょうか」
佐藤宏行さん
「はい、ありがとうございます。なんか久佳が、もう遠藤さんのなかで生きてるっていう感じで」
遠藤水華里さん
「うん、もう一緒に生きてるんだもん。相棒」
佐藤さんが、この10年で分かったこと。

それは久佳さんが、多くの人たちの心にいまも生き続けていることでした。

送ったメールは

2月11日。

震災から9年11か月のこの日、佐藤さんは墓の前でメールを送りました。
「居なくなってから9年11か月経ちました、ごめんね、いつか夢でもいいから会いたい」

「会いたい」。佐藤さんは久佳さんにこれからもメールを送り続けます。

行方不明の人たちの家族の声

2527人。

東日本大震災で行方が分からなくなっている人の数です。

今回の取材を通じてこの数字の裏側には不明者それぞれの人生があったこと、その人を思い続けている人が多くいることを改めて思い知らされました。

被災地では、この10年で復興や復旧が進み、被災した人たちも以前の生活を取り戻すために必死に動き続けています。

震災がもたらした悲劇を忘れずいまも向き合い続けている人の声を忘れない。

カメラマンとしてファインダー越しに震災に向き合う人たちの姿と声をこれからも見続けていきたいと思います。
仙台放送局カメラマン
上田大介
2011年入局
釧路局、甲府局を経て
2018年夏に仙台放送局へ
震災に関する取材、撮影を
中心に担当
静岡放送局カメラマン
福原健太郎
2004年入局
東日本大震災発生当初から
被災地に通い続ける
静岡では冨士山関連の
取材にも取り組む