歴史を“探偵”し続けて 作家 半藤一利が遺したもの

歴史を“探偵”し続けて 作家 半藤一利が遺したもの
「昭和史と太平洋戦争の“事実”を探偵することにのめりこんできて、いつの間にか九十歳の老耄れ(おいぼれ)となってしまった」
ことし1月に亡くなった、作家の半藤一利さん。
自身最後となる原稿に、みずからの人生を振り返るように、こう書き残していた。みずからを“歴史探偵”と呼び、当事者への徹底的な取材、そして、史料の検証によって昭和という時代に向き合い続けた半藤さん。私たちに遺したものは、いったい何だったのか。
「遺稿」を手がかりに、そばにいた人たちのことばに耳を傾けた。
(社会部 記者 横井悠)

残されていた“最後”の肉筆原稿

これが、確認されている中では最後となった、半藤さんの「遺稿」だ。
「半藤文字」とも称される、独特の柔らかな字体。愛用していたという3Bの鉛筆で、原稿用紙6枚にわたって、したためられている。

2月19日に出版された自身の随筆集「歴史探偵 忘れ残りの記」のあとがきとして、去年11月末、古巣の文藝春秋社に託されていた。

担当編集者の水上奥人さんは、これが半藤さんの最後の原稿になるとは、想像さえしなかったという。
文藝春秋 文春新書編集部 水上奥人次長
「電話で、何度かやりとりしたのですが、どのように本をまとめればよいかという編集的な視点のアドバイスももらいました。12月には、『こういうタイトルにしたい』という要望ももらっていたので、お加減がすごく悪いとか、これが最後の原稿になるとは、まったく思っていなかったです」
「遺稿」の冒頭、半藤さんは、こう記していた。
「わたくしは、ゴルフもやらず、車の運転もせず、旅行の楽しみもなく、釣りや山登りも、とにかく世の大概の方がやっている趣味は何一つやらない」
「ただただ、昭和史と太平洋戦争の“事実”を探偵することに若いころから妙にのめりこんできて、一人でコツコツと続けてきて、いつの間にか九十歳の老耄れとなってしまった」

歴史を“探偵”する理由

半藤さんは、東京大学文学部を卒業後、昭和28年に文藝春秋社に就職。駆け出しの編集者時代に出会った、作家 坂口安吾のことばが、“歴史探偵”としての出発点だ。
半藤さん
「『歴史というのは、文献と文献の間に何かおかしいものが必ずある、そのときはしっかりとした推理、探偵をする必要がある。調査して、分析して、さらに推理を加えて、間違いない事実を掘り出すんだ』と」
「なるほど歴史っていうのは面白いと、そういうふうな見方をすると、どんどん新しい事実が出てきて、こんなに面白いものはないと思いました」
(2008年8月放送 NHK「100年インタビュー」より)
そして半藤さんは、昭和史や太平洋戦争に関するものを中心に、次々と作品を発表する。

終戦の日、玉音放送に至るまでの24時間の舞台裏を描き、ベストセラーにもなったデビュー作、「日本のいちばん長い日」。
昭和14年に起きた旧ソビエト軍との軍事衝突、ノモンハン事件での旧日本軍の無謀な作戦ぶりを批判した「ノモンハンの夏」。

徹底的な当事者への取材、そして史料に基づく緻密な検証によって、あの戦争とは何か、昭和とはどんな時代だったのかを、私たちに教えてくれた。
半藤さんと40年以上の付き合いがあり、互いを知り尽くした盟友でもある、ノンフィクション作家の保阪正康さん。
「歴史が都合良く解釈されることを許してはいけない」という思いが、“歴史探偵”としての半藤さんの原動力だったと考えている。
保阪正康さん
「探偵というのは、歴史の解釈を先行させないで、実証主義的に史実を検証するという意味です。事実をして歴史を語らしめるために、その時代に生きていた人たちが何を考え、どんな気持ちで戦争と向き合ったのかを取材したり、史料に当たったりして、徹底的に事実を解明しようと」
「都合の悪いものは全部削っていくのが一番楽だけど、それは政治的、個人的な感情のもとで歴史を利用している。歴史は先達が生きてきた姿なんだから、その姿をきちんと見つめようと言っていました。半藤さんは、近現代史を“足で書く”先駆者でした」

原点“戦争への怒り”

昭和、そして戦争と向き合い続けた、半藤さん。その根底にあったのが、自身の戦争体験だ。
東京の下町、向島で生まれ育った半藤さんは、14歳の時に東京大空襲を経験した。
一面、火の海となった東京。多くの人たちが犠牲となる様子を、ただ見ていることしかできなかったという。
その光景を前に、半藤少年は誓ったことがある。

「絶対」ということばは、二度と使わない、ということだ。
半藤さん
「あのときわたくしは、焼けあとにポツンと立ちながら、この世に『絶対』はない、ということを思い知らされました。絶対に正義は勝つ。絶対に神風がふく。絶対に日本は負けない。絶対にわが家は焼けない。絶対に焼い弾は消せる。絶対に自分は人を殺さない。絶対に…、絶対に…」(「焼けあとのちかい」より)
半藤さん
「当時、『絶対に日本は勝つ』とか『絶対に火は消せる』とか、たくさんの『絶対』が周りに山ほどあったわけですね。そういうものは嘘だと。これからはもう絶対なんてことはないと、それは本当に強く思いました」(NHK「100年インタビュー」より)
「自分だけが特別な経験をしたわけではない」と、長年、自身の戦争体験を話してこなかった半藤さんだが、晩年になって、むしろ積極的に語るようになった。

近くで半藤さんを見続けてきた保阪正康さんは、戦争を体験した人が次々と亡くなり、その悲惨さを語り継ぐ人がいなくなる中、自分がその役割を担わなければという使命感からだと証言する。

そして、おととし出版したのが、初めてとなる絵本、「焼けあとのちかい」だ。

次の時代を生きる子どもたちに、戦争について正しく知ってもらいたいと書いたというこの絵本。その最後は、こう締めくくられている。
「いま、あえて『絶対』という言葉をつかってどうしても伝えたい たったひとつの思いがあります」
「戦争だけは絶対にはじめてはいけない」
大月書店 編集部 森幸子さん
「『絶対ということばは使わない』という信念はよくわかっていたので、とても悩みました。でも、半藤さんの戦争に対する思いを伝えるためには、このことばがどうしても必要だと思い、制作の途中で、思い切ってこちらから提案したんです。半藤さんは、『葛藤はあるけど、ここで使わざるをえないよな』と、了解してくださいました」
「軍関係者に話を聞いたり、自分で調べたりして、戦争は、始まったら止めるのがいかに難しいかを痛いほどわかっているから、とにもかくにも、戦争を始めたらいけないんだということを伝えたかったのだろうと思います。子どもたちを自分と同じ目には遭わせたくないと」
保阪正康さん
「半藤さんの歴史観の根底にあるのは、戦争への強い怒りです。戦争の体験者がいなくなって記憶が薄れると、今度は、逆に美化する人たちがいることを恐れていました。『絶対に戦争をはじめてはいけない』というのは、半藤さんの全人生を懸けた、戦後ただ1回使ったことばだと思います」

“歴史探偵”が遺してくれたもの

半藤さんの「遺稿」には、もう1つ、印象的な記述がある。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことはふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと」
劇作家の井上ひさしさんから教わったという、文章を書くときの「心得」だ。
保阪正康さん
「井上ひさしさんも言っていますが、半藤さんも、最高の名言として書き残したんだなと感じます。これは全部、半藤さんの仕事に当てはまるんですね。半藤さんは、権力者や代表者の目ではなく、市民の目で史実を見る。それを今度、平易な文体で書く。人間があのような愚かなことをしたことを、どのようなことばで、どのような視点で語り継ぐのがいいのかと常々話していました」
1月12日、半藤さんは、老衰のため、亡くなった。
妻の末利子さんによると、自宅で静かに息を引き取ったという。
その日、半藤さんは末利子さんに、こう話しかけた。

「日本人は、そんなに悪くはないんだよ」
「墨子を読みなさい。2500年前の中国の思想家だけど、あの時代に戦争をしてはいけないと言っているんだよ、偉いだろう」
半藤末利子さん
「夜なのにはっきりと言って、また静かに、眠りにつきました。私への遺言のように思ったけど、私を通して、少しでも多くの人に伝えたかったのかもしれません」
保阪正康さん
「僕は亡くなったあとも、半藤さんと会話しているんですよ。『半藤さん、こういうときってどうする』って」
「僕は、半藤さんの歩んだ道を歩みたい。半藤さんの精神や哲学、歴史と向き合う姿勢を守って、実証主義で歴史を見るという道を日本の中に定着させたい。この道を絶やさないように守り抜く、それが半藤さんへの約束事だと思います」
事実で、歴史を語る。
歴史を、都合良く解釈しない。
むずしいことをやさしく、やさしいことはふかく。
ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く。

記者として、いまという時代に向き合い、事実を伝える責務がある私にとって、ゆるがせにしてはいけないことばかりだ。

あの戦争に向き合い続け、その愚かさや残酷さを痛感したはずの半藤さん。
最期に、最愛の妻に、「日本人はそんなに悪くはない」ということばを残した。
そこには、どんな思いが込められていたのだろうか。
何を伝えたかったのだろうか。

その真意を、もう聞けないと思うと、残念でならない。
社会部 記者
横井悠
2007年入局 環境・司法・皇室の担当を経て現在は事件や国会など幅広いテーマを取材